100 兄と弟
「バスクス二世陛下におかれましては……」
儀礼通りの謝辞を長々と述べて叩頭すると、すぐさま表をあげろと声がかかる。
目を合わさぬよう僅かに額を下に向けて、コンツェは顔を上げた。
「恐いのか」
ふ、と笑う皇帝の吐息が聞こえる。突然かけられた声に、何のことかと心中で首を傾げるが、
「私の顔を、見たことが無いと聞いている。いや、ずっと見ないようにしてきたか」
コンツェは思わず、下げていた目線を上げてしまった。
「嫌悪の対象と似ているのは苦痛でならない、のであろう」
目に映るのは彫りの深い、鋭さを掻き集めたかのような顔。女狂いの政治知らずと聞いていたから、さぞかし優男なのだろうと思っていたのに。これは……、
「どうだ、鏡を持って来させたほうがよいか」
その言葉にようやく真意を汲んで、コンツェは苦笑した。
「いいえ、必要ありません。ここへ来るまで、さんざん鏡と睨み合って参りましたので」
似ていない――バスクス帝と、自分とは。容姿も性格も、おそらくは女の好みすら。
安堵に、身体中に込めていた力がするすると抜けていく。
今までいったい何年、自分はこんなに小さな――似ているかもしれないという不安に、凝り固まって生きてきたのだろう。自分の父がテナン公でないと、知ったときとは逆の衝撃に揺さぶられる。
「何も涙の再会を望んでお前を呼んだのではない」
バスクス帝は立ち上がって、何歩か歩く。見下ろすような位置に立ち、コンツェをじっと見すえた。
「父帝は、色々不穏な種を撒きすぎた。私が無能でいられるのも、もうさして時間が無くなってしまった。お前は選ばねばならん。私か……いや、イクパルかテナンかを」
「……は、」
驚きをこめて、皇帝の顔を見つめる。
選べとは……どういう意味なのか。国を捨ててイクパルの軍役に就けというならば、公子としての謁見など通らぬはず。
テナンが帝国に対して独立を宣言しようとする今、そのつながりは戦争でしかない。
選んだら、どちらかで戦わなければならないのだ。
「今すぐとは言わん。だが必ず選べ。私は気は長いつもりだが、そうは言ってられん状況にある」
鋭い眼光の奥に潜む静かな炎。
それを人は何と呼ぶのかわからない。野心、英知、策謀……父はこの男を、無能だと言い切ってはいなかっただろうか?
「……はい」
ふと見やると、玉座の向こう――ほとんどこちらからは死角になる――薄布の仕切りの裏に、思いもよらぬ人物を見る。
ウズの下で小姓をしているはずの少女。あの仕切り布の後ろは……陛下の寝室しかない。
「フェイリット?」
擦れた声で思わず口に乗せたのを、バスクス二世は気づいただろうか。
「よく考えて、また顔を出すがよい」
そう言われて、来たときと同じように礼をする。
下がり際、再び仕切り布の方へ目を移したが――彼女の姿はもうなかった。
* * *
「驚いたか」
滅紫の仕切り布がふわりと開いて、バスクス帝が姿を見せる。
まるでこちらの反応など、もとよりわかっているような眼差し。
フェイリットは怒りを込めて、バスクス帝の黒い瞳を見上げた。
「おっ、驚きましたよ!」
コンツェがバスクス帝の弟だなんて――驚くも何も、いったいどういうことなのかわからない。
コンツェはテナン公国の第五公子で、生まれたときからテナン育ちのはずだ。
バスクス帝と異母弟だとしたら、彼が生まれて三年後、先帝がコンツェの母親と関係を持ち、しかもそれが公表されることなくテナン王の嫡出として生まれていることになる。
バスクス帝は小さな息をひとつつくと、ゆっくりと肯いて見せた。そうしてフェイリットの前に立ち、
「ざっくり言えば、私の父がテナン公妃に手を出した、というわけだ」
低い声で言い放つ。
「そして公妃は懐妊に気づいたのちも、父の側室としてハレムに入宮するのを拒絶した」
「………」
聞きながら、フェイリットは自分の口がぽかんと開いていることに気づく。
あっさりと言うが、実は大変なことだ。
コンツェの母親がテナン公妃――つまりテナン王の正妃だというなら、それを皇帝がやすやすと寝取ってしまったということになる。
権力を傘に…なのだろう。
「何だか……」
女好きだった先帝、女狂いを演じる現帝……因果なのか宿命なのか。
ここまで知ってしまうと、いっそ笑えてさえくる。そう思いつつバスクス帝を見上げると、こちらの複雑な思いなどなんのその、着替えなど始めている。
「あ、お手伝いします」
フェイリットは彼の背中へまわって、手をのばした。
広い背に纏う衣裳は、まるで砂漠にひろがる陽の隠れた夜空の色。
紫だけれど、どちらかというと藍に近い深い色だ。腰の紐を解いて、衣裳をすると引き下ろす。
「〝何だか〟?」
美しい布地が取り払われたそこに、背をのたうち醜くただれた瘢痕が現れる。
……これが本来のバスクス帝なのだ。牢獄に五年の歳月を過ごし〝狂った〟とされた皇子は、父親の死を以って皇帝へと返り咲く。
図れぬ理知とその信念を隠しながら。
「〝何だか似ている〟か」
ふと、前をむいたままのバスクス帝がつぶやく。
「いえ。ええと、でも陛下、陛下もずいぶん女好きだって…アンが」
「ふん、女好きとは」
振り返りざまに手を掴まれて、フェイリットは思わず身を引く。
「お前も本人を前によく口が開くな」
バスクス帝の低い声がゆったりと返される。
まるで伽噺を紡ぐような、なめらかで優しい口調だった。
「ほ、本来なら喜ばしいことです。一国の長が女好きじゃなければ、跡目は生まれないし、そうしたら国も続かなくなるし、栄えなくなるし……」
「そう思うか」
「お、思います」
「本当に?」
近づけられた眼差しから、フェイリットは目を反らして肯いた。
本当なはずがない。バスクス帝が他のジャーリヤと楽しそうに語らう姿は、顔をそむけても胸が痛い。
彼の視線が他へ移ろうだけで、こんなにも苦しいのに。
「本当です! って、え?」
唐突にも抱き上げられて、フェイリットは首を横に振る。
「とっ! な!! ディアス!」
「もう何を言っているのかわからんな」
暴れようとするフェイリットの背中をポンポンと撫でて、バスクス帝は寝台へと腰掛けた。
その膝に抱いたまま乗せられ、黒の瞳が目前に迫る。
「私は、お前の夫たるには不足か?」
重なる唇を拒むことを忘れてしまう。フェイリットは目を見開いて、頭の中が白く霞んでいくのを感じた。
今、物凄いことを言われた気がするのに、ままならない呼吸のせいで頭がまったく回らない。
ずるずると寝台に寝かされて、気づくと彼の顔が目の前にある。
「あ、の……」
切れ切れの息でそう言うが、彼はただ目を細めただけだった。
――コンツェがバスクス帝の弟……。
そして父親が先帝アエドゲヌなら、コンツェには帝位の継承権が与えられているはず。
では、彼が目論む次の皇帝は、コンツェなのだ。
「……何を考えている」
――年の頃もちょうどよかろう。
そうバスクス帝が言ったのはいつだったか。けれど、はっきりと覚えている。選ぶべくもない、お前は新しい皇帝に組し、メルトローとの繋がりを持てと、言われたのだ。
けれどコンツェは、どちらを選ぶのだろう。
「フェイリット」
覗き込まれて、フェイリットははっとする。バスクス帝はどうやらずっと、のし掛かったままこちらを眺めていたらしい。
「あっ! ええと。陛下のこと考えてました」
本当のことだったが、バスクス帝はふっと眉をひそめると、仕方ないような顔をして息をついた。
「……目の前にいるだろう」
髪を梳いて、頬を撫でていく大きな手をそっと捕まえる。
「ディアス、」
その手を抱きしめるようにして、フェイリットは目を閉じた。
「あなたがそうしろと言うなら、わたしは何でもします」
ゆっくりと目を開けると、バスクス帝は笑った。柔らかく目を細めて、ため息のような息をつく。
「この状態で男にそういうことを言うなら、覚悟はしているのだろうな」
「は……? いいえ! そういうことじゃなくて!」
契約を結ぶには、どうすればいいのだろう。
渦巻いていく彼の道が、死へつながらぬ為にはどうすれば。
――そのことばかりを考えながら、フェイリットは彼の肩すじにしがみついた。