第92話 わかんなくていい話
喉の渇きで目が覚めるという初めての体験をした。
口は砂漠のように乾ききっていて、少しでも動かせば切れてしまいそうだった。
そんな不快感にとりあえずまだ生きているんだろうということを自覚しながら、武蔵は身体を起こす。
「あら、案外早く目が覚めたわね」
ちょっとした苛立ちが混じるそんな声誘われて、寝違えたように動かしにくい首を回すと、椅子に座って握り飯を頬張るカルナの姿があった。
「食べる?」
「いらない……それよりも水が欲しい」
たったそれだけの言葉を紡ぐのに唇が切れる。
案外早く目が覚めたと言われる割には、長いこと寝ていたような感覚だった。
「なによ、せっかく作ってあげたんだから、ちゃんと食べなさいよね。
食べれば回復も早いわよ」
「今、水も無しでおにぎりなんて食べたら、絶対に詰まらせて死ぬ」
「死ぬ気だったのに、変なこと気にするのね」
「……………」
「はい、水」
水差しから水を注いだ木の器を受け取り、無言でそれを一口湿らせた。切れた唇が少しだけ沁みて痛かったが、それで少しだけマシになった。
「別に死ぬつもりだったわけじゃないよ……ただ、死んでもいいかなって思っただけ」
「同じじゃないっ」
苛立ちどころではない。今度こそはっきりと怒りを滲ませながら、カルナが睨む。
怒りの理由も明確なだけに、武蔵は何の反論もできずに、無言のまま自室のベッドから起き上がろうとして――カルナに押し倒された。
ベッドに押さえつける力にそれほど力強いものを感じないが、それでも武蔵はそれに抗うほどの力も残ってなかった。
「カルナ、退いて。パールが心配だから」
「パールにはサラスが付いてる。心配ないわ」
そう言えば、気を失う直前にパールを押し倒すサラスを見たような気がする。
本当にそれほど時間は経っていないのかもしれない。
「……それでも、心配だから」
「もしっ――もし、パールがあんたを殺したら……あたしがパールを殺すわ。魔法の杖なんかに殺させてあげない。あのとき死んでおけばよかったって思わせるくらい、惨たらしく、殺すわ」
「……………」
もうとっくに塞がっている肩の傷が疼く。
一生消えることのない傷跡だけれども、そこにもうなんの禍根もないはずだった。むしろ名誉の負傷くらいの気持ちでいた。
パールにとっても、カルナにとっても、これを消えない傷にしたくない。
カルナの怒りは正しい。
逆の立場であれば武蔵だってきっと怒っていた。
それでも武蔵は、彼女が望むなら、パールと一緒に死んだって構わないと思うのだ。
「……父親としちゃ、こりゃ複雑な気分になる光景だな」
「―――――っ!?」
気まずい沈黙が続く中、予想してなかった第三者の介入に、カルナが慌てて武蔵から飛び退く。
ベッドに男の子を押し倒している光景をどう見るか――
「逆ならムサシをぶん殴ってもいいとこなんだが、どう見てもウチの娘からだろ。よりによって、なんだって不倫関係を求めるかね。
ん、この場合もやっぱムサシをぶん殴ってもいいのか?」
「ち、違う!! そんなんじゃないわよ!!
――ってか、不倫!? ……不倫なの? ……そう、不倫……」
なにか思うところがあるのか「不倫、不倫」と呟くカルナを無視して、ヨーダはさっきまでカルナが座っていた椅子にどっしりと腰を降ろした。
「カルナ、悪りぃけど、ムサシと二人で話させてもらえねぇ?」
「ふ、不倫なんかじゃないわよ!?」
「わかってんよ」
「……殴らない?」
「……殴んねぇ」
「そう……」
どんな話をするつもりなのか、とても後ろ髪引かれている様子だったが、それでも渋々とカルナは父親の言いつけ通りに部屋を出て行った。
「……あー、そっかぁ……ヤなもん見ちまったな。
んな、勝ち目のないとこばっか好む性格だけ似ないで欲しかったわ……」
ヨーダはそんなカルナの様子を珍しく本当に困った顔で見送っていた。
「……なんの話?」
「テメェは一生わかんなくていい話だ」
珍しく怒った様子。カルナの怒りと違い、全く心当たりがない。
「えーと、行ってもいい?」
「ダメだ。話させろって言ったろ」
「一生わかんなくていい話じゃなくて?」
「ちげーよ……いや、違わねぇか」
要領を得ない会話に武蔵はただただ困惑するばかりだ。
そんな武蔵の様子に苦笑いしながら、
「……オマエは、大切な人を殺すってことがどんなことかわかんねぇだろ」
「……………」
ヨーダはカルナの母親を殺した。
そのときどんなやり取りがあったのか、武蔵はついぞ聞けなかった。
しかしヨーダがその人のことを好きだったことだけは、なんとなくわかった。
「オレはわかるぞ。
言葉になんてとてもできねぇけど、それがどんな気持ちなのか、オレにはわかる。
こんな気持ちを……オマエは一生わかんなくていい」
それはきっと苦笑ではなく、これが武蔵が望んだ姿だと見せつける、そんな自虐的な笑みだった。
だけど、それを見せつけられてもなお武蔵は反駁する。
もうどうせ元の世界に帰れない武蔵が、病気に恐怖するパールの救いになるのなら、この命投げ出してもいいと考えるのはいけないことなのか?
そんな反発心を感じ取ったのか、
「……オマエは、パールに、こんな気持ちを背負わせんのか?」
「あっ……」
ズルいと思った。だけどそれは何よりも武蔵が考え改めるのに効果的な言葉だった。
「パールが、オマエを殺して、後悔しないと思うのか?」
ヨーダはそういう大人だった。
この国の舵を取るなかで唯一、間違っている子供がいたら容赦なく叱り付ける大人だった。
本当に容赦なく――
「パールが死ぬ悲しみから逃れるために、パールに甘えんじゃねぇよ」
武蔵がパールのことをちっとも考えてないと指摘してみせた。
涙が止まらなかった。
それは悔しさなのか、情けなさなのか、それとも絶望感なのか、武蔵にはわからなかった。
「……だけど、俺は……俺は……どうしたらいい?」
本当にもう、ただただ、どうしていいかわからなかった。
パールを失うことがただただ怖かった。そうなるくらいなら、先にパールから逃げ出してしまいたいと思うくらいに、ただただ怖かったのだ。
母親を失って引きこもってしまった真姫を見てきた武蔵には、余計にそれが怖くて仕方がなかった。
以前、カルナが武蔵に指摘していた。
『ムサシは、大切な人を亡くしたことないでしょ?』『あんた、やっぱり人の死に慣れてないのよ』
本当にその通りだった。
武蔵はそれを思うだけで、まるで自分こそが死ぬのだとばかりに、心が張り裂けそうだった。
それは奇しくもパールがサラスに尋ねたことでもあった。
そしてヨーダもサラスと同じように答える。
「さあな……だけど、パールはまだ生きてんだろ。まだ死んだわけじゃねぇ。
泣くな。諦めんな。オマエには”勝利の加護”があんだろ?
ソイツは諦めない限り、オマエに必ず勝利をもたらすもんだろ」
「勝利の加護……」
この力はこんなものにまで有効なのだろうか?
病気に勝つ――それも武蔵自身がではない。パールが勝つことを信じていれば、パールにだって勝利をもたらせるものなのだろうか?
「あん? パールんとこ行くのか?」
だとしてももう止める気はないようだ。
言葉と裏腹に、徐に立ち上がる武蔵を、ヨーダは邪魔しなかった。
「……今はまだ、パールに会わせる顔がない。
……ちょっと、一人で考えたい」
行く当てなんてなかった。
それでももし、どこかにパールを治す手段があるのなら、武蔵が諦めたくなかった。
一人で考えたかったのも事実だ。今は、パールに限らず、誰にも会いたくないという気持ちもある。
だけど、ただ治療法が見つかると信じて、歩いてみたかった。




