第08話 穏やかな夕暮れに響く異国の言葉
歌詞のない子守歌はずっと響いていた。
ハミングだけで奏でられるそれは、武蔵の心の奥の奥まで染みていく。
音楽に国境はないと言うけれども、それは本当だったと実感する。
目を覚ましたとき、すでに室内には西日が差し込んでいた。
こんな状況で本当によく眠れたなと思うと同時に、武蔵はすぐ側で響くメロディーに耳を奪われた。
夢現の中で確かに音楽が流れているような気がしていたが、まさか現実にこんな近くから発せられたものだなんて思わなかった。
ベットのすぐ側で椅子に座ったサラスが目を瞑り、鼻歌を奏でいた。
その膝の上では先ほどの女の子が上体を預けて幸せそうな寝息を立てていた。
サラスは武蔵が目を覚ましたことに気付かないで、女の子の背中を摩りながら鼻歌を唄い続けている。
それを止めるのはあまりにも無粋のような気がして、武蔵はそのまま彼女たちの様子を見守る。
願わくばこのまま時が止まればいいとさえ思う。
それほどその光景は幸福に満ち溢れていた。
歌が途切れたタイミングを見計らって武蔵は上体を起こして小さく拍手をした。
サラスの顔が赤くなっていると感じたのは、歌を聞かれてたことが恥ずかしかったからか、それとも単に夕日のせいかわからない。
そしてそれから彼女は気まずそうに顔を伏せた。
あまり似合わない顔だなと思った。
――これは通じるだろう。
「サラス」
呼びかけて、彼女がこちらを見るのを確認して、武蔵は自分の口元を両指で引っ張った。
「笑って」
そう言って、武蔵は彼女に笑いかける。
サラスにその意味は通じたのだろう。
ニッコリと微笑み返してきた。
そして女の子の背中を軽く叩いて起こす。
女の子は眠そうな目を擦りながら顔を上げ、武蔵の顔を見るや否や慌ててサラスの座る椅子の後ろに隠れてしまった。
サラスはそれが面白かったのか、くすりと笑い、そして立ち上がる。
改めて真剣な眼差しで武蔵に向きなおって、なにかを口にして――少し考え直してから、言い直す。頭を下げながら、一言、
「ゴメンナサイ」
「―――――」
それはまさに片言の日本語だったけれども、一日ぶりに自分以外の声で耳にした日本語だった。
サラスは牢屋で武蔵が謝罪したときの言葉を覚えていてくれたのだ。
それがあのシチュエーションからどんな意味で使われる言葉かわかってくれて、そしてこの瞬間、使うべき言葉だと思って発したのだ。
恐らく、武蔵と女戦士を無理やり戦わせたことに対する謝罪か――。
あるいはこの場所に武蔵を連れてきた謝罪か――。
武蔵にそれがどちらなのかわからなかったけれども、ただそれでも推測できることがある。
武蔵をここに連れてきたのは、サラスだ。
そしてそれが意図的なのか、偶発的なのかわからないけれども、彼女はここで武蔵になにかをしてもらいたいと思っているのだ。
それがなんなのかわからない。それこそ言葉を交わし合えるようにならなければ、わからない。
コミュニケーションを成立させないとわからないのだ。
そしてもう一つ。
これは直感に近いことだけれども――。
――恐らく、それを成さないと、帰れない。
ここが異国なのか、異星なのか、異世界なのか、それすらわからないのに、それでもなにかを成さないと帰れないという予感だけはあった。
ここに来て丸一日。
今頃両親は心配しているだろう。なにか事件に巻き込まれてしまったのではないかと、不安がっているだろう。
そして友人たちは今頃武蔵のことを探し回っているのではないか。真姫を一生懸命元気付けようとバカやって騒いで励ましてくれた彼、彼女らが武蔵をほっとくわけがない。
そして真姫は――真姫は一年前の真姫に戻ってしまっているのだろうか。半狂乱で泣き叫ぶ真姫の姿を、もう武蔵は見たくない。
強く、帰りたいと、思った。
そして、また――。
未だに頭を下げ続けているサラスを見る。
長い黒髪が床についてしまっている。そんなことも厭わずに彼女は武蔵に謝罪している。
それがなにか頼み事をしているようにも見えた。
昨晩の出来事は忘れない。
言葉が通じない恐怖を、なにも理解できない不安を、どうしていいかわからない絶望感を。
そして、柵の外から差し出された手の温もりを、助けられた喜びを、通じ合えた感動を。
武蔵は一生忘れることができないだろう。
強く、彼女の助けになりたいと、思った。
「サラス」
この一日だけで何度彼女の名前を呼んだのだろう。
しかしそれも当然だ、この世界の言葉を武蔵はまだそれしか知らない。
この世界ではまだ生まれたての子供のようでしかないのだから。
だからもっと知りたいと思った。
サラスともっと話をしたいと思った。
サラスのことをもっと知りたいと思った。
サラスが顔を上げる。
「よろしくお願いします」
その眼前に武蔵は手を差し出す。
昨晩、サラスから武蔵に手を差し伸べてくれたように。
そしてサラスは、その手を握った。
満面の笑顔で、
「ヨロシク、オネガイシマス」
そう言ったのだった。