第87話 学園ムングイ
宮本武蔵の朝というのは、日の出と共に始まる。
それは遠い異国の地に飛ばされる前からの習慣であり、朝の弱い友人が多いなかで変人扱いされていた。真姫は「健康的過ぎて不健全」と称していたのは、それで彼女を起こしに行くことも併せて日課になっていたからだ。
母親も、武蔵も、彼女を起こしてくれる人間は二人ともいなくなってしまった。
――真姫はもう一人で起れるようになったかな。
そんな割り切れた思いすら浮かぶのは、武蔵がこの世界にやってきてすでに一年が過ぎようとしていたからだ。
――一年。
真姫が母親を失ってから、その事実を受け入れられるようになるまで一年かかった。
武蔵はもう死んでいる。それを受け入れられるのにも十分な時間が経っていた。
不思議とそのことにもう焦りは感じなかった。
彼女が一人で起きられるようになっていれば、それでいいと思うくらいには、生活の比重がこちらに傾いてきているということだった。
ただもし彼女を起こしに来る誰かができていたらと考えると、錆びた鉄がこすれような鈍い音が心に響く。その程度の空しさだけは僅かに残していた。
「だけど、俺だって今は別に起こさなきゃいけない人がいるしな」
何かに言い訳するように呟いて、部屋を出る。
そうして向かった先は、朝焼けがまるで沈む夕暮れのように、淋しく感じる場所だった。
「Wake up、サティ。Wake up、ウェーブ」
朝の日課のような挨拶を済ます。
起きてと呼びかける二人は、未だ目を覚まさない。
ふとすると昔からこの状態だったのではないかと思ってしまうほど、もうどちらも起きている姿よりも寝ている姿を見ていた時間のほうが長くなってしまった。
ただそれでもいつか「Good Morning」と言う日が来ることを願っている。
それは毎朝同じように、この場所に朝の挨拶に来るパールとサラスも同じようで――
「そのせいで大変なことになってんだからな」
二人の母親に聞いてもらうように、思わず愚痴が零れる。
サラスもパールも真面目過ぎた。
恐らく、この二人が起きてくれたら、武蔵の抱えた憂鬱なんて簡単に解決してくれるだろう。
「通訳のサティなんだろ。早く起きて仕事してくれよ」
それはサティが武蔵に最初に名乗った役割だ。懐かしさに思わず笑みが零れる。
それでも毎日の日課とかした武蔵の今の役割を思えば、天を仰がずにいられない。
「……日本語、嫌い」
日本語で、日本語で喧嘩を売りながら、今日も武蔵の一日がスタートした。
◇
「はいっ、センセー! 『ウラシマサンはカメサンに連れられて、リュウグウジョウでタマテバコをもらいました。』このでにをはってなんでこれを使うんですか?
『ウラシマサンをカメサンで連れられて、リュウグウジョウにタマテバコはもらいました。』じゃダメなんですか?」
「……………」
パールに日本語を教えるようになってから早三ヵ月。
拙い講師の下ではパールに教えてあげられることは少なくなっていた。
如何に国語の授業をサボっていたかを痛感させられる。てにをはがどうとかを習ったような記憶はあっても、日常ではそれは感覚的に使用していたに過ぎず、それがなんとなく違和感があるように思えても、はっきりとした理由で間違いを指摘できずにいた。
「……パール」
「はい、センセー」
「もう免許皆伝でいい?」
「メンキョカイデンってなんですか?」
「もう教えられることはなにもないってこと」
「えー、でもでも、サラスほど上達してないよ?」
二人しかいない宮本武蔵国語教室の天才児である。
「サラスはね、クラスで一人はいるっと言われる、本当に勉強しないでも満点取っちゃう天才児タイプだから。栄介とか、倉知タイプの人間だから、比べると卑屈になるからよくないよ」
「エースケ? クラチ?」
最初はパールに勉強を教えている武蔵を見て面白がって見ていただけだった。本当に見ているだけだったのが、気付いたらパールを差し置いて日本語ペラペラになるどころから、
「あ、ムサシ、見て見て、できた!
これ合ってる? ねえ、合ってる?」
サラスが見せつけてきた紙には、達筆な文字で、
『生憎、生まれてこの方、勉強に生きたことはなく、生い立ちは生涯王であります、生意気な生徒でごめんね』
と書かれていた。
漢字はいくつも読み方があるとパールに説明していた横で、なにか考えていたと思えば、高尚な言葉遊びに勤しんでいたようである。合ってるかどうか聞かれても困る。『生憎』だとか『生涯』なんて漢字を教えた覚えはないし、そもそも武蔵自身が書ける自信がない。一体どうやって覚えたのか謎である。
「……これくらいできるようにならないと、ニッポンゴを覚えたって言えないよね?」
「大丈夫だパール、これくらいできなくても十分日本語を覚えたって言えるから」
ぶーぶーとブーイングを飛ばすのも、武蔵が教えたことだ。
変なことを教えてしまったと後悔しながらも、それでも心の底では楽しそうにしているパールの様子に、少しだけ安堵をする。
パールの病気が判明してから三ヵ月。時に武蔵もそのことを忘れてしまいそうなほど、あれからパールの体調はすこぶる順調だった。
ともすればサラスの誤診だったと思いたいほどだったが、それでもサラスはいつどこで貧血や発熱の症状を起こしてもおかしくはないと、繰り返し武蔵に注意を促していた。
「代わりにまた、日本のこと教えるからさ。それで勘弁して」
「ほんとうに?」
「ああ、俺が知ってることだったらなんでもいいよ」
そもそもパールの最初のお願いがそれだった。
あくまでも日本語を教えて欲しいではなくて、武蔵の生まれ育った場所のことを知りたいと言ってきたのだ。
武蔵が教えられることなんて自分の生活圏の話――とりわけ学校の話がメインになるわけだが、パールは殊更その学校という空間に興味を持った。
この国には教育システムがない。基本は親から子へと引き継いでいくばかりで、集団でものを教わることはないという。
何より物心ついて以降もしばらくはアンドロイドとしか育ってこなかったパールとしては、同年代の子供が数百人も一緒に暮らしている状況が、単純に興味深かったようだ。
「わたしもガッコに行きたい」
同年代の子供を数百人単位で揃えることはできなかったが、それでも見せ掛けだけでも学校の真似事をするに至ったわけである。
「さて、今日はなんの話をするかな……」
住んでいる国のことはおおよそ話をした。一億人以上の人がいると話をしたら、サラスに驚かれた。
食事を話をすると、多少無茶でも似たようなものを作って欲しいとせがまれて困ってしまうので、なるべく避けたい。
機械の話を始めると、どこからかヨーダが聞きつけて尋問を始めるので、これもできれば止めておきたい。
おとぎ話の類はパールの受けはいいが、日本語の教材として使ったため武蔵のなかではネタ切れ状態だった。
「ムサシくん、ムサシくん、わたし聞きたいことがある」
「ん、なにかな?」
「ニッポンではどうやって結婚するの?」
「どうやって結婚?」
「ムサシくん、わたしの頭を触ったじゃない? でも、ムサシくんの国では普通じゃないんでしょ?」
「あー、プロポーズか」
「ぷろぽーず」
恋愛して結婚してというのがどういう感じなのか、武蔵にもよくわからなかった。武蔵もその点で言えばまだまだ子供だった。
しかし武蔵の国で求婚がどういうものか答えることは簡単だ。
「指輪をね、贈るんだ」
「指輪?」
「そう、結婚指輪。それはペアで用意して、お互いの左手の薬指にはめるんだよ」
「うーん、指輪……」
それが予想外の答えだったのか、パールは考え込むように眉間に皺を寄せ始めた。
「ムサシの国には、まだ指輪を贈り合う文化が残ってるの?」
「残ってるってことは、ムングイにもそういう習慣があったのか?」
「大昔はね、そういうことをしてたみたいなの。でも装飾品って高価だし、鉄も武器にすることを優先しちゃってたから、なかなか手に入らないの。代わりに牛を贈ったり、土地を贈ったりしたりもしてたみたいだけど、それはそれで大変だったみたいで、いつの間にかやらなくなったみたいなの」
「それはまた現実的な理由だね……」
「みんな日々の生活を送るだけでいっぱいいっぱいなの」
国民の生活を案じてか、こちらもまた眉間に皺を寄せるサラス。気付けば不景気な顔が二つ並ぶ絵面になってしまった。




