第80話 世界の果て
この島には名前がなかった。
それは名前をつける理由がなかったからであり、つまりは他に区別しなくてはいけないような島がなったからであり、つまりはこの世界は島一つだけで構成されているということであった。
武蔵からすれば海の向こうには別の島なり大陸があるものだったし、そうでなかったとしても星を一周して同じ場所に帰って来るものだと考えていた。
「おや、知らなかったかい?
うむ。この国には沖合に出るような船もないから、知らない若者もいるのかもしれないね」
妙に年寄り臭いことを口にするロースムに、武蔵は何も言えなかった。
言われてみれば、この国はこれだけ海の近い場所なのに、桟橋程度のものはあっても、港と呼べるような場所はなかった。
「――壁?」
ロースムに習って海の向こうを眺めてみるが、そこには壁と呼ぶようなものはどこにも見当たらない。この世界に来たばかりの頃は、言葉を覚えるためにサラスと一緒に散々出歩いた。そんな簡単に見つかるようなものであれば、そのときに気付きそうである。
「壁とは言っても、厳密にそれは壁じゃないよ。
そこから先は海が途絶えていてね、空だけになるんだよ」
「空だけ?」
「そう。そしてそこに物がぶつかると、まるで跳ね返ったように戻ってくる。だから”世界の果て”とも”壁”とも呼ばれているんだ」
『なに言ってんだオマエ、海なんかに捨てたって、戻ってくんだろ』
ヨーダにさも当然のようにそう言われたのは今日のことだ。それはまさにロースムが言う通り壁にぶつかって戻ってくるということで、この国ではそれが常識なのだろう。
しかし『海が途絶えて空だけになる』という光景が武蔵には想像できなかった。
「いつから……そんなことに?」
ロースムの言葉から、昔はそうではなかったことはわかる。そうでなければ「残っている」だとか「滅んだ」なんて言わないだろう。
何よりもサラスやヨーダが宮本武蔵を知っていた。それは海の向こうに――。
「さあね。それこそいつからかもわからないくらい、遠い昔かららしいよ。
だけどね、海が途絶えてしまっているからと言って、その先に何もないとは限らないさ。海の向こうの世界の果て、さらにその向こうには、別の世界が残っているんじゃないかって私は思うよ」
ロースムの言葉を、武蔵はほとんど聞き流してしまっていた。
今更のようにそれに気付いてしまって――いや、本当はもうとっくに気付いていた。それを気付きたくなくて、無視していた。
サラスやヨーダは宮本武蔵を知っていた。
『遠い昔、北の方の黄色い人の国で、無敗を誇った二刀流の剣士』
サラスはそう言っていた。
つまりそれは海の向こう、北の方に日本という国があったということだ。
――遠い昔に……。
『サラス、今日、なに?』
『今日? 今日は12月20日よ。あ、ええっとね、4770年の12月20日』
『4770年……』
ムングイ語を覚え始めたばかりのころ、この世界が実は二千年以上先の未来なのではないかと考えたことがあった。
今更ながら、それが正しい推測だったのではないかと思う。
この世界を異世界と呼ぶにはあまりにもおかしいと、この世界にやってきたばかりの頃から感じていた。
アルファベット、英数字、食材や動植物。この世界は武蔵の知る世界と共通点が多すぎる。異世界と呼ぶには、あまりにも似過ぎていた。
ゾンビやアンドロイド、そして魔法の杖――魔王アルクと呼ばれる存在に関わってから、この世界が武蔵のいた世界とは別であると考えることに違和感を無くしていたが、それらでさえも実は未来であることを示唆しているようでならない。
だとすれば、魔王のやろうとしている『異世界転移実験』とは何か?
「元の世界に帰りたい」
魔王アルクにとっての元の世界とはどこのことを言っているのだろうか?
「ここまででいいよ」
不意にロースムに声をかけられて、武蔵は自分が物思いに耽っていたことに気付いた。
いつの間にか砂浜どころか、町外れまで来てしまっていた。
「すみません、なんかボーっとしていたみたいで……」
「そうみたいだったね。大丈夫かい? なんだか道に迷った子供のような顔をしていたが、無事に帰れそうかな? なんだったら私が送っていこうか?」
ロースムの察しの良さに、この人に頼ればもしかしたら本当に帰れるのではないかと錯覚してしまう。
「いいえ、大丈夫です。俺、あそこの城に住んでるんで」
「そうか、君は偉い人の息子かなにかだったのかい。それはそれは、こんなところまで送らせてしまって、申し訳ないね」
「あ、いや、そういうわけじゃないです。
俺、帰るところがなくて、それで城に住まわせてもらってるというか……」
端切れが悪い言い方になってしまったのは、サキの言葉を思い出したからだった。
『もうこの世界で帰る場所があるじゃないですか』
現実の世界に帰りたいという想いはある。しかしムングイ城をまるで帰るところでないと否定するのに、抵抗感があったのだ。
「そうなのかい? じゃあ、もしよかったら、今後も私の話し相手になってくれないだろうか?
私は毎週はあの海岸辺りを散歩しているから、同じような時間に来てもらえば、また会えると思うよ」
特に断る理由もなかった。
年は離れていてもロースムとは友人のような気さくさを感じていた。むしろ武蔵もたまにムングイ城と関わりのない人と会って話ができれば、いい気分転換になるのではないかと思った。
「いいですよ。俺も基本的には暇なんです。また来週来ます」
「そうかい。嬉しいよ。
では、また来週」
そう言って杖を突きながら歩くロースムの背中を見送りながら、武蔵はもしかしたら来週は会えないかもしれないと考えていた。
『私、魔王に会おうと思うの』
それはサラスの決意ではあったが、同時に武蔵の決意でもあった。
――魔王に会ってみよう。
そして魔王はどこから来てどこへ帰りたがっているのか、それを確かめたかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
紺色の着物姿の女は、”あの人”の言いつけを決して破ることなく、その場から指一本も動かさず、ただひたすら”あの人”の帰りを待っていた。
大人しくて従順な大和撫子そのもののような姿だったが、その内心は嵐のようなものが吹き荒れていた。
今、サキの見えないところで行われているのは、まさしくサキと”あの人”と――あるいはこの世界の命運を左右する出来事に等しい出来事だった。それを知っていて冷静でなどいられるわけがなかった。
それでもサキは”あの人”の言いつけを守った。それを破ってしまっては、この世界の命運が尽きる前に、彼女が彼女足らしめているものが壊れてしまう。
だからサキは”あの人”の身体の一部を抱き締めて、ただひたすらに待ち続けていた。
やがて”あの人”は杖を突きながらゆっくりと帰って来た。
一人で戻って来たことに少なからず驚きを覚えたが、それも表に出さずに、ただ彼が自分のところに戻るまで人形のように待ち続けた。
「やあ、待たせたね」
「いいえ、お帰りなさいませ」
”あの人”が声をかけて来て、サキの時間はようやく動き出す。
跪いて”あの人”の足を、本来あるべきところに取り付けてあげる。
「久しぶりに杖を使ったけれども、やっぱり歩きずらいね。転んでしまったよ」
「それは大変です。お怪我はございませんでしたか?」
「親切な少年に助けてもらってね。どうにか帰って来れたよ」
誰のことを言っているのかを察する。一人で戻って来たので、てっきり接触できなかったのではとぬか喜びをしていた。
「そうですか。ではその少年にお礼をしなくてはいけませんね」
「いや、それはいい。彼は期待外れだったよ」
「――え」
思いがけない言葉に、サキは初めて表情を崩す。
”あの人”の言う通り、武蔵自体は取るに足らない存在である。しかし武蔵を執拗に調べていくことで、彼は必ず帰る方法に行きついてしまうという確証がサキにはあった。
”あの人”からすれば武蔵は三百年間待ち望んだ待望の手掛かりであり、そう簡単に切り捨てられるものではない。それがわかっていたからこそ、サキは”あの人”と武蔵が接触しないように立ち回ったのだ。
「あの少年は、どうやらこの世界がどうなっているのかも気付いていないよ。私がヒントを出してあげたんだがね、それでも見当違いなことを考えているようだった。
あの様子では、あの少年は手掛かりにならない」
「―――――」
ここは残念そうな表情を浮かべる場面である。
そのことはわかっていても、サキは感情が表情に表れないように努めるのが精一杯だった。
身体中が熱を帯びるほど、嬉しかった。
三百年間待ち侘びた手掛かりを”あの人”は手放した。それはつまり、本当に諦めたということに他ならない。それはようやくサキが待ち望んだ”あの人”との穏やかな日々の始りであり、
「―――――」
もう彼の名前を呼んでも許されると、そう感じて口を開いて、
「――バリアンの娘」
開いた口からは一言も発せられることはなかった。
「あの少年はバリアンの娘と一緒にいるらしいね。これは偶然かな?」
”あの人”の眼は、この百年で一番で輝きを見せていた。諦めた人の眼ではない。確固たる目標を見つけた人の眼だ。
「どの道、私たちではバリアンの娘に手出しできない。君たちがそう作られているからね。
しばらくは身を隠しながら、あの少年を通じて探りを入れていくしかないだろう。
なに、時間だけはたっぷりあるからね、ゆっくりやろうじゃないか。ここからは持久戦だよ」
”あの人”がバリアンに目をつけた。
そう――武蔵自体は取るに足らない存在だった。しかし武蔵の存在を介して、バリアンがただ国の政を左右する予見者でないと気付かれることこそが、サキにとって一番最悪な状況だった。
三百年間隠し続けてきたものが、とうとう剥がれ落ちていく。
『バリアンに危害を加えてはならない』
それはアンドロイドたちを縛る法律のようなものである。
彼女たちの生みの親によって私意に刻まれたそれは、彼女たちにとっては唯一の贈り物であり、サキにとっては最悪の呪いでもあった。
バリアンさえいなければ、最早帰る手段などない。
サラスを殺すことが、サキにとっては”あの人”と永遠を過ごすための手っ取り早い手段だった。
しかし、それはできないことだった。
アンドロイドがそのように作られているからだ。
だからこそ――
――バリアンを殺めましょう。それでわたくしがアンドロイドでないことを証明してみせて、”あの人”と本当の夫婦として過ごすのです。
"あの人"がバリアンに疑いにかけているうちは、サキにとっては猶予期間だった。
しかし疑いが確信に変わるのにどれだけの時間が残されているのかわからない。
時間はない。
採れる策もそれほど多くはない。
アンドロイドでバリアンを殺せないのであれば、動かせる駒も限られている。
"あの人"が持久戦を構えているうちに、サキは短期決戦を仕掛けるべく思考を巡らせる。
しかし終ぞ彼女は一番警戒しなければいけないことに気付かなかった。
肝心の彼女の夫は、細い眼をさらに細くさせ、その様子を粒さに観察していた。




