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第64話 トロイの木馬は暴かれた

 パールは走るのが苦手だった。

 狭い部屋で本ばかり読んできた少女は、今まで外で大はしゃぎするということがほとんどなく、よく外で遊ぶようになったのも最近である。


「ちょっと、どうしちゃったのよ、パール!?」


 だから足が遅いことにかけては自信があったが、追いかけてくるパティやシュルタのことに脇目も振らず、今は懸命に走る。


 息も絶え絶えになりながら、目的の給水車がようやく目に入る。

 そこには今日も、ようやくの水不足から解放された住人が列を成し、水桶一杯の生活水を求めてやってきていた。


「その水飲んじゃ駄目ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」


 その水桶を組み終えて、今から家路につこうとしている女性を、パールは跳ね飛ばす。小さな子供一人の力はそれほどでもなくても、不意をつかれた女性はそれで重たそうに持っていた水桶をひっくり返してしまう。


「きゃあっ!? なにっ!? なんなの!?」


 悲鳴と非難の声を上げる女性を無視して、パールは次々と帰路につこうとしている人々を突き飛ばしては、水桶をひっくり返し、給水に待つ人の列に割り込んでいく。そして最前列で水を汲んでいた人の水桶を蹴飛ばすと、給水車のバルブを締めて、これ以上は汲ませないとばかりに腕を大きく広げて列を作っていた人に向かって叫ぶ。


「駄目ぇっ!! こ、この水、あ、危ないっ!! ば、ばく、ばくだんっ!!」


 乱れた息を整えることも忘れて、必死に訴える。

 しかし少女の息の切れた声は人々には届かず、むしろ彼女に対しての怒りが爆発する。


「おいっ!! なにしやがる!! この化け物めっ!!」

「そんなに水を独り占めにしたいのかっ!! 卑しい魔女が!!」

「とうとう正体を現しやがったな、悪魔の娘!!」


 それどころか今までパールがレヤックだと知って忌み嫌いながら、それでもサラスの手前、我慢し続けてきた村人たちは、彼女に対する嫌悪を爆発させていた。


「違うっ、そうじゃなくて、危ないの! 今すぐ離れて!!」


 声が、実際の声も、心の声も、普通の人には理解できない感性で感じ取れるパールは、常人の何倍もの苦痛を受けながら、それでもそれらの悪意に耐えて話す。


 ここには魔法の杖がある。

 水は綺麗かどうかもわからない。

 今すぐ離れないと危ない。


 しかしその声は誰にも届かず、みんなを助けたいという想いは、悪意によって返される。


「パールっ!! ねぇ、ほんとうにどうしたの、パール!? おちついてよ!!」


 パールと給水車を中心に人だかりになってしまっている中を、必死に掻き分けてやってきたパティ。そこに、


「この化け物っ!!」


 誰かが水桶を投げ付ける。


「危ない――っ!!

 ―――――っ!?」


 その水桶がパティに当たる寸前、飛び出してきたシュルトが身を挺して庇うが、それはちょうど彼の頭に当たり、倒れてしまう。


「シュルトっ!!」


 パティが慌てて抱え上げる。彼の額には血が滲んでいるのを見て、パールは――怒りに震えていた。


 ムサシや、サラスのように、パティが好きだと言ったこの村の人たちを、ただ助けようとしたのだ。

 それなのに、どうしてこんなにも恨まれなくてはいけないのか、どうしてこんなにも嫌悪されなければいけないのか。


 ――誰も言うことを聞いてくれないんなら。


 言うことを聞いてもらうようにするだけである。パールにはその力がある。

 パールはこの場にいる全ての村人の心に見えない手を伸ばす。


 これは母が言っていた、命を大切にしないこととは違うとパールは考えた。

 命を大切にするために――彼女は一時的に村人を生きる死体へと変容させて、そして給水車から離れさせようとする。


「止めてっ、パールっ!!」


 全力で力を解放しようとしたそのとき、誰かがパールの腕を掴んだ。

 この場にいる全ての心は把握していたはずだった。本気で自分を静止する声があれば、それは肉声に出る前にパールの心に届くはずである。

 驚きで村人の心から手を放す。それで一時的に放心状態に陥った村人は、我に返る。


「止めないでっ、サラスっ!!」


 パールは自分の腕を掴んだサラスを睨みつける。


「なにが……あったの? パールが、意味もなく、こんな、ひどいこと、するわけないもの、ね?」


 サラスは苦しそうな表情をしながら、それでも先ほどの静止の声とは反対に優しくパールに語り掛ける。

 彼女もまた息苦しそうに言葉を紡いでいて、ここまで必死に走って来たことが伺える。


 ――それとも、心が読めないだけで、レヤックの力の影響は受けてる?


 だとすれば、一瞬でも力を解放しようとしたパールの一番側にいて、あまつさえその状態の彼女に触れたのだ、それ相応の苦痛を受けているはずである。

 それなのにサラスはパールに優しく微笑んでいるのだ。

 ついさっきも同じようにパティに助けられた。それを忘れて、悪意に耐え兼ねて、レヤックの力を使おうとしてしまった自分を恥じた。涙が滲みそうになる。


 だけど、パールはそれに耐えた。

 今は、泣いて甘えていい状況じゃないことを、パールは重々理解していた。


「サラスっ!! ここに、魔法の杖がっ!!」


 村人たちに必死に呼びかけたことが、サラスにはその一声だけでだった。

 サラスは怖いくらい真剣な表情に切り替わる、そして一言だけ叫ぶ。


「カルナっ!!」

「わかったわよ!!」


 そばにカルナも控えていた。

 サラスが叫ぶや否や、彼女は腰に携えた剣を抜き、渾身の力を込めて給水車を叩き切る。

 巨大な木製の樽は大きく切り裂かれ、その間から水が溢れ出る。誰かが「ああ、なんてことをっ!」を叫ぶのを聞き流し、カルナはさらに何度も樽を斬り付けて、


「これでお終いよ!!」


 掛け声とともに見事な前蹴りを放つ。

 いくつも切れ目の入った桶は、その衝撃を最後に中からの水圧に負け、弾ける。


 大量の水を浴びながら、パールはその中心に確かに半球状の物体を目にした。

 それは水が全て流れ落ちることで、すぐにその姿を現す。


 一見、巨大な鉄の窯をひっくり返したような物体だった。

 その中心で数字が次々に変化している部分が見て取れて、一瞬にしてそれがパールたちの技術では到底作り得ないものだとわかる。


「魔法の杖……」


 誰かが呟く。杖と呼ぶには全く似付かわしくないそれを、誰かはそう呼んだ。

 恐らくそれを発した本人も、そんな誰にも届くほどの声量だったなんて思わなかっただろう。それほどまでに、その場に居合わせてた全員がその物体に見入ってしまっていた。


 しかし静寂はそこまでだった。


「魔法の杖だぁっ!! 逃げろぉぉぉぉぉっ!!」


 途端、恐怖と、絶望と、混乱が当たりを包み、パールの胸にもその感情の波が濁流のようになって襲い掛かる。

 その場に集まっていた人は思いのほか多かった。

 皆、我先に、目の前にいる人を押し倒し、踏みつけてでも、逃げることに必死になっていた。


「パールっ!!」


 サラスの短い伝令が飛ぶ。

 彼女の胸中はわからないけれども、それでもそれが何を思っての叫びだったのか、パールには手に取るようにわかった。


 ――落ち着いて。落ち着いて。落ち着いて。大丈夫。大丈夫。大丈夫。


 パールは祈った。

 それは操るのではなく、感情を伝播させるように、波紋のように広がるように、何よりも自分自身に言い聞かせるように、強く強く願う。


 自分の力は人を操るためだけの力ではない。

 人に何かを伝えるための力でもあると、そう教えてくれたのはサラスだった。


 だからパールは一心に祈った。

 このままパニックになって逃げ惑えば、きっと大勢の怪我人が出てしまう。

 大丈夫だから。落ち着くようにと。きっとサラスとムサシがどうにかしてくれるからと。


 祈りは届いた。

 不安の色までは消せなくても、それでも人を押し退けて、踏みつけてまで逃げようとする人はいなくなった。

 皆、冷静さを取り戻していた。


 それを確認した途端、パールはふと身体の力が抜けるのを感じた。


「パールっ」


 倒れそうになる身体を支えたのはカルナだった。


「よくがんばった、お疲れさま」


 彼女の心はよくわからなかった。怒っているような、悲しんでいるような、憐れんでいるような、愛おしんでいるような、そんなグチャグチャな気持ちをパールは今まで感じていた。

 だけど、そのとき触れたカルナの心は、誰かに向けての強い悲しみと怒りのほかに、確かにパールに対しての感謝と労いの感情があった。そして、


「パール、だいじょうぶ?」


 これはパティの声だった。


 感謝と労いと心配。

 口に出してそう伝えてくれる人がいることが、こんなにも嬉しいんだなとパールはそのとき初めて気付いた。

 そして村人を無理やり操ってでも逃がそうとしなくてよかったとも思った。

 そうしてしまっていたら、きっと誰にも感謝も労いも心配もされなかったはずだ。


 まだ何一つ解決していない。

 だけど、一先ずパールは自分の役割を終えたと思い、後のことはサラスとカルナに任せることにした。

 そして、きっと最後の最後にはきっとムサシがなんとかしてくれるだろうと、そんな何の根拠もない自信を胸に抱き、それがこの場にいる人たち全員にも届くよう祈りながら、パールは眠りに落ちるのだった。

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