第37話 取引の履行はまだ
「マリウスさん、撤退して下さい。後のことはヨーダ団長にお任せしましょう。ムングイ城にいる限りは、あの人に見つかることもないでしょう。
念のため、現時点より遡って四十八時間の記録データは百二十四日前のもので上書きして下さい。
ウェーブさんを含めて本日破損したアンドロイド四体の記録も、同日のものを使ってしばらく偽装し続けて下さい。その後の対応はわたくしの方で行います。以上、よろしくお願い致します」
承諾の返信を受けると、この八時間ほど共有し続けていた視覚と聴覚の接続が切れる。こんなにも長時間他機体との感覚を共有し続けたことは初めてだった。オーバーフローにより熱を持ってしまった身体が重い。はしたないと思いいつつも、思わず着物の帯を緩める。人間で言うところの風邪とは、こんな感覚なのだろうかとサキは思いに耽る。
武蔵を牢屋から出し、カルナと別れてから、サキはウェーブの実験場にいたアンドロイドの一体を遠隔で指示していた。本来は人間の記憶をどれだけアンドロイドに移植できるかの実験において、ウェーブを観察、記録するための機体だった。
それが今回捕捉したのが、この世界では珍しい黄色人種の少年だった。
――宮本武蔵。
そうまでして見続けていた少年に、魔王の嫁は考えを巡らせる。
『宮本武蔵』は古い時代の二刀流の剣術家とサキは認識している。ゾンビたちを切り伏せた腕前は見事と言えるものではあったが、まさか本人ということはないだろう。しかし、それでもその響きが偶然であるはずがない。
「わたくしと同じ――日本人ということでしょう」
本来は喜ぶべきことのはずだった。
しかし、どうして三百年も経って、よりによって今になってという思いを、どうしても拭えず、サキは憂いから思わず天を仰いだ。
――ようやく、諦め始めたのですよ。なのに、また、帰りたいって、思ってしまうじゃないですか。
それは、サキにとっても、あの人にとっても、そしてこの世界の人々にとっても――誰にとっても残酷だった。
だからサキが望むのは、ただ一つ。
宮本武蔵と名乗るあの少年が、せめて自分たちの預かり知らぬところで、勝手に死んでくれることだけだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
パールを巡る事件から一ヵ月が経った。
武蔵がこの世界にやってきてから二ヵ月が経つことになるわけだが、前半の一ヵ月と後半の一ヵ月では様々なことが大きく変わっていた。
その中でも大きな変化が、
「ムサシくんっ!!」
「痛いっ! パールっ、痛い! 飛び付くの禁止って言った!」
「えー」
武蔵の背中に飛び付き、まるで木にぶら下がるコアラのごとく張り付いてきたパールを引きはがし、不平を述べる彼女に「めっ!」と叱り付ける。それが反省の意図のつもりなのか「えへっ」と笑みを見せるパール。もちろん全く反省していないのは目に見えてわかるのが、如何せんどうにも毒気を抜かれてしまい、武蔵もこれ以上叱る気力が沸かなくなるのだった。
一度これでせっかく縫った肩の傷を再び開いてしまったこともあり、サラスにこっ酷く叱られてもいるのだが、全く懲りた様子がなく、執拗に武蔵に抱き着いてくる。
――村の子供たちもサラスに飛び付いてたりしてたけど、この国ではそれが子供の遊びなんだろうか?
ただパールに関してはこうして抱き着いてくるのは武蔵に限ってだけであり、そうして抱き着いてきたあとは決まって首を垂れる。
それが何を望んでいるものなのかすぐに気付き、武蔵はパールの頭を撫でる。
「えへへ」
以前は無意識でも避けられていたのが、えらい違いだった。
「うーん……あんまり人前で、そういうことしない方がいいと思うの」
「あ、サラス、おはよう」
「おはよう、ムサシ。パールもおはよう」
「あ……おはよう……」
おずおずと武蔵の背後に隠れながら挨拶を返すパールは、きっとまた怒られると思ったのかもしれない。その辺りの勘が鋭いサラスはすぐにいつもと違うパールの様子に気付き、
「またムサシを困らせてたの? そういう悪い子は、お仕置きしちゃうんだから」
パールの頬っぺたをぐにぐに引っ張りだす。
地味に痛いお仕置きにパールは涙目で「ごふぇんふぁふぃ」と口にするのだった。
とりあえず謝罪の言葉が聞けたサラスは、それで良しとしたのか、パールの頬を解放してあげると、改めて武蔵に向き直り片手を挙げて敬礼。
「はい、料理長、今日の朝ご飯はなにかな?」
「じゃがいもが大量に残ってるからなぁ、ハッシュドポテトでも作ろうと思ってる」
「はっしゅどぽてとぉ」
途端サラスは、目を輝かせるてたどたどしい「はっしゅどぽてと」を感嘆と共に漏らす。彼女のなかでどんな料理を想像しているかわからないが、角切りにしたじゃがいもを揚げたものが出て来たときにガッカリしないか心配だ。
「ムサシの作る料理って美味しそうな響きのものが多いから、出てくるから前から楽しみなの」
「たまに期待外れもあるけど……」
頬を撫でながら引き続き渋い顔でそう口にするパールは、きっと昨晩のトマトリゾットを思い出したのだろう。「リゾット」という響きにこれまた目を輝かせていたサラスに並んで同じ顔をしていたパールだったが、いざ武蔵がホールトマトを作り始めたときから露骨にがっかりしていた。パールはトマトが嫌いだったようだ。
「好き嫌いするのはよくないよ」
「サラスは嫌いなものないの?」
「ふふふ」
笑って誤魔化すサラスだったが、武蔵は煮物もどきを作ったときにサラスが一切手を出さなかったことを知っている。何か嫌いな食材が入っていたと睨み、武蔵はそれが人参じゃないかと当たりをつけていた。次に人参が手に入ったら人参入りハンバーグでも作ってみようと考えている。どんな反応をするか見てみたいと、武蔵は密かに楽しみにしている。
これもまたこの一ヵ月で大きく変わったことの一つだった。
現在、サラスたちの台所は武蔵の領地となっていた。
従来、この役割をサティが担っていたわけだが、そのサティが不在の今、彼女たちの食生活は途端に危機に瀕した。誰も料理ができる人間がいなかったのだ。
正確にはサラスはやる気満々ではあったが、
「頼むから止めてくれ、人には向き不向きがあるんだ」
とヨーダが必死に止めに入った。それどころか調理場に入ることすら禁じた。
過去になにか酷い参事があったようだが、新参者も武蔵とパールにはその出来事を知る由がない。
そんなヨーダはヨーダで「食べれればなんでもいいだろう」と食材そのままの味を求める派――というよりは面倒臭がり屋な部分を全面的に押し出し、かと言って幼いパールに任せるわけにもいかず、なし崩し的に武蔵が担当することになった。
幸いなことに、この世界の食材は武蔵が知るものも多く、また武蔵自身も真姫の面倒を見ていた際に簡単な料理を作ってあげていた経験もあったので戸惑いは少なかった。
もっとも、少なかっただけでアレンジに頼るところは多い。昨晩のホールトマトも絶対に作り方が違うと思いながら、水煮したトマトをぐちゃぐちゃに潰してパールに悲鳴を挙げられた。煮物もどきが所詮「もどき」なのは、サラスたちが仕切りに「ケチャップ」と呼ぶ武蔵の知っている「ケチャップ」とは全く違うソースと醤油の中間物みたいなものを代用に使った結果である。
サラスにもパールにも微妙な反応される料理も稀にある。ヨーダに至っては普通に「マズイ」と言う。
そもそもパールとサティがこの寺院にやってきたのは一年前のはずである。
それまでどうしていたか聞いたところ、
「カルナが作ってたのよ」
意外な答えが返ってきた。「彼女の料理は美味しかった」とはサラスの言葉である。そこが決して彼女の料理”も”とはならないのが、また武蔵としては若干の悔しさがあった。
ちなみにカルナは裁縫も得意とのことで、サラスの衣装をこしらえたのも彼女なのだそうだ。やたらと暴力を振るわれ、睨まれされていた武蔵としては、カルナの家庭的な一面は心底意外だったが、その光景を実際には一度も見ていない。
カルナがサラス達のグループから抜けてしまった。
これもまた一ヵ月前からして大きな変化だった。
寺院内ですれ違うことはあっても、挨拶すら交わせないでいた。
最後にカルナと話したのは、彼女が謹慎処分として入れられていた牢屋から出た直後、突然武蔵の部屋にやってきて「色々ごめんなさい」と謝りに来られてそれっきりだった。肩の怪我の件は間違いないとして、武蔵としてはなにが色々なのかわからなかった。
そしてサラスに至っては、あの事件以来、カルナとは一度も口を利けていないそうだ。
その理由に関しては、武蔵もわかる気がした。
――サラスには、あまりにも秘密が多い。
「ムサシくん、ムサシくん」
「うん?」
「じゃがいも剥くの手伝う」
「ああ、助かる」
そう言って頭を撫でてあげると、パールはまるで日向ぼっこ中の子猫のように目を細めて嬉しそうに笑った。
「はぁ……またそうやって……」
そんな光景をサラスが呆れたように溜息を漏らす。
――そういえば。
「ところでサラス、人前であんまりしない方がいいってのは?」
先ほどパールの頭を撫でていたときに、サラスがそう口にしていた。
朝の挨拶も後回しにしてまで指摘するのは、サラスにしては珍しいことのように感じられ、武蔵として何となく気になったのだ。
「あー……ムサシはわからないのね。うーん……」
なんだか複雑な顔をするサラス。
似たような顔を、パールが武蔵のことを敬称付きで呼び始めたときにもしていた。ちなみにそれを「ムサシくん」と認識しているのは、武蔵の勝手な解釈だった。
「ムサシの国では頭を撫でるってどういう意味なの?」
意味と問われて戸惑う。武蔵としても、その行為に対してどんな意味があるのか考えたこともなかった。
「うーん? 可愛い、とかかな?」
「うーん……大体同じなのよね……」
サラスは眉を八の字にして、ますます複雑な表情を浮かべる。
最近はもっぱらこんなやり取りが多くなってきたように思う。
なまじ言葉を覚えてきた分だけ、それが実は間違った解釈だったり、実は違う認識のものであったり、微妙にニュアンスが違うことだったりして、お互いに驚くことも多い。言葉の壁にようやく果てが見えてきたところで、別の壁にぶつかり、異文化交流の難しさというのを改めて実感する。
そのせいで未だにちゃんと話せていないことも多い。
――アンドロイド、レヤック、アルク。
それらに纏わる根幹を、武蔵はまだ教えてもらえていなかった。
一ヵ月前の出来事に関して、武蔵はただ巻き込まれただけだった。本当にただその出来事の表層に巻き込まれただけで、それらの事情は一切知らされていないままだった。
この件でサラスとは一度、喧嘩紛いの言い争いになった。
あの学校のようなコンクリートの建物から帰ってきた翌日のことだった。
サラスとヨーダに対して、あれらが何だったかのか問い質したときにサラスが「今は話したくない」か「今は話さない」かを言い出して、武蔵は「ふざけるな」とキレたのだ。
あのアンドロイドたちは日本語も喋っていた。
この世界でこれ以上に武蔵との関係を証明できるものはない。
あれらは武蔵が日本に帰るための最短の手掛かりだった。
サラスがあれらに対して話すことができないと言うなら、ここから出て行くと宣言して、その通りに出て行こうとして――サラスに縋りつかれ、頭を下げられて、懇願されて、そして――
『お願い、だから……』
そのときの一言が強烈に頭に残っている。
そして、なぜか初めて名前を呼び合った日のことを思い出して、武蔵は出ていくのを止めた。
今にして思えば、サラスの返事は「今は話せない」だったのだろう。
サラスがそれを話すことに慎重になっているのは何となくわかった。
誤解されたくないというのと、これだけは失敗できないという気持ちが強くて、だからこそそんな些細な認識の違いで言い争いになってしまうような状況で「今は話をしたくない」ということなのだろう。
だから武蔵は待つことにした。
だけど、ただ待つつもりもなかった。
サラスには、あまりにも秘密が多い。
その秘密を少しでも先に暴く手段を、武蔵は持っている。
『そうしたら取引成立よ』
『だったら、これは取引だ』
まだ取引の履行がされていない。




