第02話 その絆は鎖のよう
その日は中学二年になって初めての道場内試合だった。
「わたしも行くわ」
家の前で待ち伏せしていた真姫が、久しぶりに道場に来ると言い出した。
「カッコいいところ見せてよね」
お陰でますます負けられない試合になって――武蔵は反則を取られた後、一本負けした。
相手は師範の息子で、武蔵にとっては同い年で、ライバルでもあった。
ライバルと言っても武蔵が一方的にそう思っていただけで、実力は彼の方が数段上だった。相手はきっと仲のいい友人くらいにしか思っていない。
試合開始直後、武蔵はがなり声を上げて突進した。武蔵らしくない気合に相手が僅かに怯んだのを、彼は見逃さなかった。
次々に打突を放ち、相手が怯んでいる間に一気に勝負を終わらせようと思った。事実、相手はじりじりと後退していた。
このままいけると思い、踏み込んだところで相手が消えた。誘いこまれたとのだと気付いたときにはすでに身体を止めることができずに、武蔵は場外に出てしまっていた。
剣道で場外に出てしまったら反則である。反則二回で一本と同じ扱いになる。
そのあとの武蔵に、最初の勢いはなかった。出鼻を挫かれたことで思うように動けなくなり、アッという間に面打ちを決められて試合終了であった。
「らしくない」
ぶっきら棒でぶつ切りだったが、師範の言葉はわかりやすかった。
その日、真姫には会わずに帰ってしまった。
◇
その日の夜。
不甲斐なかった。全くもってカッコよくなかった。
そんな自分を払拭したいため、自宅の庭で素振りに没頭する――振りをする。
実際は没頭なんかできていなかった。
悔しくて刃筋は乱れ、この素振りがなんの意味も成していないことは自分でもわかる。
――驚いたよ。いや、圧倒されたよ。武蔵って、あんな気合もできたんだね。
試合後、そう賞賛してきた相手に俺はなにも言えなかった。
自分でも礼に欠ける行為だったと自覚して、またそれが悔しさに拍車をかけた。
「――あっ」
顔を上げた先、隣の家に二階の窓でカーテンが動いた。
そこは真姫の部屋だ。
たぶん、見ていたのだろう。
真姫は部屋に籠ることが多くなった。
学校以外は極力外に出たがらない。
外が怖いのだと言う。
今日は久しぶりに自主的に出てきたのだ。
――カッコいいところ見せてよね。
「――くそっ」
玄関に戻り、竹刀を乱暴に立てかけると、台所にいるであろう母親に大声を上げる。
「ちょっと走りに行ってくる」
「今から? もう少しで夕ご飯よ」
「ちょっと近所を一周してくるだけだよ」
「そう? 念のためスマホ持っていくのよ」
去年、大きな地震が起きて以来、母になにかといつでも連絡が取れるようにしたがる。
いざ何かあっても、すぐに連絡が取れるようにと。
「大丈夫だって。行ってきます」
家を出て、走り出す。
家から離れれば、真姫にカッコ悪いところを見られなくて済む気がした。
去年、真姫の母親が行方不明になった。
真姫と二人で親戚の家へ遊びに行った際に、地震に巻き込まれたのだ。
津波に飲まれて、真姫だけが助けられた。母親は一年以上経った今でも行方不明のままだ。
そして、しばらく入院して帰ってきた真姫は、武蔵が知っている真姫ではなくなっていた。
小学校時代は活発でクラスの中心だった真姫は、中学に上がると同時に学校へ通えなくなった。
外に出ること、人と離れ離れになることを極端に怖がり、見舞いにきた武蔵から離れられなくなった。
武蔵は幼馴染として、半年間、樹家で暮らすことになった。
片時も離れたくないと泣き喚く真姫を抱きしめながら寝た。時々、お風呂だって一緒に入ったりもしていた。
そんな生活が半年ほど過ぎて、武蔵が一緒ならという条件で学校にも通えるようになった。
そして中学の友達と触れ合うようになり、徐々に状態が回復してきた。中学二年に上がる頃には、武蔵は久しぶりに一人で実家に帰れるようになった。
「俺はどこにもいかないよ。どこにもいなくならない。大丈夫だから。大丈夫だから」
今でもときどき津波の光景がフラッシュバックするらしい。
そのときはそう言い聞かせながら、真姫を抱きしめる。震える真姫は、それを確かめるように、何度も武蔵の体を摩りながら少しずつ落ち着いていく。
――俺、真姫と一生一緒にいるんだろうな。
幼い頃から、なんとなくそう思ってきた。
真姫もそう思ってきたのではないかと思う。
お互いそれを確認しあったことはない。お互いの裸だって見ているのに、抱きしめあうことが当たり前のような関係なのに。未だにそれ以外の愛情表現はない。
だけどそういった行為以外のすべてに、二人を結びつける鎖のようなものを感じる。
――鎖。
真姫のことを重たいと思わないと言えば嘘になる。
それを嫌だと思ったことは一度もないけれども、自分のなにかを絡めとられているように感じることはある。
宮本武蔵と名付けられた時点で、他人から剣豪として生きることを望まれてしまったように。
樹真姫と幼馴染でいる時点で、二人で一つのように思われているのではないだろうか。
例えば――。
――例えば、俺が真姫以外の誰かを好きになったら。
――真姫が俺以外の誰かを好きだったとしたら。
「……どうなるんだろうな」
くだらないことを考えている。
くだらな過ぎて、ますます情けなくなってくる。
真姫にカッコ悪いところを見せてしまったことがショックで、現実逃避したくなっているのだと思う。
自分の弱さに心底嫌気が差す。だったら、少しでも強くなる努力をすべきだ。そして勝負に勝って、真姫にカッコいいところを見せて、それで――
「それで真姫に告白しよう」
そう口にした途端、少しだけ心が和んだ。
パズルのピースがハマったような気がして、心が軽くなる。
「帰ろう」
気付いたら近所を一周どころか、全く知らないところまで来てしまっていた。
早く帰らないと母親に怒られる。
「ってか、本当にどこだここ?」
知らないどころの話ではない。
なにせ辺り一面真っ白なのだ。多少の起伏もなく、ただ平坦に白が続いている。後ろを振り返っても、今まで走ってきた道はない。
こんな場所、現実であり得るのだろうか。
「えっ、えっ、気絶でもしてるの俺?」
あまりにも頓珍漢なことを言っているのは自分でもわかる。
意識だってはっきりしている。それでも目の前の景色はあまりにも受け入れがたい白さで、武蔵の網膜を刺激している。
「ヤバイ、ヤバイヤバイヤバイヤバイっ!」
焦燥感が募っていく。
まるでもう元の場所に戻れないような、そんな不安が溢れてくる。
「――真姫っ!」
咄嗟に、意味もなく、名前を呼ぶ。
そうでなければ、もう会えなくなるような気がした。
咄嗟に、意味もなく手を伸ばす。
そうでなければ、もう触れられないようか気がした。
「――えっ?」
「――――?」
そして、手を伸ばした先に、突然、女の子が現れた。