第232話 カルマⅡ
悲鳴と地響きと破壊音。
車の窓から見えるのは、必死に逃げ惑う人たちの姿。
その中には、真姫たちの姿に気付きドアを叩いてくる人もいた。
「早く逃げろ!! 流されるぞ!!」
何に?と聞く前に、その人は走って逃げて行った。
車の後ろを見れば、次々に前の車が同士がぶつかって迫ってきた。
また一台、また一台と、押し出される車たち。その順番は徐々に真姫たちの乗った車まで近付いて来ていた。
「――お母さん!!」
「待ってっ! おばあちゃんを置いていけないっ!」
そんなことはわかっている。
わかっているけど、真姫はそのとき「なにを悠長なことを」と思ってしまった。
シートベルトを外す手は震えていた。
いつもは簡単にできる作業が、なかなかできない。
ようやくシートベルトが外れて、もう一度、後ろを振り返ったとき――押し流される車はうねりを上げるように近付いて来ていた。
真姫にはそれが化け物のように見えた。
「――わたしのことはいいから、早く逃げて!!」
「――っ!!」
一瞬、その光景に固まってしまっていた真姫だったが、おばあちゃんの言葉で慌てて後部座席から外へ飛び出した。
外の世界は警報や、避難を促す拡声器の声や、轟音で滅茶苦茶で、窓ガラス一枚隔てているだけなのに、まるで異世界のようだった。
真姫は、必死に逃げた。
何も考えることができず、意味のない叫び声を上げながら、訳も分からず必死になって逃げた。
――お母さんや、おばあちゃんを置き去りにしているなんて、微塵も考えられずに、必死に逃げた。
――わたしは、お母さんと、おばあちゃんを、見捨てて逃げたのだ。
◇
――わたしは罪深い。
胸から夥しい量の血が流れている。
パールに撃たれた部分を手で触れると、今まで見たことがないほど血でべっとり汚れた。
とても息苦しい。
とても寒い。
とても痛い。
だけど、これは当然の報いなんだと思った。
お母さんとおばあちゃんを見捨てた。
だけどそんなことは忘れて、のうのうと生きてきた罰。
きっとお母さんたちも苦しかっただろう。
きっとお母さんたちも寒かっただろう。
きっとお母さんたちも痛かっただろう。
心細く、絶望しながら、きっと最期を迎えたのだ。
だから、真姫も同じように死ぬ。当然のことだった。
――きっと、あなたも、同じだと思っていたのだけれども。
母親のことを殺したパール。
――あなたは、乗り越えたのね。
だけど、それを受け入れて、強く生きようとしていたパール。
それはひどく薄情なように感じて――だけど、眩しくも感じた。
どうしても許せないと思えて――だけど、羨ましくも思えた。
――わたしには、無理よ。こんな悲しい想いをして、まだ、新しい人間関係を築こうなんて……無理。
何もかも放り投げて、引き籠ってしまった真姫だから――
もう武蔵だけいてくれたらいいと、諦めてしまった真姫だから――
パールに強く嫉妬した。
そんなパールに影響されて、変わっていく武蔵に焦りを覚えた。
――……あのとき、もし、友達になっていたら、わたしも、変われたのかしら?
無理だろうと真姫は思う。
自分は――弱かった。
武蔵に甘えて、武蔵に縋り、武蔵に依存した。
ただ求めることばかりで――一番大切な人に、金メダルさえ渡せなかった。
武蔵がそれを誰よりも求めていたことを、真姫は誰よりも知っていたのに――それさえも渡せなかった。
パールは違った。
武蔵が大切に持っている結婚指輪が何よりも証拠だ。
母親を殺してしまったけれども――パールはきっと、大切な人に看取られながら、穏やかに最期のときを迎えるのだろう。
真姫は違う。
武蔵に何も与えられなかった。
母親を見捨てた真姫は――こんな生まれ育った場所から遠い薄暗い森の奥で、独り、死んでいく。
「……あぁ……と、ても……淋しい、わね……」
思わず本音が零れる。
息も絶え絶えで、辛うじて最期に発した言葉がそれなのだと思うと、余計に淋しさが溢れてくる。
――ああ、だめだ。
それを口にした途端、わがままが溢れかえってくる。
独りは嫌だ。独りは嫌だ。独りは嫌だ。
自分可愛さにお母さんたちを見捨てたのに――
自分勝手に武蔵を縛り付けたのに――
最期の最期まで、それだけは変わらなかった。
醜さはちっともなくならない。
これが報いなんだとわかっていても、それでも求めてしまう。
武蔵。武蔵。武蔵。武蔵。
お願い、わたしを、ひとりにしないで。
どこにもいかないで。どこにもいなくならないで。
「――ま、ひめ?」
「―――――」
果たして――武蔵は来てくれた。
最期の最期まで、真姫のわがままに付き合ってくれて――こんなどうしようもなく、身勝手で、罪深い、女の子のところに来てくれた。
「……む、さし……」
――あぁ。
生まれたときから、ずっと一緒で。
誰よりも、そばにいて。
親の顔よりも見て来た、その顔が――
「―――――」
青褪めていて、強張っていて、
そんな、今まで見たことがない顔に――真姫は、誰よりも無理をさせてしまっていたことに、今更に気付いた。
「――ま、ひめっ――真姫っ――真姫っ!! ――なんでっ!? ――どうしてっ!? ――こんな!? ――なんでぇっ!?」
過呼吸のような状態で、足をもつれさせて、転がるように真姫に近付く。
まるで自分こそがこれから死ぬんだと言わんばかりに生気がなく――目は虚ろで、そのくせ涙はいっぱいに貯めて――それでも真姫を懸命に抱き留める。
――そんな武蔵の姿は、なんだかとても可哀そうだった。
――ああ、そうよね。あなたが、こんな、わたしを見たら、そう、なるよね。
本当に。
最期の最期まで。
武蔵にひどいことをした。
「――まっ、待ってて、いま――今っ、ヘレナを――」
「……む……さし……ごめん、なさい……」
「――え、なに――え――」
謝りたい。
謝らせて欲しい。
今にも走り出そうとしている武蔵の服を掴み――
お願い。
これが、最後だから。
反対の手で武蔵の頬を撫で――
伝えたい。
苦しくて、声は出ないけど。
決壊しそうな武蔵の目を見つめる。
わたしの言葉。
聞いてね。
武蔵、ごめんなさい。わたしはずっとあなたに甘えていた。
縛り付けて、変わらないでいて欲しいって願って――ずっとあなたはそれを守ってくれた。
本当は、わかってた。ずっと無理してくれてたのよね。
「ち、がう……そうじゃないっ! 俺は――っ! 俺がっ――!」
そう言って武蔵は自分を責める。
この世界に来たこと――この世界で生きようとしたこと――その全てが間違いだったと、武蔵は自分を責める。
でも、違う。きっと、そうじゃない。
どうか責めないで。わたしは、あなたに何も与えられなかった。これは、当たり前の結果よ。
「……どう、して……」
ついに泣き出す武蔵に、真姫は決定的なことを告げる。
きっと、わたしたち、こんなところに来なくても、一緒に生きてくことなんて、できなかった。
だって、武蔵の帰りたい場所は、わたしじゃなかったから。
「――っ」
それはきっと、この世界へ武蔵が来る前から――真姫が母親を失って武蔵と依存するようになってから、そうだった。
だから――だから、きっと、わたしたちは、最後まで一緒にいることなんてできなかった。
どこかで無理が祟って、喧嘩別れして……武蔵は、きっとわたしの知らない誰かと恋をして、結婚してたんだと思う。
「ちがう……違うっ! そんなことは、ない!! そんな、ことはっ――!!」
結局、最後の最期まで、真姫は武蔵に甘えてばかり。
苦しい想いをさせてばかり。
つらい思いをさせてばかり。
でもねも……それでも、そんなわたしのそばにいてくれて、ありがとう。
そんなわたしと一緒にいてくれて、ありがとう。
そんなわたしに――幸せな日常をくれて、ありがとう。
大好き。
わたしは、武蔵のこと、大好きよ。
「……ま……ひめ……おれは……」
言えた。
武蔵に言いたいこと。
全部、言えた。
よかった。
これで思い残すことは、ない。
でも、最後に――
ああ、お母さんにも、謝らないと……
異世界でも……こんな場所でも、お母さんと同じ、ところに、いけるといいな……
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――っ! 待ってっ! 真姫っ!! 待ってぇっ!!」
何か。
決定的な、何かが終わった。
未だ真姫からは真っ赤な血が流れ出ている。
なのに、真姫の何もかも止まってしまった。
「――あぁっ」
彼女が生まれてから、ずっと一緒にいた。
ほとんど毎日だって顔を合わせていた。
「……うぁっ……あぁっ……」
それなのに、もう二度と一緒にいることはない。
「あぁ……あぁっ……」
失ってしまった。
とても大切な。
かけがえのないものを。
たった今、武蔵は、失ったのだ。
「うっ、あぁっ――あぁ――」
いつか別れることを、覚悟したはずだった。
全部、嘘だ。
武蔵は何もわかっていなかった。
「あっ、あぁっ、あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
別れがこんなにもつらいことなんて、わかっていなかった。
大切なものを失うことが、こんなにも苦しいことだなんて、わかっていなかった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」
パールは走った。
死に物狂いで。
肺が破れそうになりながら。
怪我を負った足を、今度こそ本当に壊してしまいそうになりながら。
それでも自分がやったことから少しでも遠ざかりたかった。
「――はぁっ、はぁっ――っ」
だけど、離れても離れても、マヒメの胸から血が飛び散り瞬間は、頭から離れられない。
「――はぁっ!! はぁっ!! うっ――!?」
足が縺れて、激しく転倒する。
咄嗟に手を着こうとしたが、右手に握られたモノが邪魔になって、うまくいかない。
地面に叩きつけられる。
「――あぁっ!? いやっ!? いや!!」
何が邪魔になったのか――それに気付いてパールは、張り付いた虫を払いのけるように、大慌てで腕を振る。
しかし、マヒメに操られていたとき以上に、右手を自分の意志に反して、全く握ったものを離してくれない。
エイスケからもらったピストルは――
たった今、マヒメの胸を撃ち抜いたばかりのピスルトは――
どれだけ強く振り抜いたとしても、かじかみ、震え、いつまでも右手に引っ付いていた。
「違うっ!!
違う違う違う違うっ!!」
激しく首を振る。
何度も右腕を地面に叩き付けながら、自分がしたことを否定する。
そんなつもりはなかった!
そんなつもりはなかった!!
ただほんの少し。
ほんの少しだけ。
指先がほんの少しだけ動いただけだ。
ただ、それだけのことで――
そんな、ほんの数センチの動作で、マヒメの胸から鮮血が飛び散ったのだ。
「――あぁっ!
あ、あっ、あぁっ!?」
人間がそんな簡単に死んでいいはずがない。
きっと――きっと、そんな簡単に死ぬはずがない。
そう自分に言い聞かせながら――パールは今度こそエイスケが恐怖した意味を知った。
『……人を殺すことが、こんなにも簡単な武器だから……そう簡単に引き金を引くべきじゃないんだ』
そう――この武器は、本当に、簡単に人を殺せてしまう。
ちょっとした弾みで。ちょっとしたきっかけで。
エイスケがそれでどれだけ苦しんだのかわかっていたのに――どうして、止めることができなかったのか?
「――っ、違うっ! だって、わたしはっ――わたしはっ、生きるって、約束したからっ!」
そうだ。
あのままでは、マヒメに殺されていた。
殺さなければ、殺されていた。
そういう場面だった。
わたしはムサシくんと約束したんだ。
一緒に生きようって。
みんなでムングイ王国に帰ろうって。
だから死ぬわけにはいかなかった。
きっと、ムサシくんだって、わかってくれる。
マヒメは撃ったことは、仕方がなかったことだって――
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「――っ!?」
獣のような、叫び声が、パールの耳に届く。
だけど、届いたのは叫び声だけではない。
それは断末魔だ。
大切なものを失った。
掛け替えのないものを失った。
自分の命以上のものを失った――魂の叫び。
「……あぁっ……うぅっ……あぁっ……ああぁぁ……」
――パールにとって、何よりも大切な、ムサシくんの叫びだ。
「うぅ……ご、ごめん、なさい……」
そしてパールもまた、とても大切なものを失ったのだと気付いた。
それが何か、パールにもまだわからない。
だけど、きっと、もう取り返しのつかない。掛け替えのない。自分の命以上に、大切なもの。
「あぁ……ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめん、なさい……ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣きながら、許しを乞う。
だけど、わかっている。
絶対に許されない。
耳にも――心にも――ムサシの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
それでもパールは謝らずにいられなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。




