第231話 そして楔は撃ち込まれた
本当に気持ちのいい夜だった。
眠るのがもったいない。
そんな気持ちにさせられて、ムサシと別れてからパールはまだN-PRISMの周囲を散歩していた。
怪我をしているはずなのに、足取りは軽い。踊りだしたいくらいだ。
あまりにも帰りが遅いと、きっとサティが心配する。後できっと小言を言われる。
そんなことも気にならないくらいに、パールは浮足立っていた。
ムサシがようやく帰ってきた。
いつか訪れるはずのこの瞬間のため、パールは苦しい治療にも耐えてきた。
再会から実に半年以上が経ってしまったが、パールはムサシの帰還を心から喜べた。
そんな幸福冷めやらぬ夜に、眠ることなんてできるはずがない。
できることなら、このままロボク村まで歩いて行って、パティにこの喜びを伝えたい。
その前にモノリに話をしてみてもいいかもしれない。面白半分もあったかもしれないけど、パールにとっての三人目の友達も、何だかんだでパールの話に耳を傾けてくれた。
もしかしたら片思い同盟は解散されるかもしれない。
それでもパールは、今日あった素敵な出来事を誰かに伝えたかった。
こんなに嬉しい出来事が、この世の中にあるんだって、誰でもいいから伝えたかった。
「あら。それなら、わたしが話し相手になってあげましょうか?」
「―――――っ」
気持ちのいいはずの夜に、突然、冷たい雨が降ってきたような、そんな心の底から凍えてしまいそうな声を掛けられる。
「ふふ。失礼ね。そんなお化けでも見たような顔をしなくてもいいじゃない」
声を掛けてきたイツキマヒメは、そんなパールの心境を全て理解しながら、口元を歪めて笑った。
身を屈めて、頬杖をつき、まるで深く暗い森の奥から、じっとパールを観察するようにしてマヒメは待ち構えていた。
「ぁ……ぁ……」
怖い。
実際、パールに一切の気配を悟られず、待ち構えるなんて芸当ができるのはマヒメくらいだ。
だけど、そんなことでは今まで恐怖なんて感じなかった。
何か――
得体の知れない何かを、マヒメに掻き消されてしまっているパールの能力が感付いている。
「ねえ。お話しないの? 武蔵とどんな良い事があったの?」
「あ……ぁ……」
口の中が乾いていく。
――マヒメに、何かされている。
だけど、何をされているのか、わからない。
心がぐちゃぐちゃに掻き乱される。
何が、何か、何で、何を――何?
「ねえ。教えてよ。あなたはどうやって武蔵を誑かしたの? わたしに教えてよ」
「っ――」
――いいや。
何をされているか。それはパールが一番よくわかっている。
これはレヤックの力だ。
人の心を覗き見る力だ。
人の心を操る力だ。
わがままで、いじわるで、にくらしい力だ。
ムサシの心をずっと縛り付けた力だ。
「ねえ。あなたは本当に、武蔵が好きなの?」
「ぃ……ゃ……」
マヒメが何をしようとしているのか、わかった。
ムサシの心からパールへの想いを消したように、パールの中からもムサシを消そうとしている。
「――い、や、だっ」
そんなのは嫌だ。
そんなのは嫌だ。
そんなのは嫌だ。
それはパールが、何よりも嫌った行為だ。
「――いや、だ、嫌、だ、いやだ、いやだいやだいやだいやだいやだ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!!」
「……っ」
頭が割れそうに痛い。
目の前がグルグル回っている。
だけど、そんなことは慣れている。
何十人の心を取り込んで、自分の心がわからなくなる。
暴走して、人の心を奪い尽くすだけの化け物になる。
その寸前を何度も経験してきた。
血が滲むほど唇を噛みしめる。
爪が食い込むほど拳を握る。
そうやって憎々しそうな顔で睨むマヒメに、同じような顔で睨み返してやる。
「――ねえ。そんなに聞きたいなら。教えてあげる。
わたしは。ムサシくんが。好き。ムサシくんを。愛してる」
「――っ」
この気持ちは。奪わせたりしない。縛り付けさせたりしない。消させたりしない。
この想いはパールだけのものだ。
誰かに好き勝手されていいものではない。
パールだけのものだ。
「どんなときも。駆け付けて。わたしを。安心させてくれる。ムサシくんが。好き。
負けず嫌いで。どうしたら。もっと。良くなるか。一生懸命考える。ムサシくんが。好き」
「――やめてっ」
届け。
パールがどれだけムサシに恋焦がれているか思い知れ。
「わたしが。困難にぶつかったとき。一緒に。本気で。悩む。本気で。ぶつかってくる。ムサシくんが。好き。
わたしが。間違ったとき。本気で。叱ってくれる。ムサシくんが。好き」
「――やめてよっ!」
届け。
あなたに勝ち目なんてないと思い知れ。
「わたしに。厳しい。けど。優しい。そんな。ムサシくんが。好き」
「――そんなの知ってるわよっ!!
武蔵が安心させてくれることもっ! 武蔵が負けず嫌いなこともっ! 武蔵がいつだって一生懸命なこともっ! 武蔵がわたしのために一緒に悩んでくれることもっ!
全部っ――全部、知ってるわっ!!」
知っているなら。わかっているなら。
この気持ちを簡単に奪えるものではないこともわかっているはずだ。
そう簡単に消えてしまうものではないこともわかっているはずだ。
「でも――それは、わたしのよっ!!」
「違うっ!!」
それこそがマヒメの間違いだ。
それこそがマヒメの傲慢だ。
だって、その気持ちは全て――ムサシのものだ。
誰かが抱えていいものではない。
パールたちレヤックは人の想いが見えてしまう。
人の想いは、人から人へ届けているように見えてしまうから――。
どうしてもそれを届けた相手のもののように見えてしまうから――。
それを受け取った人のものだと勘違いしてしまいそうになる。
「でも。違う。それは、ムサシくんのものだっ!」
「――っ」
ムサシが。
その想いを。
その気持ちを。
誰に届けるのか。
誰に届けたいのか。
決めるのはムサシだ。
マヒメのものでもない。
「どうして――ずるい」
ずるをしてきたのはマヒメの方なのに、果たして誰がずるいのか。
「だって……それは、わたしに向けられていたものなのよ? わたしが受け取った想いなのよ?」
「……………」
ムサシと先に出会ったのは、マヒメだ。
ムサシが先に好きになったのは、マヒメだ。
十四年間の思い出を積み重ねて、十四年間も想いを積み上げて。
それが崩れ落ちた。
パールからすれば、そんなものは知らないと言ってもよかった。
だけど、人の心は常に変化していることも、パールはよく理解している。
それが目に見えてしまう分だけ、余計に焦るし、引き留めようとしてしまう気持ちもわかる。
だからこそパールには、マヒメが――
「憐れむなっ!!」
「――え」
パールの思考は、耳元に響いた大きな音で中断された。
マヒメの叫びは、パールの心に届いた。
初めて感じ取ったマヒメの心は、悲しみと怒りと悔しさと憂わしさでいっぱいで――
だけど、パールの耳に届いたのは、そんな精神的な叫びではない。
鼓膜を突き破らんとする、物理的な破裂音だった。
咄嗟に尻餅をついたのは、きっと無意識の防衛本能だ。
それでも躱せたことは奇跡に近い。
右手に握られていたのは、エイスケからもらったピストルだった。
その銃口は、今、自分のこめかみに向けられていた。
「―――――」
ようやく何が起こったのか気付いて、パールは青褪めた。
――パールは、自分のこめかみに向けて引き金を引いていたのだ。
辛うじて動く左手で、右腕を押しのけようとする。
だけどそれ以上に強い力で、まるで自分の腕ではないかのようにしっかりと固定されている。
引き金にかかった指が痙攣する。
それは自分が動かしているのか、それともそうじゃないのか、まるでわからない。
先ほどまでと比べ物にならない恐怖に、パールの奥歯はカチカチと鳴った。
「……ねえ。どうして武蔵なの?」
「――ひぃっ!?」
マヒメがパールの顔を覗き込む。
まるで動けないパールをじっくり観察するように、その目は完全に据わっている。
「栄介じゃ、駄目だった? いいじゃない、栄介。
カッコいいし、勉強もできるし、剣の腕だって武蔵より上よ。
少し頼りないところがあるけれど、それも母性本能くすぐられるようで素敵じゃない」
ふざけるな。
脅しで人の心を変えようなんて、そんなのは操る以前の問題だ。
そう叫びたかったけど――駄目だった。
怖い。
きっと声を上げることはできるけど――でも、怖いのだ。
こんなおもちゃみたいなピストルで、簡単に自分の命が散ってしまうこの状況が怖い。
今になってエイスケの恐怖が本当の意味で理解できた。
「強情ね。これで心変わりしてくれたら、命まで奪ったりしなかったのに。
もしかしたら、お友達になれたかもしれないのに――」
「――っ」
叫ぶ以前の問題だった。
マヒメは、パールの心を正確に読み取る。
口に出す出さないの問題ではない。レヤックに嘘は付けないのだから。
「――ああ。でも、やっぱり駄目ね。駄目。あんたのことは認められない」
軽蔑するように、口元を歪めて、マヒメは続ける。
「――だって、あなた、母親を殺してるのよね?」
「―――――」
隠していてもなお漏れ出るほどの侮蔑と拒絶。
「――ねえ、どうしてそんなことができたの?
自分を生んでくれた母親に、感謝の気持ちはなかったの?」
「―――――」
後悔と自責の傷跡に塩を塗り付けるような言葉。
――ああ。つまり、そういうことか。
「そんな魔女のような女に――わたしが武蔵を渡すわけがないじゃない」
マヒメがパールを執拗に嫌悪する理由を――理解した。
――理解できてしまった。
「相手が有多子だったら、まだ納得できたかもしれない。
サティさんだったら、少し複雑な気持ちでも、まだ諦めがついたかもしれない。
でもね――あなたたちは絶対に駄目。
親を殺すような――そんな人を、わたしは、絶対に認められない」
「わ、わたし――わたしは――っ」
お母さんを殺そうとしたわけじゃない。
殺したくて殺してしまったわけじゃない。
そんな言い訳が零れ落ちる前に、歯を食いしばって口を塞ぐ。
そんな言い訳だけはしたくない。
自分が犯した罪から目を反らす。苦しいからと、悲しいからと、全て放り投げたりしたくない。
――それは全部、ムサシに教わったことだ。
とても大切な教えで――パールにとっては真理だ。
だけど――
「ねえ、自分の罪深さに死んでしまいたいって思わなかったの?
恥じらいもなく、どうして生きてこれたの?」
三人の母親の命を奪った己の罪。
――そう。確かに、忘れていたのかもしれない。
もう三人のことを思い出さない日だってあったことに今更のように気付き、パールは胸が苦しくなる。
「ねえ、どんな気持ちで今まで生きてきたの? わたしに教えてよ?」
「――わ、わたしは」
――わたしは罪深い。
全部、マヒメの言う通りなのかもしれない。
自分の母親を殺すような人を認めるなんて、できるはずがない。
そんな相手を信用することなんて、できるはずがない。
友達になんて、なれるはずがない。
パールでさえ、そう思う。
「わたしはっ――お母さんがいなくなって悲しかったわ!
何もかも投げ出してっ、壊してしまいたいくらいっ――つらくて、悲しくて……あんたに、そんな気持ちが理解できる!?」
「――っ」
――理解できる。それはパールだって経験した。
だからこそ、マヒメにもわかって欲しいと思った。
かつてパティとも、それがきっかけで喧嘩をして、今でこそ胸を張って一番の友達と言える関係になれたように、マヒメとも――マヒメにも――
「だから、わたしはっ――あんたのことが大っ嫌いっ!
自分の母親を殺しておいてっ、それを利用して武蔵に甘えようとする、あんたが大っ嫌いよ!!」
「――――――――――は?」
思わずピストルで頭を撃ち抜いてしまったのだと勘違いする。
一瞬のうちに頭の中が真っ白になる。
ゴリゴリと奥歯が削れるような音が耳元で響いて――パールはようやく自分が怒りに震えていることを自覚する。
――このオンナ、なんてイッタ?
ワタシが、オカアサンをコロシタことで、ムサシクンにアマエテル?
「そんな最低な方法で、武蔵を奪わないでよ!!
わたしはあんたとは違う!!
わたしは事故でお母さんを亡くしたの!! わたしには――武蔵に甘える権利がある!!」
「――――――――――」
その言葉は、パールの逆鱗に触れた。
人の死を言い訳に、甘える。
人の死を引き合いに、悲劇ぶる。
人の死をきっかけに、わがままを言う。
それはパールが一番嫌いなことだった。
一番許せないことだった。
一番通じないことだった。
一番認められないことだった。
「返しなさい!! わたしの武蔵を、返してよ!!」
「――――――――――」
ふざけるな。ふざけるな。ふざけるなぶざけるなふざけるなぶざけるなふざけるなっ!!
なにが「わたしの武蔵」だ。なにが権利があるだ。なにが最低な方法だ。
それを一番やっているのは誰だ。それでムサシを縛ったのは誰だ。それで自分の母親を一番侮辱しているのは誰だ。
――わたしは――わたしこそ、あなたとは違う!
だって、だってだってだって――あなただって――!!
「――あなただって!! 母親を見捨てたくせに!! 母親の死を利用してムサシくんに甘えるな!!」
「――っ!?」
――直後、銃声が鳴り響いた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「――真姫?」
パールと別れた後、武蔵は真姫が眠る部屋まで帰って来ていた。
しかし、そこにはすでに真姫の姿はなかった。
今日は本当に気持ちのいい夜だった。
夜風に当たりに出たのか――
それとも、目が覚めたとき武蔵がいないことに気付いて、探しに出たか――
真姫の場合、その可能性の方が高そうだった。
「……………」
N-PRISMは広い。
武蔵まで真姫を探しに出掛けては、すれ違いになる。
昼夜を問わず、アンドロイドたちが目まぐるしく動き回っている。
真姫に何かがあれば、きっと誰かが見つけて、連れ帰ってくることだろう。
「―――――」
そう思いながら、武蔵はなぜか妙な胸騒ぎを覚えた。
真姫に対して、後ろめたい気持ちがあったからかもしれない。
武蔵は真姫を探しに向かった。
◇
一発目の銃声に気付いたのは、たまたまだった。
N-PRISM内をぶらりと一周して、すれ違った何人かのアンドロイドに真姫を見なかったか声を掛けて回った。
誰も見かけていない様子から、もしかしたら外に出たのではないかと思った矢先のことだ。
恐らく建物の中にいたら気付かなかったかもしれない。
動物の物音か何かかと聞き流していたかもしれない。
だけどそれは、武蔵がこの世界に来てから幾度となく耳にした、火薬の破裂音だった。
「――っ!?」
そう――この世界に来てから、何度となく耳にはしているのだ。
もしかしたらムングイ王国側の偵察が、ばったりアンドロイドと遭遇して発砲してきたかもしれない。
武蔵がいなくなってからの三年間で、ムングイ王国の騎士たちでも普通に拳銃を所持するようになった。
相手がアンドロイドであればほぼ無傷で済むだろうし、逆に相手を捉えるにしても大きな怪我は負わせないはずである。
「……………」
だけど、なんでだろう――胸騒ぎは大きくなる。
武蔵は銃声が聞こえた方角に当たりを付けると、全力で走った。
――二発目の銃声が聞こえた。
森の奥、暗がりの奥で、何か不吉なことが起きた。
そんな不安感が、武蔵の心を捉えて離さない。
”勝利の加護”を手に入れてから、息が上がるということがほとんどなかった。
だけど、今だけは息苦しい。
あえぐように呼吸をする。
まるで”勝利の加護”など機能せず、負けが確定してしまったかのような焦燥感。
走る。走る。走る。
その事実から目を反らすように、負けた事実に抗うように、武蔵は荒々しく呼吸しながら走った。
――だけど、本当は気付いていた。
二発目の銃声が聞こえたとき、武蔵の心をジャラジャラと縛り付けていた鎖がプツリと切れたことを――
鎖が弾ける音を、武蔵ははっきりと聞こえていた。
果たして――武蔵は、その現実を、はっきりと目で捉えることになる。
「―――――」
声が。
声が出ない。
頭が。
頭が動かない。
何が。
何が起きたのか理解できない。
「――ま、ひめ?」
気持ちのいい夜。
森の奥。
暗がりの奥。
そこには血だまりの中に倒れる真姫の姿があった。




