第228話 彼女を置いて――
樹真姫。
宮本武蔵にとって、その女の子は特別だった。
武蔵は――その名前を持つ有名人とは違い、大人しく、内向的な子供だった。
何をするのにも真姫に手を引かれて、真姫の弟だと思われていたくらいだった。本当は武蔵の方が半年もお兄さんなのに。
今でこそ大人しいだとか、内向的といった印象を持つ人はほとんどいないが、それもひとえに真姫の影響に他ならない。
腕白で、気になることにはすぐに首を突っ込み、誰彼構わずに巻き込む。
そんな真姫の一番の被害者が武蔵だとも言える。少なくとも周りからはそう見られていた。
また真姫ちゃんに付き合わされて、怪我したの?
また真姫ちゃんと一緒にいて、泥だらけになったの?
そんな微笑ましくも困った顔をする母親が今でも思い出される。
だけど――武蔵は、それでよかった。
当たり前のように、当然のように、そばにいてくれる女の子。
いつまでも、どこまでも、そばにいてくれる女の子。
真姫に手を引かれている限り、武蔵は決して道に迷うことはない。
どんなに遠くへ連れてかられたとしても、真姫が家まで連れ帰ってくれる。
武蔵はこのままでいいと思った。このままがいいと思った。
多くの同級生たちが憧れを抱く真姫の一番そばにいられることが誇らしく思うこともあったが、何より彼女がそばにいてくれたらそれだけで安心できた。
しかし、
『カッコいいところ見せてよね』
剣道場に通うようになって、真姫からそう言われたとき、なぜだか武蔵は「カッコよくないと見捨てられる」と思い込んだ。
なぜそう思ったのか――その道場に、武蔵の目から見てもカッコよかった同い年の江野栄介がいたからかもしれない。
とにかく武蔵は、特別な女の子の前で、カッコよくなりたかった。
なのに――武蔵は一度も試合に勝てなかった。
そんな武蔵の姿に、真姫もガッカリした様子だったのを覚えている。
『ごめんね……カッコいいとこみせられなくて……ごめんね』
勝負に固執したのも、その頃からだ。
少しでもカッコよくなりたくて――真姫がカッコいいと言った宮本武蔵のようになりたくて、武蔵は人一倍に勝ち負けにこだわった。
でも、やっぱり勝てなくて――
カッコよくない自分に嫌気がさして――
情けない自分に卑屈になって――
中学生にもなれば、いよいよ真姫に見限られるんじゃないかと不安になっていた頃――真姫は変わってしまった。
震災で母親を亡くした真姫は、かつての溌剌さはなく、生きる気力を失っていた。
まるで別人で、誰もが彼女を腫物のように扱い、人によっては遠ざかって行くなか――武蔵はそれでも彼女のそばにいた。
それが当たり前で、当然だったから。
真姫の一番そばにいるのが、武蔵の役目だから。
だけど――きっと、それは武蔵の役目ではなかったのだ。
そのときの真姫に必要だったのは母親で――武蔵は母親になんて、なれるわけがなかった。
今ならわかる。
死んだ母親の代わりを求めた少女に出会った。
その死と向き合って前を向く少女に出会った。
自分の死に直面しながら、それでも一緒に生きたいと誓い合える少女に出会った。
そう――今なら、わかるのだ。
武蔵は、真姫が立ち直るための足を引っ張った。
一緒にいるということ安心感を免罪符に、お互いを鎖で繋いで、ズブズブ水の底に堕ちていく。
そんな関係に、武蔵と真姫は成り果てていた。
それに気付いたとき――武蔵は真姫から距離を置いた。
『ねえっ、武蔵!! お願い!! 見捨てないでよ!!』
だけど、この世界に再び舞い戻ったときの、彼女の叫びが耳から離れない。
見捨てるつもりなんてない。
当たり前のように、当然のようにそばにいたのだから。
でもね――武蔵はこのままは駄目だと思った。このままでは駄目なんだと思ってしまったのだ。
◇
ニューシティ・ビレッジに帰り着き、ヘレナの診察を終えるまで真姫は眠り続けた。
「命に別状ありません」とはヘレナの診断結果だった。
以前、サラスの容態を「全く問題ありません」と断言したヘレナだ。外傷以外のことで、どこまで信用していいか疑問だと思ってしまったが、その矢先に真姫は目を覚ましたので、武蔵は心の中でヘレナに詫びた。
「……任君たちは?」
目覚めての第一声がそれである。
「大丈夫。みんな無事だよ」
ニューシティ・ビレッジに着いて早々、ハヌタは骨折箇所の整復で悲鳴を上げ、それに驚いたクンタがハヌタに負けない大声で泣き喚き、ウッタがヘレナへ襲いかかり、ビスタは次は自分の番だと思い込んで失神した。
任はエコノミークラス症候群の予防に運動しなさいと言われた直後、熱血教師のようになってしまったものりと過保護なリオとの間に挟まれて目を回していた。
唯一、怪我人らしく大人しくしているのが同じく目覚めたばかりの遥人だが、彼の場合はシータと何も話ができないままロボク村を出てしまったことがショックなようで、青い顔で布団を頭から被って震えているのを栄介と有多子の二人で慰めていた。
――うん、まあ、みんな無事だな。たぶん。
「――真姫も、ずいぶんと無茶したんだな」
「当然よ。母親が子供を助けてって泣いてるのに、必死にならない理由がないわよ」
鼻を膨らませてにやっと笑って見せる真姫に、武蔵も笑い返した。
最近――この世界に来てしばらくしてからというもの、真姫は以前の真姫に戻ったようだった。
この世界で、真姫は真姫なりにできることを全力をやっている。武蔵はそれを嬉しく思う。
「――よく頑張った」
褒めようと、真姫の頭に手を伸ばす。
――だけど、その手が彼女の頭に触れる前に、止まる。
それは武蔵と真姫にとっては、なんてことはない、ふれあいだった。
「……………」
だけど武蔵は、この世界でその意味を理解している。
だから、もう気安く触れることができない。
真姫にだって気安く触れられない自分に――少しだけの寂しさと、納得が、武蔵の中に芽生えた。
「――ねぇ」
上体を起こした真姫は、もっと幼かった頃、何かとっておきの悪戯を思い付いた時のように、切れ長の鋭い目をさらに細めて言う。
「よく頑張ったって言うなら。
わたし、武蔵からご褒美が欲しい」
「ご褒美?」
それも以前の武蔵と真姫の間柄なら、当たり前の会話だった。
あの森の奥まで抜け出せたら、手を繋いであげる。
次の試合に勝ったら、一緒にプリンを食べましょう。
そんな小さい約束やご褒美を積み重ねて、武蔵と真姫はお互いがお互いの居場所にしていた。
だから武蔵は、真姫の可愛いおねだりを、今まで一度も断ったことがなかった。
「わたし、武蔵の着けてる、そのネックレスが欲しい」
「えっ……」
「ずっと大切そうに身に着けてる――それじゃなくてもいい。それと同じものを、わたしに頂戴」
ただのナットを鎖で括りつけた、拙いアクセサリーだ。
元の世界に帰ってからも、服の下に隠して、ずっとずっと大切に身に着けていたもの。
今、それは以前のように隠すこともせずに、服の上に晒していた。
――それと同じもの。
その意味は武蔵にとって重い。真姫の頭に触れるよりも――ずっとずっと重い。
きっと以前の武蔵なら、喜んでこのネックレスを真姫に差し出しただろう。
「……――ごめん」
武蔵は、きっと人生で、初めて真姫のおねだりを断った。
口を開くのがとても重く、まるで口の中の水分が全てなくなって張り付いてしまったかのように、動かしづらかった。
それでも、武蔵は断った。
「そう。残念。
わたしも欲しかったのに、それ」
武蔵の想いとは裏腹に、真姫はそんなに気にした様子もなく、呆気なく引き下がった。
それがまた妙に寂しくて――武蔵は焦った。
「でもいいわ。だって武蔵は、違うご褒美をもう用意してくれた。そうでしょ?」
「……………」
それを彼女に渡すことに躊躇いはある。
だけど、一つ目のおねだりを断っている武蔵は、それを拒否する気になれなくて、ポケットに押し込んだおもちゃのような棒切れを取り出した。
「――それが、地球破壊爆弾のスイッチ?」
「さすがに、そこまでのものじゃないよ」
それは、その昔、魔王の手により止められた爆発の続きを始めるためのスイッチだ。
有多子から受け取ったエイブル・ギアの自爆スイッチだ。
地球は破壊できない。
確かに、それほど怖いものではない。でも、地球のそこそこの国家が戦争を辞めてしまうくらいには怖いものだ。
真姫はそれを求めた。
日本に帰るためだ。
だけど――
「前にも言ったけど、これじゃあ日本には帰れない。これは、もうとっくに失敗した手段だ」
ロースムが三百年も掛けて試し続けた手段だ。
今更、万が一にも奇跡のようなことが起きなければ、これで元の世界には帰ることはできない。
「それでも、わたしは試したい。可能性があるのなら、それを見てみたい」
それでも真姫は、その万が一の奇跡に縋った。
そこまでして帰りたいのだ、彼女は。
「……………」
本当は、そのスイッチはもっと早く使う予定だった。
シータがエイブル・ギアにタル爆弾を仕掛けたときから、真姫はエイブル・ギアを実際に壊してしまおうと画策していた。
『自分の大切な人を殺したものが、そこにある。それだけで、他の全てを巻き込んで、何もかも壊してしまいたくなるものよ。
それに遥人もね、あれがある限り後悔は消えない。
遥人のためにも、シータさんのためにも、あのロボットは完全に壊してしまう方がいいのよ』
そう言って、真姫は虚空を睨んでいた。
彼女の母親を奪ったのは自然災害だけど――きっと、真姫にとっても、他の全てを巻き込んで壊してしまいたいものがあるのだ。
武蔵にはそう感じられたから、エイブル・ギアを自爆させることに賛成した。
異世界転移実験は、そのついでだ。
もしそれでエイブル・ギアが消えたなら――可能性がある。
そうでなければ――もうその手段は諦める。
真姫とそんな話をして、武蔵はそのスイッチを用意した。
だけど実際は、ロボク村に多少なりとも被害が出ることが分かった。遥人もなかなかエイブル・ギアから離れようとしなかったことから、使わないままでいた。
そしてその結果がロボク村の土砂災害である。
真姫がハヌタたちを一生懸命に助けようとしたのは、きっと真姫の中にも後悔があったのかもしれない。
エイブル・ギアの爆発を願わずに、遥人とシータに別の解決手段を用意してあげていれば、あのようなことは起こらずに済んだかもしれない。
だけど武蔵は、あれでよかったと思っている。
色々とあったけど、それでもそのスイッチを押すことはなかった。
――安心した。
そう――武蔵はそれを使わなかったことに、安心したのだ。
「悪い、真姫。これも、君に渡せない」
「――どうして?」
てっきり渡してもらえるものと待ち構えていた真姫が首を傾げる。
「どうしてって……――これは、核兵器なんだ。
そう簡単に使っていいもんじゃない」
どうして一度でも使おうなんて考えたのか――自分でも理解できない。
武蔵は見てきた。
旧ロボク村の惨状を――
パールの苦しみを――
それの怖さは、武蔵が誰よりも知っているはずなのに、どうしてそれを忘れてしまっていたのか。
「――そう」
真姫はネックレスをあげられないと伝えたときと全く同じニュアンスで返事をすると、再びベッドに横になった。
拗ねてる様子でもない。ただ、
「武蔵が、そう言うのなら、わかった。それは使わないわ」
真姫は素直にそう返した。
「……いいのか?」
それを武蔵が聞くのも変な話である。
だけど、妙に素直な真姫に、武蔵はなんだかますます焦る気持ちが抑えられなかった。
核兵器は絶対に使ってはならない。
だけど、なぜだろう、これでよかったとも思えなかった。
「いいのよ。だってわたしは、武蔵がわたしの当たり前を取り戻してくれるって信じてるから」
「当たり前?」
「そう、当たり前。
当たり前のようにみんなで学校に行って、当たり前のようにみんなと一緒に勉強して、当たり前のようにみんなと一緒に遊んで、当たり前のようにみんなで一緒に帰る。
そんな変わり映えのしない、当たり前の日々に、わたしたちは帰るの」
「……………」
「地球破壊爆弾なんてなくても、大丈夫。だって、武蔵はちゃんと帰ってきてくれたもの」
「……………」
「武蔵は、わたしに嘘付かないもの。どこにも、いなくなったりしなかったもの」
――じくじくと痛む。
『俺はどこにもいかないよ。どこにもいなくならない。大丈夫だから。大丈夫だから』
母親を亡くした真姫に、確かにそう約束した。
だけど、武蔵はいなくなった。異世界に転移してしまった。
――真姫を置き去りにしてしまった。
帰ってきたわけではない。帰ってきてしまったのだ。
武蔵は、日本に残してきたものを全て諦めて、この世界で生きようと誓った。
武蔵はとっくに嘘つきだ。
「ねえ、武蔵。みんなで一緒に、日本に帰りましょう。
それがわたしにとっての、一番のご褒美だから」
「……ああ。大丈夫。俺が必ず、みんなを日本に帰す」
だから、武蔵はまた嘘をついた。
「ふふ……約束よ。
そしたら……今度はわたしが、武蔵に……ご褒美をあげるんだから……」
安心したのか、それで真姫は再び眠りについた。
昔からよく見てきた、穏やかな寝顔だった。
――ああ、本当に、幼い頃から、数え切れないくらい、その寝顔を見てきた。
その寝顔にドキドキしたこともあったし、安心したこともあった。
――だけど、今はどうしても、真姫の寝顔を見てられない。
――心が。
心が、じくじくと痛む。
武蔵は逃げるように、真姫の眠る部屋から飛び出した。
また、武蔵は真姫を置き去りにした。
N-PRISMの中を走り回る。
罪悪感が。心残りが。欠落感が。
身勝手な想いが武蔵の心をかき回す。
そうなりながら、それでも行きたい場所が――
「――ムサシくん?」
それは本当に偶然だった。
大型建造物であるN-PRISM内で、無茶苦茶に走り回って、たった一人に出会うなんて、偶然以外にありえない。
「――パールっ」
衝動的にパールを抱きしめそうになるのを、ぐっと堪える。
それはまだ駄目だ。
きっと駄目だと理性がブレーキを掛けた。




