第201話 そんな風に生きたかったⅠ
ずっと苦しいのが続いている。
例えば水の中で空気を求めてもがくように。
そんな息苦しさが、ずっと続いている。
魔法の杖の毒にかかったときだって、こんなにも苦しくなかった。
足元が覚束ない。
泥の中を進むように。
すぐにでも倒れてしまいそうになりながら。
それでも歩くことを止められない。
ムサシを探していたときだって、こんなにも不安にならなかった。
ふらふらと。
パールは、当てもなくニューシティ・ビレッジを歩く。
動き続けていないと、頭がどうにかなってしまいそうだった。
当てもない徘徊は、サラスも道連れだった。
手を繋いで。
二人並んで歩く様は、いつか見た動く死体のようだった。
「ムサシ……くん……」
ふと零れた言葉に、驚くほど淋しさが混み上げ、その場でボロボロと涙が溢れてくる。
「う……あぅ……」
「うん……だいじょうぶ……まだ、だいじょうぶ……」
サラスが涙を拭こうとする動作を見せるので、思わず抱き締める。
サラスの心は、ずっと漠然としていて、読み取ることができないが、それでも時より元気だった頃と同じように優しさを垣間見せる。
だからパールは、まだ、どうにか正気を保っていた。
――本当はマヒメを八つ裂きにしてしまいたい。
そう思う自分は、確かに存在した。
だけど、駄目なのだ。
それは二人の母親を裏切る行為だ。
そして何よりも、ムサシとの全て否定する行為だ。
――それだけは絶対にしたくない。
我儘だった自分を叱ってくれたムサシが好きだから。
命の大切さを教えてくれた母親たちが好きだったから。
だからパールは、話をしようと思ったのだ。
ムサシと――
そして、マヒメとも――。
大好きなムサシと同じことをしようと思ったのだ。
人を心を操ってはいけない。
気に食わないからと言って、背けてはいけない。
それは、いけないことなんだ、と。
そうマヒメに伝えようとしたのだ。
だけど、マヒメと対峙すると、手足が震える。
ムサシを奪った女が憎い。
ムサシを操る女が忌々しい。
ムサシと嬉しそうに話す、あの女が大嫌い。
どうしても口を通るのは罵詈雑言ばかりだった。
――嫌だ。
そんな姿をムサシに見せたくない。
こんなのは本当の自分じゃない。
――わたしは、ただ、
昔のように、ムサシくんの手がちょうど触れるような位置に頭はないけど。撫でて欲しい。昔よりも、ちょっとだけ触り難そうに、それでも手を伸ばして欲しい。それで、よく頑張ったねって言って欲しい。魔法の杖の毒に勝ったんだ。褒めて欲しい。だって、わたしはムサシくんの奥さんだから。負けられなかった。一緒に生きたいから。一緒に生きて欲しいから。指輪を送ったんだ。プロポーズしたんだ。約束したんだ。もう子供だって作れるくらい、大きくなったんだから。結婚して、子供を作って、ムングイで幸せに生きたい。そこにはサラスやサティもいて、二人ともいつまでも仲のいいわたしたちに呆れてて、でも祝福してくれて、たまにカルナがやってきて、意地悪なことを言うけど、でも何だかんだ祝福してくれて、ヨーダは二人目はまだかなんて言うから、ムサシくんは照れ隠しに怒って、でも、わたしは早く欲しいって言うから、ムサシくんはますます困った顔を浮かべるんだ。きっと子供たちは、わたしに似て我儘で。でも、ムサシくんは厳しいから、お父さんは怖いから、好きじゃないなんて言って、ムサシくんを悲しませるんだ。でも、本当は優しいって知ってるから、本当は大好きで、きっと子供たちも頭を撫でてってせがむのだ。わたしは、それがちょっと羨ましくて、後で子供たちのいないところで、こっそり同じようにしてっておねだりして、やっぱりムサシくんはしょうがないななんて言って、きっとわたしを甘やかすんだ。子供たちはパティたちの子供とも仲良くなって、わたしとパティが、いつか子供たちを結婚させようなんて言うから、ムサシくんはまだ早いとか、結婚させないとか言い張って、わたしを呆れさせるんだ。いつか、そんな日も来るんだよって、わたしがムサシくんに言うと、ムサシくんはきっとわかってるけど淋しいなんて言うから、わたしがムサシくんの頭を撫でてあげるんだ。それで、わたしはずっと一緒だよって、そう言うんだ。いつかの日はあっという間に来て、子供たちが結婚するとき、ムサシくんは嬉しさと淋しさでわんわん泣くのだ。そんなムサシくんの頭をわたしが撫でてあげるのだ、そういえば最近は頭を撫でることの方が増えたなって思いながら。それでふと思い出すのだ。まだ果たせてない約束があったって。わたしはムサシくんに、ニッポンに帰りたい?って聞くのだ。ムサシくんはびっくりしながら、少しだけ躊躇ないながら、パールと一緒に帰りたいって言うんだ。わたしたちは、魔王が試さなかった手段で、何度も何度も失敗するけど、でも、二人で手を繋いで、ムサシくんが、いつか帰りたいって思っていた場所に、帰る――
――そんな風に、生きたかった。
「――って帰りたいさ。けど、その方法がわかんないんだから、仕方ないだろ」
その声に、パールは、胸が締め付けられるような嬉しい気持ちに苛まれて、現実に呼び覚まされた。
パールをそんな気持ちにさせられる人物は、たった一人しかいない。
「――ムサシくん」
いつの間にか、街外れまで来ていたようだった。
森と街の境目。そんな場所でムサシの声が聞こえ、パールは弾かれたように駆け出す。
「それは嘘だわっ。わたしにはわかるものっ。武蔵は本心では、帰りたくないって思ってるっ」
「――っ」
しかし、もう一人の声に、顔を出しそうになったところを寸で堪えた。
ムサシがいるのなら、当然、その女も一緒でないはずがない。
「もう一度言うわっ。わたしは、こんなところに居たくないっ。一刻も早く、日本に帰りたいっ。お父さんが心配だものっ。
武蔵のお母さんだって、きっと、また泣いてるわっ。武蔵は、お母さんとお父さんに心配掛けて、平気なの?」
マヒメは、ムサシに詰め寄っていた。
「平気なわけないだろ。俺だって、帰りたいって思ってるよ」
「だったら、有多子と話していた方法を、今すぐ試してよっ」
「――っ……それは……できない……それだけは、ぜったいに……駄目、だ……」
「なんでよっ……どうしてよっ……」
何を話しているのか、多少のニッポン語を覚えた程度のパールには、完全には理解できない。
レヤックの力なら、言葉を介さなくてもわかるのだが、相変わらずムサシの心は鎖のようなものに縛り付けられていて、感じることができない。
――……でも、マヒメは?
普段のマヒメは、同じレヤックの力で、その心を微塵も感じさせない。
しかし今の彼女は激しく動揺している様子で、その心から焦りのようなものを感じられた。
もう少しだけ。
もう少しだけ近付ければ、初めてマヒメの心に触れられるかもしれない。
そう思って、必死に、彼女の心へと想いを伸ばす。しかし――
「そんなにっ……そんなに、あの子が大……――っ」
――気付かれたっ。
そう思ったときには、掴み掛けたと思ったマヒメの心は、するりとパールの目の前から霧散していく。
――そうなると、後はもう一方的だった。
「……ねえ、武蔵。わたしは、武蔵のこと、好きよ。武蔵は、わたしのこと、好き?」
――……やめて。
心の声は、たぶん、マヒメには届いた。
「俺だって、真姫のこと、好きだよ」
「……ふふっ。嬉しい」
それはマヒメの心からの声だと――そんなことだけは、はっきりと感じられてしまう。
「武蔵……んっ」
「――っ!?」
艶っぽい声に、微かに聞こえる水音。
パールは、背筋を蛆虫が這ったような不快感に、思わず口を押える。
――なに……してるの……?
自分で自分を誤魔化すように、そう心の中で問いかける。
だけど、それが男女が愛を確かめ合う行為なんだと、見えてなくてもわかってしまう。
「あ……真、姫……」
「――っ……ぁ……」
続くムサシの声に、パールは息苦しさは、ここに来て最大のものになった。
それは拒否するようなものではなかった。
まるで求めるような甘い響きに、パールは立っていることもできずに、その場で崩れ落ちてしまう。
口なんか押えるべきではなかった。
呻き声の一つでも上げられれば、その行為は止められたかもしれない。
せめて足腰がしっかりしていれば、その音から逃げることもできたかもしれない。
だけど、パールはただただ漏れ出る嗚咽を手で塞ぎながら、その行為を最後まで聞いていた。
聞いてしまった。
「……ん……ねえ、武蔵……一緒に、日本に帰りましょう」
――……やめて。
「帰ったら……続きをしましょう」
――もう……やめて。
「それで、お父さんと……お母さんに、わたしたちの事、ちゃんと報告しましょう。もちろん、栄介たちみんなにも。きっとみんな、今更だって言うのかもしれない。でも、みんな祝福してくれると思うわ。そして、今まで通りみんなで遊ぶのだけど、ときどき二人で抜け駆けをするの。高校も、わたしたちは同じところに通えるように、頑張って一緒に受験勉強をするの。そして高校生になって、武蔵はきっと相変わらずモテるから、わたしはそれが誇らしくあるけれど、でも嫉妬もしてしまって、ときどき喧嘩にもなるの。だけど、最後にはきっと、武蔵はわたしのこと抱き締めて、安心させてくれるの。高校を卒業する頃には、椎名先生の言う通り、わたしたちは我慢ができなくて、できちゃった結婚をするの。わたしは……お母さんみたいな、お母さんになりたいわ。武蔵は、きっと優しいお父さんになると思うわ。甘々で、たまにはちゃんと子供の事叱りなさいって、きっとまた喧嘩になるのよ。そうやって、当たり前の人生を、当たり前のように過ごして……年を取って、最後は温かい布団の上で、武蔵と、子供たちに囲まれて、穏やかに……わたしたちは、そんな風に生きていくの」
――やめてっ!
それはパールの願いだ。
パールと相反する願いだ。
どうあっても相容れられない願いだ。
ここに来てパールはようやく理解した。
マヒメは自分だ。
この憎しみも、不快感も、嫌悪感も、全て自分自身に返ってきている気持ちだった。
「……うぁ……うぅ……」
「――あっ!?」
近くで声が聞こえて、思わず飛び上がる。
そこには緩慢な動きで、パールに向かって手を伸ばそうとしているサラスの姿があった。
ムサシの声に気付いたときに、置いてきてしまっていた。
きっと、ここまで追いかけて来てくれたのだろう。
「……パー、ル?」
「――っ!」
久しぶりにムサシに名前を呼ばれた。
だけど、パールはもうそれが嬉しいと思えず、だたただ怖かった。
何が怖いのかさえ、よくわからない。
だけど気付いたときには、パールはサラスの手を取って、一目散に逃げ出していた。
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
自分の感情が理解できない。
嵐のように吹き荒れる心に耐えられず、パールは悲鳴のような声を上げて、ひたすらに泣いた。




