第01話 全敗の剣豪 宮本武蔵
冷たい石畳の上に転がり、ぼんやりと小窓の向こうの月を眺める。
仲間内で花見をしていたのはつい先週で、今は葉桜の時期も終盤に差し掛かっていたはず。路上では人々の肴となる役割を終えた花びらが哀愁を漂わせていた。そろそろコタツを片付けようかなんて言っていた父に「まだ寒い」と言い放ったのは昨日のことだ。
石畳の冷気を全身で感じないと耐えられないほど、湿度も気温も高い季節であるはずがない。
「あの、すみません、ここはどこなんでしょうか?」
鉄格子の外に立つ大男に、本日何度目かの問いかけをする。
なにか返事はしてくれるのだが、言葉がわからない。
そもそもどう見ても日本人ではない。肌は浅黒いし顔の堀は深い。肩や腕には鉄製のプロテクターをつけているのに、肝心の胴体部分は肌が露出していて、熊に殴られても平気ですって感じに隆々とした筋肉を見せつけていた。
そして腰には一本の剣を携えている。
明らかに野蛮人である。正直に怖い。
幼少期から剣道で鍛えていたので、平均的な中学二年生に比べたらやや筋肉質だと思っている。最近ようやく身長も伸びてきて、クラス平均からはやや上に格上げにはなったが、その程度である。恰好はシャツ1枚、脱いだ中学のジャージを腰に巻いているだけである。
そのほか持ち物はなにも持っていない。夜のランニングに出ただけだったので、何も持っていなかった。心配性の母は「スマホくらい持っていきなさい」といつも言っていたのに、「落とすと嫌だから」と固辞してきたことを今になって反省する。
「フェア アム アイ?」
試しに片言の英語で話しかけてみる。
通じたかどうかわからない。
なにせ授業で習った程度の英語能力しかない。片言で話ができても、返事を聞き取ることは全くできなかった。
――でも、英語じゃなさそうだよな。
改めて辺りを見回す。
石作りの部屋。入口は鉄格子で隔たれていた。
――どうしてこんなことに。ここはどこなんだろう。
ついに大男に聞くのを諦めて自問する。
いや、どう見ても牢屋であることはわかる。ちなみに牢屋にいる経緯もわかっている。入浴中の女の子がいる浴室に乱入したからだ。
たぶん、同い年から少し上くらいの女の子だったと思う。大きくはっきりした目は、恐らく驚きに見開いていたからだけではなかったはず。目鼻立ちがしっかりしているのに美人というより可愛いと感じたのが印象的だった。そして雪のように白い肌とそこに張り付く長い黒髪のコントラストが今も頭から離れない。
初めて生で見た女の子の裸――訂正、母親ともう一人見たことがあるが、とりあえずその二人を棚上げにして、初めて生で見た女の子の裸に顔が熱くなる。
同時に自分が置かれた状況に頭が痛くなる。
――つまり俺は、どこかもわからない異国の地で、のぞきの罪で牢屋に入れられているわけだ。
◇
驚くべきことに、彼を宮本武蔵と名付けた両親は、かの剣豪"宮本武蔵"を知らなかったらしい。
「こんな偶然あるんだね」
とは母の言葉だが、ただ両親が無知だったというだけのことである。
武蔵はその名前のせいで、いろいろな大人たちに「いずれは立派な剣客になるのよね」などと囃し立てられた。
幼少のころ、それはたまらなく嫌だった。
自分の生き方を決められてしまっているようで「剣道をやってみたらいい。きっと有名になる」なんて適当なことを言う大人たちを徹底的に無視してきた。
それが一変、剣道バカに変えたのは、幼馴染の樹真姫だった。
真姫は武蔵の隣の家に住んでいる同い年の女の子で、両親も仲が良く、物心がつく前から一緒にいるのが当たり前だったという、典型的な幼馴染だった。
「武蔵、あんた宮本武蔵って知ってる?」
「知ってるに決まってるだろ。そいつのせいで嫌な思いしてきたんだから」
「本当に知ってるの? どんな人物で、なにをしてきたかも?」
「……………」
本当は知らなかった。武蔵にとっては嫌な思いをさせられている人物という認識でしかなく、そこで拒否反応を起こしていた。なので、どういう人物で、なにをしたのか調べようとも思わなかった。
「カッコいいんだから。あんたも読みなさい」
そう言って真姫が渡してきたのは宮本武蔵を題材にした有名な漫画だった。
その後、近くに江野剣友会という道場があることを調べて入会するまであっという間だった。
漫画に感化されたわけでも、宮本武蔵がカッコいいと思い直したわけでもなく、幼馴染のちょっと気になる女の子に「カッコいい」と言われたからに他ならない。
それから彼は剣道一筋で生きていくのだが、しかしそこでも彼は"宮本武蔵"という名前に苦しめられることになる。
常勝不敗の剣豪と同じ名前を持つ剣士は、その名前だけで周りから期待を寄せられた。しかし彼はなかなか勝負に勝てなかったのだ。
「お前は素直だ。急くことはない。精進しろ」
ぶっきら棒でぶつ切りの伝わりにくい言葉で、江野師範は「そのままでいい」と言うが、それでも武蔵は勝ちたかった。