第191話 不都合な願い
空気が湿り気を帯びていて重い。
仰向けに倒れ込んだまま繰り返す深呼吸も、どこか重く感じる。
異世界は「知らない空」だとか、「知らない天井」だとか、そういうもので実感するのだと思っていたが、それ以前に肺に取り込まれる空気からして違うもんなんだなと、津久井任はぼんやりとそんなことを考えていた。
そもそも目の前に映る青空では、現実の世界との違いはわからなかった。
よく見る、なんの変哲もない青空だった。
「あの……大丈夫、ですか?」
「――っ」
何の変哲もない青空に、見慣れない少女の顔が映り込む。
これぞ異世界美少女――というわけではなく、江野栄介の妹の江野リオだった。
最も、リオともこの世界に来たその日が初対面で、この世界で出会った人と大して差がないのだが。
「あ……う、うん……だ、大丈夫……なんか……その……ごめんね」
「無理しないで下さい。お兄ちゃんが、今、お水取りに行ってますから、もうちょっと休んでてください。
津久井先輩はあんまり身体が丈夫じゃないとお聞きしました」
「いや、もう、本当に、身体は、大丈夫なんだ……ただ、本当に、ちょっと、無理しちゃって……」
「……………」
気まずい。
ほぼ初対面に近い状態で、ぶっ倒れて二人きりにされてって、任からすれば拷問にも近い状況だった。
そもそも、なぜこんなことになってしまったのか?
それもまた、任の自業自得によるものであった。
ロボク村と呼ばれる村で離れ離れになっていたみんなと合流したその日、任たちは謎のメイドさんたちに連れられ、ニューシティ・ビレッジと呼ばれる町で保護されていた。
異世界の常識から真っ向勝負しているかのようなこの町は、電気水道ガスが使い放題であった。
現代文明にどっぷり使っている現代っ子たちからすれば、それはそれは歓喜乱舞する事実であったが、任としてはどうにも趣がなくて眉を顰めてしまう。異世界でそう言った超技術というのは、天空都市とか、氷結都市とか、そういうところで披露されるべきであり、断じて田舎風情の町で発見されていい技術ではないと思うのだ。
もちろん、それはそれとして、文明の利器はありがたく利用させてもらったわけだが。
久しぶりの温かい風呂と明るい寝床を満喫し、柔らかい布団でぐっすりと鋭気を養った任たちだったが、肝心の情報収集というものが全くできていないでいた。
というのも、肝心要の武蔵が、真姫を連れて、どこかへ行ってしまったからだ。
栄介たちから、この世界に来て合流するまでの間に何があったのか、大体の情報交換はできた。
多少の情報の齟齬があるとは言え、栄介たちが把握していた情報というのも、そのほとんどが任たちの持っているものと似たり寄ったりだった。
齟齬がある大部分というのも”二人の魔女”に纏わる話であり、これに関してはクリシュナの悪意を思い返せば、栄介たちが知る話こそ正しいものだと思わざるを得ない。
実際に会った”二人の魔女”の印象も大きい。
どう見ても人を操るような悪い魔女に見えない。クリシュナの方が余程、魔女っぽい。
さて、話し合いをするにも武蔵が帰って来ないことには進められない。
それまで武蔵たちと一緒にいたらしい有多子が言うには、この世界に来た武蔵は、真っ先にここニューシティ・ビレッジに向かったそうだ。
メイドさんたちの何人かと話し合いをしている素振りもあったことから、そのうち帰って来るだろう。
有多子のそんな話から、この町に辿り着いた翌日は、各々適当に時間を潰すこととなった。
そこでようやく任が息も絶え絶えに倒れ伏した原因に繋がる。
栄介とリオの兄妹は、日課のランニングも兼ねて、辺りを散策すると話をしていた。
任も、ぜひにと、それに着いて行くことにした。
あまり面識もない二人に着いて行く、それもランニングなんて、我ながら珍しいことと思う。
しかし、これにも理由はある。
「あー、だけど……怪我はしないのに、息は苦しくなるなんて、なんか、その……なんというか……その……なんだろうね」
「……………」
その場の気まずさから、無理してしゃべってみても、相変わらずのどもりっぷりに、余計に気まずくなる。
ただ、しゃべることは無理をしても、その内容は任の本心だったし、何よりもそれがランニングに参加しようとした理由でもあった。
異世界ものでお馴染みの特殊能力というものを、自分も授かったのだと、任は何となく気付いていた。
防御特化能力。
この世界に来てから自分の身に起きた出来事を冷静に分析すれば、ほぼ間違いなくその手の能力を手にしている。
しかし、はっきり言って微妙だった。
まず主役キャラの能力ではないと思う。
役割分担で言えばタンク役で、アニメや漫画なんかでは引き立て役が多い。
大概が持久戦を強いられて、苦戦を演出させられ、そして主人公キャラに美味しいところを持っていかれるのだ。
その点で言えば、栄介の能力が羨ましい。
無限に武器を生み出せる能力なんて、まさに主人公キャラのそれだった。
――まあ、それもいいんだけどね、別に。本当に問題なのは……。
「……変な力ですよね」
「……ん? あー……あはは……そう、変な力。こんなの使えないよね」
「えっ? あっ! ち、違います! 津久井先輩のことじゃなくって、わ、わたし! わたしの力の話です!」
リオは両腕をブンブン振って否定する。その姿はちょっと可愛かった。
気付いたのだが、もしかしたらリオも自分と同じで人見知りするタイプなのだろう。
そう思えば、年配者ということもあり、少しだけ緊張していた身体から力が抜けるのを感じた。
「江野さんの力って、視力がよくなったって話だよね」
「江野さ……え、ええ……はい……」
「それは、いい能力じゃないの? 僕も、あんまり、目は、いい方じゃないから。そろそろ、眼鏡いるかなって、親と話をしてたよ」
「……ええ……まあ……そうですね。わたしも、できれば、よくなって欲しいと、ずっと思ってました……でも……」
リオは伏し目がちで視線をさまよわせている。心なしか顔色も悪くなったように見えた。
「ごっ、ごめん! も、もしかして、目が悪い方がよかったっ?」
「え? ……あはは、津久井先輩って面白い人ですね。
でも……ちょっと、よくなり過ぎたので……悪かった方が、よかったのかもしれません」
「……よくなり過ぎた?」
「……先輩は、空気中に、どれだけの塵や埃が舞ってるかわかりますか? その中に、どれだけのダニやカビがあるか、わかりますか?」
「……え……そ、そんなに……?」
「……はい……見えてしまってます」
リオの問いの答えを、任は知っているわけではない。
だけど任にだって、見なくていいものが世の中には沢山あることくらいわかる。
それはさすがによくなり過ぎたなんて呼べるレベルではない。幽霊の類が見えるようになったのと、同レベルの話だった。
「……え、そ、それ、大丈夫なの? 僕だったら、息するのも、嫌になると思うんだけど」
「……先輩は、想像力がすごいですね。先輩の言う通り、ずっと気持ち悪かったです。
……あっ、今は少しだけマシになりました。カメラでズームするみたいに、調整できるようになりましたので」
「そ、そうなんだ……それは、よかった……の、かな? うーん……」
だけど、一度でも知ってしまえば、無視できないことだってあるだろう。
さきほど顔色が悪く見えたのは、そういうことではないのかと思う。
「……やっぱり、よくならない方が、よかったのかな?」
「どう、なんでしょうね……。
ずっと、目がよくなりたいって、思ってたんですけど……。
……だから、変な力だなって思ったんです」
リオの言う通り、確かに変な力だった。
自分は病気で死ぬのだと覚悟していた。
それでも願わなかったことはない。
もっと丈夫な身体に生まれてくれば――。
それは入院していた頃よりも、むしろものりたちと出会って余計に強く思うようになった。
もし、自分が病弱でなければ、もっと早く彼女たちと知り合えたのではないか――。
今、その願いは、加護と呼ばれる能力で叶った。
だけど、本当に叶ったとは言えなかった。
任の力の一番の問題は――自分しか守れないということだ。
傷を負わない身体になったとしても、力が強くなったわけではない。
ものりを守ろうと、彼女に覆いかぶさったとき。
それは簡単に引き離された。
彼女に銃を突き付ける騎士の姿は、今でも思い出すだけで震えが止まらない。
任は、ものりを守れなかった。
あともう一歩、助けが遅かったのなら、ものりは殺されていたかもしれない。
異世界転移する主人公たちは、手に入れた能力だけで、無双していた。
ああ――確かに、武蔵や栄介は主人公なのだろう。
だけど、任は主人公になんてなれなかった。
だから、せめて、彼女だけでも守れるように――あの騎士から引き離されないように、身体だけは鍛えておこうと思ったのだ。
――……例え、守さんに嫌われたとして。
「……はぁ」
「え……どうしたんですか、急に大きなため息なんて吐いて……」
「う、ううん……本当に、江野さんの言う通り、変な力だなって思って……」
「はあ……。
……先輩の力は、羨ましいと思います。わたしも、痛いのは嫌いですから」
「うん……ありがとう」
もしかしたら、ただの欲張りなのかもしれない。
だって、何もしていないのに施されたのだ。
それ以上を望むなら、やっぱり努力が必要なんだと、任は改めて思うのだった。
「ところで先輩……そのぉ……呼び方なんですけど……先輩は、先輩なので、江野さんって呼ばれると……ちょっと、ムズムズします。
できれば、他の先輩方と一緒で、呼び捨てか、ちゃん付けくらいにしてもらえると助かります……」
「うっ……そ、それは、下の名前で?」
「苗字では、お兄ちゃんと紛らわしいですから。あ、でも、倉知先輩はわたしのこと、江野妹って呼びますね」
「うーん……苦手、なんだよね……女の子の名前呼ぶのって……なんか、恥ずかしい」
「……ふふ。
先輩って、身体大きくて、てっきり怖い人だと思ってたんですけど、意外と可愛らしくて話しやすいですね」
「そう……かな? そんなこと、初めて言われたけど……」
「うーん……いつもしかめっ面なので、話しかけにくいのかもしれません。もうちょっと、ニコニコした方がいいと思います」
「え……僕って、いつもしかめっ面なの?」
「うーん……最初の印象のせいかもしれません。なんか、いつも困った顔しているようにも見えてきました」
自分でも知らない一面だった。
そもそも自分の顔なんて、好き好んで観察したりしない。見ていても、どうせ落ち込むだけだ。もう少しカッコよくなれないものかと。
「あれ……いつの間にか、仲良くなってる?」
「あ……もー、お兄ちゃん、遅い。先輩、もうすっかり良くなったよ」
話に夢中になっていて、いつの間にか栄介が戻ってきたことに気付かなかった。
確かに仲良くはなれたと思う。
だけど、やっぱりどこか気を遣ってたのか、栄介が来ると、リオの雰囲気は少しばかり気が抜けたように感じた。まあ、当然か。
「うん? あれ、ものりさんは?」
「――っ」
「のり姉? 来てないけど」
「そうなの? もしかして、道に迷ったかな? 任くんが倒れたって話をしたら、びっくりして走ってったから、てっきり来てると思ったんだけど……。
あ、これ水筒。埃被ってたけど、ちゃんと洗ったから」
「あ、ありがとう……」
動揺して、渡された水筒を落としそうになりながら、辛うじてそう返事をする。
「探しに行った方がいいかな? のり姉、方向音痴だから」
「そうだね。ものりさん、迷子の実績だけは勲章ものだから。
任くんも、もう大丈夫?」
「あっ……いや……ぼ、僕は、まだ無理そう、だと思うから、先に戻ってる」
「そう? じゃあ、ボクとリオは、ものりさん探しに行くから」
「先輩はもう、あまり無理しないで下さい」
そう立ち去る二人に手を振りながら、任はものりのことを想う。
たぶん彼女は、ここに来たのだ。だけど、任のことを見つけて、立ち去ったのだと思う。
昨日からものりとはそんな調子なので、きっと間違いないと思う。
「はぁ……これは、本当に、駄目かな……」
明らかに避けられていた。
今まで勘違いしても仕方がないくらいにベタベタされていた分、その差は歴然だった。
嫌われてしまった。
ただ、それは仕様がないことと思う。
任のせいで、ものりは死ぬところだったのだから。
「あぁーーーー、はぁーーーー、うわぁーーーー……はぁ……走ろ」
後悔も、挫折も、無念も、哀切も――色々な感情が任の中にはあったが、吐き出せる場所なんてどこにもなく、今はただ走るしかできなかった。




