第190話 鎖の取引Ⅰ
とても恵まれた家庭に生まれ育った。
自分でもそう自覚するほど、樹真姫は甘やかされて育った。
真姫が生まれるまでに、母は二回も流産を経験したためか、真姫はその姉だか兄の分も含めて三人分、愛情を注がれた。
不自由と言うものを一切知らない。
およそ欲しいと思うものは、望む前から与えられてきた。
その様子は祖父母でさえも、眉を顰めるほどで、将来は絶対に傲慢で高飛車な女に育つだろうと思われていた。
しかしその予想に反して、真姫は実に欲の薄い――傍から見れば実に謙虚な少女に育った。
ある意味で、それは当然だったのかもしれない。
欲が出る前に何もかも与えられて、何かを欲する気持ちというものを、まるで知らなかったのだ。
初め、宮本武蔵という少年もまた、真姫にとっては欲する前に与えられたものの一つだった。
二人が生まれる前より親同士が仲が良く、真姫も武蔵も物心が着く頃には家族の一人のような距離感にいた。
姉弟のようにペアルックを着させられながら、母親同士はよく口にしていた言葉を、真姫は今でも覚えている。
「まあ、とってもお似合い」
「将来、絶対に結婚させましょう」
許嫁と言うには大げさで、冗談だったのかもわからない言葉。
そのことを武蔵はどう思っていたのか真姫は知らないが、少なくとも当時の真姫は、こう思っていた。
――彼もまた、両親が与えてくれるものの一つ。
両親が用意した、将来の夫。
真姫は、そういう存在として、宮本武蔵という少年を受け入れていた。
小学校も二、三年生にもなると、そういう関係をからかうクラスメイトも出てきた。
しかし真姫は、それらの冷やかしをものともせずに、真っすぐに受け止めて返してきた。
「ええ。わたしたちは将来、夫婦になるの。それがなにか?」
小学校高学年にもなれば、さすがの真姫も多少の分別が付くようになった。
そのような言動もほとんどなくなったが、その頃にはすでに二人をからかう同級生たちもいなくなっていた。
そのことで一つだけ悔いがあるとすれば、武蔵がそのときにどんな表情をしていたのか、まるで覚えいないことだった。
そのときの真姫にとっては、それは当たり前のことだったのだ。
――武蔵と夫婦になる。
それは確定された事項であり――恋や愛だなんてことも、当然、知らなかった。
執着心とは無縁で、ただあるものがあるがまま、当たり前のように受け入れてきた。
しかし、世界に当たり前などなく、漫然と受け入れてきたそれらは、簡単に壊れてしまう儚いものだと――真姫はそれを鮮烈な出来事と共に初めて突き付けられた。
震災。津波。母親の死。
何かを失うという経験自体が乏しかった真姫にとって、それは世界が終わるに等しい恐怖だった。
この世の中に変わらないものなどない。
目映く何だって手の届く範囲にあった時代は終わり、辺りは暗闇に包まれた。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
ただ口を開けて餌を待つだけの雛鳥でよかった自分は、最早餌など与えられず、自ら大切なものを選び取らなくてはいけない現実に、どうすることもできずに立ち尽くしてしまったのだ。
『俺はどこにもいかないよ。どこにもいなくならない。大丈夫だから。大丈夫だから』
暗闇の中で、唯一、その言葉だけが真姫にとって救いだった。
ふとすれば暗闇に飲み込まれてしまいそうな、小さな身体を繋ぎ留めてくれたのが、その温もりだった。
何もかもは、もう当たり前には存在しない。
だからこそ真姫は、初めて欲したのだ。
唯一、彼だけでいい。
彼だけいれば、それでいい。
他に何もいらない。
唯一、初めて、彼自身を真姫は絡め取ったのだ。
もう決して、離さないように――。
――武蔵が好き。
それなのに――。
『なんで……なんで、ここにいるんだよ?』
行方不明になって一か月。
病院で再会した彼は、まるで別人のようだった。
体重は五キロほど落ちただろう。
そのくせ身長は十センチも伸びていた。
顔付きは鋭さを帯びて、身体中傷だらけだった。
生まれてきっと三日と離れたこともなかった。
それなのに一か月も離れ離れになって――彼は真姫の知らないところで成長していた。
武蔵のことは、手に取るように理解できた。
なのに、そのときの武蔵は、なにを考えているのか理解できない。
――ねえ、お願いよ。
もう他に何もいらないから。
せめて、あなただけは、わたしから離れないで。
樹真姫の初めての願いもまた、他の転移者同様に天に届いた。
彼女が女神ラトゥ・アディルから授かったギフトは”首枷の加護”。
彼女が望んだたった一つの欲は、この(異)世界に悪魔を産み落としたのだった。




