表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
144/239

第139話 宮本、剣道やめるってよ

 ――勝てない。


 試合の前からそう思ったのは、人生で初めてだった。


 相対したときは別にそんなことは思わなかった。

 竹刀構え、蹲踞(そんきょ)に入り、父の「始め」の言葉を待ち、立ち上がった瞬間のことだった。


 同い年ではあるが、はっきり言って格下だ。一度も負けたことなんてない。

 行方不明になっている間に怪我を負ったとも聞いている。

 まだ剣先が触れ合ってもいない。


 それなのに栄介は、試合が始まった瞬間から、宮本武蔵には勝てないと悟った。


 何もしていない。

 それなのに冷汗が止まらない。

 勝手に呼吸が上がる。


 こんな経験は初めてだ。


「――やぁぁぁっ!!」


 意味のわからない焦燥感から、栄介は先に動いた。


「めぇぇぇぇんっ!!」


 大振りの面打ち。

 そこそこの相手であれば、カウンターで胴が入るであろう。


 しかし経験から武蔵はそこは仕掛けないだろうとわかっていた。

 一つ一つの判断動作が一々遅いのは、武蔵の悪い部分だ。

 それも試合時だけのこと。

 恐らく未だ勝利の経験がない自信のなさからなる、判断の遅れだということも、栄介は知っていた。


「――っ!?」


 下手をすれば、この一撃で勝負が決まることもある。

 しかし武蔵はそれを受け止めた。


 驚愕したのは、止められたことに対してではない。


 腕が動いたように見えなかったのだ。


 気付けばそこに竹刀があった。栄介にはそんな風に見えた。


「籠手ぇぇぇっ!!」


 動揺はなるべく表に出さず、次の手を返す。


 同年代でここまで素早く斬り返せる者は、なかなかいないと自負している。

 現に、武蔵だって、栄介の打ち込みを二打以上は受け止められたことがない。


 ――しかし。


「――っ!?」


 籠手に打ち込んだ竹刀は、吸い込まれるように、武蔵の鍔に当たる。

 妙な手応えに、竹刀を持つ手が一瞬だけ緩む。

 いくら武蔵でも、そんな隙を見逃すはずがない。


 しかし、武蔵はそこに打ち込んではこなかった。


「――はぁ」


 態勢を立て直す一瞬、面の向こうから、そんな声がした。

 それは呼吸を整えるための息遣いなんかではなかった。


 溜息。

 それも落胆を示すような――。


「――っ」


 そこからは栄介の容赦ない剣戟が続く。

 フェイントを掛け、打ち込める隙は全て叩き、本来、中学生では禁止されている打突まで組み込んだ。


 しかしそのどれもが武蔵には届かない。


 誰も予想しない展開に、場内の誰もが固唾を飲んで見ていた。


 ――父も、妹も、真姫も。


「試合をしたい」と言い出したのは武蔵だった。


 一か月半もの入院生活の後、自宅療養が二週間も続いた。

 行方不明になっていた期間も考えれば、三か月も顔を出さなかった武蔵が、真姫同伴でふらりとやってきて、そんなことを言った。


 周りは止めた。

 栄介も「せめて夏休みの間、少し勘を取り戻してからの方がいいよ」と言った。


 それでもやりたいと言う武蔵に、しょうがないと、軽く付き合うつもりの気持ちだった。


 ――なのに……。


「――はぁ」


 再び耳に届いた呼吸音。

 その瞬間、


 ――あ、負けた。


 そう思う方が先だった。


 胴の上からでもわかる、鋭い衝撃。

 バシッッッッと、有段者の試合で聞くような、気持ちいい音に遅れて、


「――胴っ」


 武蔵の、凛と声が道場に満たす。


「――一本。それまで」


 剣道経験がない人間だって、この審判は間違えない。

 それだけ圧倒的なまでに差のある試合だった。




 正直に言えば、栄介は武蔵に負けることに関して、特にどうとも思わなかった。


 父は武蔵に対して一目置いていた。

 栄介には、父が武蔵に注目する理由がわからなかった。

 名前が”宮本武蔵”だから。

 剣道家であれば、その名前は羨望の的だろう。

 それくらいしか思い当たらなかった。


 だけど父が一目置くのだ、きっといつか周囲をあっと言わせる日が来るのかもしれない。

 そんな風に考えていた。


 きっと、それが今日だったのだ。


 武蔵は、行方不明になっていた一か月の間、壮絶な経験をしたのだろう。

 海外で拷問されてただとか、人体実験されてたとか、そんな噂もある。


 見つかってから、様子もおかしかった。


 警察やマスコミが何度も出入りしている中、どうにか一度だけ見舞いに行ったときも、心ここに在らずという様子で、ときどき外国の言葉を口走っていた。


 だから友人として、剣道場にやってきたことは、素直に嬉しいと思った。


 負けてしまったが。

 それでも、「すごく強くなったね、さすが宮本武蔵だけのことはあるよ」と声を掛けるつもりでいた。


 面を外し、隣で正座する武蔵に、呼び掛けようとして、振り返る。


 しかしそこにはもう武蔵の姿はなく、


江野剣友会(えのけんゆうかい)へは通えなくなりましたので、退会させて頂きます」

「―――――」


 道場の奥で、父に頭を下げていた。


 父は、武蔵の退会を止めると思った。


 理由も言わない。

 ただ通えなくなったと。


 そんなもの父が納得するわけがない。


「そうか。わかった」

「えっ――」

「色々とお世話になりました」


 再び頭を下げ、武蔵はそのまま道場を出て行ってしまった。

 真姫が慌ててその後を追っていた。


「え――えっ? なんで、ちょっとっ!?」


 納得がいかない。

 辞めると言い出した武蔵に対しても、それを止めなかった父に対しても。




 武蔵を追って更衣室に行けば、早くも武蔵は荷物をまとめていた。


「武蔵! なんで急に辞めるなんて!?

 その……行方不明になったときのこと、色々と噂になってて、居辛いとか?」


 何らかの犯罪に関わってたんじゃないか、なんて口にする人も、確かにいる。

 しかし、それは父と自分で何とかしようと思っていた。


「違う」

「じゃあ、なんでっ?」

「もう剣道は必要ないから」

「……え」


 ぶっきらぼうに答える武蔵に、栄介はますます納得できない気持ちが高まる。


「必要ないって……どういう意味?」

「そのまんまだよ」


 武蔵の言葉に、苛立ちが募る。


『必要ない』

 その言葉は栄介を傷付ける。

 そんなことは、友人である武蔵はよく知っていたはずだ。


 しかし武蔵は特に弁明することもなく、栄介を避けて立ち去ろうとする。


「まっ、待ってよ!

 こ、このまま――勝ち逃げするつもりっ?」


 武蔵の背中へ、咄嗟にそんな言葉が投げた。

 勝てないこと。

 それが武蔵にとってのコンプレックスなのだということは、友人の栄介はよく知っていたから。


 思った通り、武蔵は足を止めた。

 しかし――


「……もう、栄介が俺に勝つことなんてできないよ」

「え……」


 どこか冷めた目で、そう言い放つと、武蔵は今度こそ、その場から立ち去った。


「……なんだよ、それ」


 それは栄介には、見下されているように見えて、


「――なんだよ、それっ!」


 思わず、武蔵が使っていたロッカーを蹴った。


『俺に勝つことなんてできないよ』


 ――わかっているよ。


 武蔵は、昔からなんてことはないように、栄介が欲しがっているものを全て持っていく。


 真姫からの愛情も。

 父に、本当にやりたいことを認めてもらうことも。


 栄介はいくら望んだって、手に入らないのだから。


「なんだよ……それ……」


 蹴った足がジワジワと痛み出す。

 痛みに伴って涙が滲んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ