第138話 望まぬ帰郷へⅠ
「…………………………えっ?」
目が痛くなるほど白い世界。
どこを見ても、いくら振り返ってみても、ただただ広がる白さ。
自分の手足が見えなければ、世界から色が無くなったと思ってもおかしくない。
この焦燥感を、武蔵は今でもはっきり思い出せる。
何もか失ってしまったような、世界からありとあらゆるものが零れ落ちてしまったかのような、そんな不安感。
あの時は何が起きたのか、理解できなかった。
――今なら、何が起きたのか、理解できた。
白かった世界に、眼が慣れていく。
ピントの合わなかった映像に、少しずつフォーマスが合わさるように、少しずつ、少しずつ、世界は白から黒へと変貌していき――
星が見えた。
これほどの星空は、ムングイ王国にいても見たことがない。
何物も隔てない、まっさらな星空が武蔵を覆う。
足元には地球。
何よりも明るく、青い、青い、星が足先の遥か向こうにあった。
凡そ身一つでは、到底、為し得るわけがない。
しかし、武蔵は、気付けば宇宙を漂っていた。
何が起きたのか、はっきり理解できた。
理解はできた――だけど、
「――なんで!? どうして!?」
異世界転移している。
そう呼ぶには、あまりにも生々しい移動だった。
しかしロースムが――以前の武蔵が――求めて止まなかった、この現象のことを、そう呼んだ。
「どうしても何も、貴方の願いを叶えてあげたのよ」
「――!?」
宇宙空間で声なんて届くわけがない。
しかしその声は確かに武蔵に届いた。
武蔵は慌てて声のした方へ振り返る。
「――サ、ラスっ?」
一瞬、そのように見えた。
しかしそこにいたのは、白い靄のような存在で、人間ですらなかった。
「あら、貴方、私の姿が見えているの?
あの子だって四回も会って、漂ってるのを感じ取れる程度だったのに。
もう時間の流れに慣れるなんて、貴方とっても優秀なのね。
それとも私が与えた加護の影響かしら?」
文字通り実体の掴めない存在。
ただ、この言葉に、その声の主が何者かのヒントはあった。
「あんた、女神かっ?」
「ええ。
貴方とは一か月ぶりくらいかしら?
そのときは自己紹介できなかったから、改めて名乗っておくね。
私はラトゥ・アディル。貴方の願いを叶える存在よ」
「……………」
緊張から、思わず唾を飲み込む。
畏怖したのは、神秘性からではない。
馴れ馴れしい言葉遣いとは裏腹に、彼女からは得体の知れない雰囲気を感じたのだ。
「……願いを、叶える?」
それでも、どうにか口を開く。
それがどういう意味なのか、聞かなくてはいけないと思った。
「ええ。
貴方を家に帰してあげるわ」
「なっ――」
それは「ムングイに帰す」という意味でないことを、この状況を考えれば、すぐに理解できた。
「ふざけるな!! 俺は、帰らない!! 帰るわけには、いかないんだ!!」
サラスが死に掛けていた。
今にも死にそうな彼女を置いていくことはできない。
パールの治療だってまだ終わってない。
それに彼女と約束したのだ。一緒に生きるって約束したのだ。
彼女たちを置いて、帰れない――帰るわけにはいかない。
「あら、そんなに私の中は居心地がよかった?
ふふ、ちょっと照れちゃうね」
「……私の、中?」
「でも、どのみち貴方はここまでよ。
だって、貴方の役割はもう終わったんだもの」
「……俺の、役割?」
さっきから女神が何を言っているのか、武蔵には全く理解できない。
そんな訝しむ武蔵の様子に、女神は心底楽しそうに言う。
「ええ。
貴方は、あの子が魔王アルクイスト・ロースムを倒すために呼んだんだもの、英雄ミヤモトムサシ。
だったら魔王アルクイスト・ロースムがいなくなれば、貴方の役割は終わりでしょ?」
「あの子」とはサラスのことだろう。
サラス自身も同じようなことを言っていた。だけど――
「俺は、ロースムを倒してない!
俺は――俺は、何もできなかった」
ロースムは武蔵の目の前で自殺してしまった。
サラスを助けてあげることもできなかった。
そんなんで一体、どんな役割が終わったと言うのだろうか。
「そうね、貴方はあの子を救えなかった。
だから貴方にあの子の願いを伝えることは、私が許さないわ」
「それは、どういう意味――っ」
唐突に、風を感じた。
何かに押し戻されるような、徐々に女神から離れていく。
地球へ、落ちていく。
「喜びなさい、英雄ミヤモトムサシ。生まれ育った故郷へ帰れるのだから。
さあ、貴方のお家へお帰り」
喜ぶことなんてできない。
抗うように、必死に手を伸ばす。
「嫌だ!! 帰りたくない!!
俺は――俺は、そこで――助けになるって――一緒に生きるって、約束したんだ!!」
再び世界が白み始める。
伸ばした手の先も、見えなくなるほど光が強くなる。
それはまるで、もうその手が何も掴めないと言われているみたいで、ムサシは思わず叫ぶ。
「――サラス!!」
一瞬、女神が振り返ったような気がした。
姿が見えないのに、そんなことわかるはずもないのに。
◇
耳障りな車のクラクションで、意識が覚醒した。
気付いたときには、武蔵の横すれすれを乗用車が横切っていた。
運転手が、不審そうなにちらりと眼をやりながら、通り過ぎていた。
見覚えのない閑静な住宅街だった。
いや、もしかしたら知っている場所なのかもしれない。
どこかで見たような、どこにでもありそうな、そんなありふれた街だった。
武蔵は、歩道を大きくはみ出して、立っていた。
舗装された道路が、固く、酷く冷たく感じらた。
――帰ってきた。
それを実感すると同時に、立っていることができず、固く冷たいコンクリートに、膝を付く。
「ふ……ざ、けるな……」
夕暮れに染まる路面に、水滴がぽつりぽつりと染みを付ける。
「ふざ、けるな……」
それが自分の涙なんだと気付くのに、ひどく時間がかかった。
「ふざけるな……ふざけるなっ……ふざけるな!」
何に対してかもわからない怒りが混み上げて、天を仰ぐ。
「ふざけるな!! ちくしょう!!
なんで!! なんでなんだよ!! くそ! くそっ! くそ!! くそっ!!」
目を凝らしても、どこにも空に浮かぶ島なんてありはしない。
それでも、それはどこかにあると信じて、必死に探す。
「ちくしょう!! ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
だけど、どうしても見つからず――武蔵は溜まらずに、ただただ叫ぶしかなかった。
武蔵は、駆け付けた警察によって、保護された。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『次のニュースです。
ひと月もの間、行方がわからなくなっていた男子中学生が、二つ隣の県で保護されました。
男子中学生はひどく暴行を受けた跡があり、病院に搬送され、現在、治療中とのこと。
警察は何らかの事件に巻き込まれたものと見て、男子中学生の回復を待って、事情を聴く方針です』




