第127話 アンドロイドは眠らない
「――明日帰れると聞いたとき、思わずたじろいでしまったよ。いけないね、君と約束したのに」
眠るケイに向かって話しかける。
――いや。
ロースムは横たわるアンドロイドをケイのアンドロイドとは認識できない。
例えば誰かに別のアンドロイドと入れ替えられていたとしても、それがしゃべらない限り、ロースムはそれが別人だとはわからないのだ。
ロースムは生まれついての相貌失認だった。
もっとも本人はそれで困ったと感じたことはなかった。
物心がついた頃から、声や喋り方、またはその人の考え方というもので他人を区別していた。
生きているかどうかも関係なく――それがその人のらしい考え方で喋れば、それはその人となる。
だからこそロースムは、物言わぬ誰かに自ら話しかけることをしない。
それを珍しくしているということは、自分がそれだけ怖がっているのだろうと、客観的に分析した。
なにせ三百年ぶりの帰宅だ。
妻や息子から見ても約二十年ぶりの帰宅だ。
恐らくもう死んだものとされている。それが今更帰るのだ。
二十年ぶりに帰って、何を言うのか。
それはもうとっくにシミュレートできていた。
「ただいま。
そして帰ってきて早々悪いけど、私はこれから好きに生きる。
だから君たちも好きに生きてくれないかな」
ロースムはそれを言うためだけに帰るのだ。
間違いなく呆れ返るだろう。
いや、妻に至っては怒り狂うかもしれない。
彼女の二十年間を思えば、それは当然の権利だった。
――それでも彼はどうしても、そうしなくてはいけなかった。
それがケイとの約束だから――。
「もうじき帰れるよ。
今度こそ、ちゃんと三人で話をしよう。
それで、ようやく私たちの人生が始まるのだから――」
ロースムはその部屋から立ち去ろうとして、ふと思い立ったように立ち止まる。
再び眠るアンドロイドと向き直ると、その額に口づけをした。
「――だから、今はまだおやすみ、ケイ」
そうして今度こそロースムは部屋を出た。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
残されたアンドロイドは微動だにしない。
おやすみと言われたから、彼女は言われるがまま眠っていた。
機械人形は夢なんか見ない。
休止中の回路は電気信号を送ることを止め、身じろぎ一つすることなく、やがておはようと言われるまで、待ち続ける――はずだった。
「――ア、ルク」
機械人形は夢なんか見ないはずだった。
だけど彼女は確かにそう寝言のように呟く。
機械の部分ではないどこかが、彼女へ必死で訴えかけているようだった。
そうしてゆっくりと彼女の手は動き出し、自らの額に触れた。
「――アル、ク」
夢を見ているかのように、再び呟く。
――そう、彼女は間違いなく、夢を見ていた。
それは彼女がアルクイスト・ロースムという名の青年に出会ってから、恋に落ちるまでの夢だった。
◇
秋も深まる十一月。早ければもう雪だって振る季節だと言うのに、大学の校外に設置されたベンチで眠る青年を、ケイはじっと見つめていた。
青年に用があるわけではない。そもそもその青年のことすら知らない。
それでも彼を見つめ続けていたのは、彼が目隠し替わりにしていた雑誌に用があったからだ。
「あ、あの、お、起きて――いただけないでしょうか?」
思い切って青年に話しかける。
思い切った割には張りのない声で、当然、青年に反応はなかった。
これでもケイは怒っていたのである。
青年が目隠しに利用している雑誌の裏表紙にはデカデカと大学名のスタンプが捺印されていた。つまりそれは大学のライブラリから貸し出されたものを意味していた。
そう、彼女は長いことその雑誌を探していたのだ。
その雑誌にとある記事が掲載されていると知ってからというもの、それが返却されるのをずっと待ち続けていたのである。
しかし雑誌は返却期限をとうに過ぎても返ってくることはなかった。
いっそ自ら買うことも考えた。
しかし専門書でもあるそれは高かった。
苦学生であるケイには、財布から出すに躊躇する金額だった。
どうにか貸し出された相手に早く返すように促せないものだろうか考えていた矢先、その件の雑誌が目隠し替わりに使われているのを目撃したというわけである。
「あ、あの! お、起きて、下さい!」
勇気を出してもう一度、今度はどうにか大声を出せた。
「んっ、んん?」
それでようやく起きたのか、青年は乗せた雑誌をバサリと落としながら頭を上げて、ゆっくりと伸びをした後、
「ヘックシュン! ……寒っ」
盛大なくしゃみをかましていた。
今日は朝から寒かった。
「あっ……す、すみません。
よければ、こちら、どうぞ」
いつから寝ていたのだろうと疑問に思いながら、自分の身体を抱くようにして震える青年が、自分が起こてしまったから凍えているような気になってしまい、ケイは思わず着ていた白衣を脱いで渡していた。
「ああ、これはどうも、ありがとうございます」
借りた本も返さず、こんなところで眠っているようなずぼらな青年だが、妙に爽やかに笑って白衣を受け取るもので、ケイはこれがギャップ萌えというものかと妙にドキマギしてしまった。
「ところで、私に何か用かな?」
「――あ、そうでした。
その雑誌、返却期限が過ぎています。早く返して下さい」
「雑誌?」と首を傾げる青年だったが、ベンチの横に落ちたそれを見て、納得したような声をあげた。
「――ああ。
こんな専門誌、どうせ次に読みたいなんて人はいないさ」
だから急いで返す必要なんてないだろうと言わんばかりに、悪びれる様子もなく言うので、ケイは少しばかりムッとした。
「君は図書館の司書かなにかしている人かな?」
「いいえ、その雑誌を次に読みたい人です」
ケイにしては珍しく、少しばかり棘のある言葉で返した。
すると青年はなぜか目を輝かせて、立ち上がった。
「え、本当に? 君も興味があるのっ?」
「――え、ええ。ですから、早くその雑誌を返して頂きたく」
「まあまあ、座ってよ。
君の持論を聞かせて欲しいな。
語れる人とは語り尽くしてしまってね、それも誰も彼も私は間違っていると言ってくる。
今回の研究結果だって幾度となく繰り返し逆転してきた過程の途中でしかないのかもしれないのにね。
君はその点はどう考える?」
「え? えっ? えっ!? ちょっ、ちょっと!」
青年はあろうことはケイの腰に手を添えて、さりげなくベンチに座らせていた。
男の人にこんな風にリードされた経験は今まで一度もない。
心臓は警笛のように鳴り出していたし、顔からは火が出そうだった。
さらに青年は興奮した様子でとても距離が近い。
思わずケイは青年を突き飛ばしていた。
「ちょっと待って下さい!
一体なんの話ですか!?」
「なんのって、マクスウェルの悪魔の話さ。
この雑誌を読みたいってことは、君も永久機関に興味があるってことでしょ?」
突き飛ばされたことは意にも介さず、青年はさらに近付きながら雑誌の表紙を突き付けてきた。
そこには『マクスウェルの悪魔、再び葬り去られる』と言う見出しが踊り、ケイは大学の講義でも度々話題になる話を思い出した。
確か、分子の運動エネルギーが早いものと遅いものを分ける悪魔がいると仮定すると温度差を作り出せるという話しだ。
温度差を作り出せれば第二種永久機関ができる。しかしそれでは熱力学第二法則を破ることになってしまう。
悪魔が分子を観測した時点でエントロピーの増大が起こるとの論証から長らく議論されなくなっていたが、最近になってそうとも限らないと分かり、物理学会ではこのマクスウェルの悪魔について再び持ち上げられるようになっていた。
それが『再び葬り去られる』という見出しから、何かしらの結論が出たということだろうか?
その中身を読んでいないケイには、よくわからない。
「だいだいランダウアーの限界を持ち出している時点でナンセンスさ。
全てのメモリが、消去される際に発熱するとは限らないじゃないか」
「――それは可逆計算上で、という話でしょうか?」
しかしわからない話ばかりではない。
工学部に在籍するケイにとっては、情報理論は馴染みのものである。
当然、ランダウアーの原理だってわかる。
思わずケイは男に聞き返していた。
「その通りさ。可逆計算ならエネルギーは消耗しないからね」
「ですが、それでは計算に時間がかかり過ぎます。それに可逆計算だからと言っても、結局は計算途中のゴミは出ます。いずれにしても忘却は必要な工程ではないのでしょうか?」
「忘れるのは必要なことだろうけど、ちょっと淋しいよね」
「――はい?」
真面目に話をしていたつもりが、突然の詩的なフレーズ。
そもそもこの青年は誰だろうと、改めて思う。
話している内容は情報理論に基づくものだったが、ケイは工学部で彼を見かけたことがない。
「――君は工学部の人間だね?」
「え、ええ、そうですけど……あの、失礼ですが、どこかでお会いしたことがありましたでしょうか?」
「いいや。だけど君が貸してくれたこの白衣が油臭い。こんな油臭い匂いをさせているのは、工学部の人間くらいだろう」
「――っ!」
気付けば大慌てで青年から白衣を剥ぎ取っていた。
「――と、とにかく、早くその雑誌を返却してください!」
それだけ言い残すと逃げるように立ち去っていた。
青年の姿が見えない場所まで来てから、胸に抱えた白衣を嗅いでみた。
確かにすえた臭いが鼻に付き、ケイは思わず油臭い白衣に顔を埋めて声なき声を上げた。
それから一週間経っても、雑誌は返却されることはなかった。
◇
「どうして返してくれないのですかっ?」
再び校外のベンチ。
そこで一週間前と同じホーズ、同じ雑誌を目隠しにして眠る青年に声をかける。
「ああ、君か。今日は甘い臭いがするから気付かなかったよ」
「――っ」
人生で初めてに本気で男の人を殴ろうかと思った。
しかし事実、あれから白衣を入念に洗濯するようになったし、似合わないと思いながらもコロンを付けるようにもなった。
男性は女性の変化には疎いと聞く。気付いてくれているだけマシだろうと考える。
「そんなことよりもですね、どうして雑誌を返却されないのかと聞いてるのですっ。次に読もうとしている人のことを考えて下さいっ」
「ああ、それなんだけどさ、ちょっと不思議に思ってね、もう一度全部読み返していたんだよ」
「次に読もうとしている人がいると申してるのに、どうしてそうマイペースなのですか?」
「その次に読もうとしている人が、一体なにに興味があったんだろうって気になってね」
「はい?」
それは嫌がらせか何かだろうかと、一瞬たじろいでしまう。
そう言った類の悪意にあまり曝されたことのないケイとしては、どう対処していいかわからなかったのだ。
ただ青年は本当に純粋に興味があったとでも言うように、話を続けた。
「この雑誌の特集記事は『マクスウェルの悪魔』だったわけだけど、先週、私と話している限りではそれほど興味があったわけではなさそうだったからね。じゃあ一体なにに惹かれて、こんなにも人付き合いが苦手そうな娘が、私なんか声をかけたのだろうね?」
別に人付き合いが苦手なわけではない。
ただちょっと男性が苦手なだけである。
それも相手は異国の男性だ。正直に、ちょっと怖かったのである。
「……それを言わないと返して頂けないのでしょうか?」
「そんなことはないけど、もしかしたらちょっと早く返せるかもしれないよ」
もしかしたらちょっとレベルなのかと、ちょっとうんざりした気分にもなりながら、それでもケイは律儀に答える。
「……核移植クローン技術」
「うん?」
「それがわたくしの読みたかった記事です」
そんな記事なんてあったかなとばかりに、青年は目次を眺める。
確かにそれほど大々的な記事にはなっていたわけではない。
そもそもクローン研究なんて、それほどメジャーな研究テーマではない。
専門雑誌に記事が出ること自体が稀なのだ。
「ふーん。工学部の君がどうしてクローン研究なんか?」
「……別にいいじゃないですか。これは勉学とは別の、わたくしの個人的な興味です」
「自分と同じクローンを作りたいのかい?」
「まさか! 自分がもう一人いるなんて思うとゾッとします」
「私はもし自分の身になにかあれば、自分の分身を用意したいと思うけどね」
――分身。
その言葉には思うところがあった。
なまじ自分が分身みたいなものだけに、そんなものにいい印象はなかった。
「――ですが、自分の分身が、自分と同じことができるとは限りませんよ?
それに分身じゃなくても、別の誰かが自分の意志を次いでくれることだってあるかもしれません」
「――なるほどね」
「――え? あ、あの」
雑誌を手に、青年は立ち去ろうとしていた。
てっきり返却してくれるのかと思えば、
「私も興味が出たよ。もうしばらく借りてくことにするよ」
「……えぇ……」
――やっぱり嫌がらせをされているのではないか?
そんな風に感じながら、もうただただ青年の野放図っぷりに呆れ返るばかりだった。
◇
さらに一週間が経った。
相変わらず雑誌は返却されず、ケイは最早定番となってしまったベンチで待ち惚けしていた。
別に約束をしていたわけではない。
なんとなくこの場所に来ればいつも寝ているものだと思っていたが、そうでもないらしい。なんだか裏切られた気分だった。
「やあ。今日も一段と甘い匂いがするね。でも少し付け過ぎじゃないかな? コロンは軽く振るくらいがちょうどいいよ」
いつも人の臭いばかり気にして、犬なのかしらと思う。
「もしかして待っててくれた?」
「ええ、待ってます。もう一か月ほど待ってます。
そろそろ返して頂けないでしょうか?」
少々どころではなく刺々しい口調に、自分でもびっくりした。自分がこんな風に喋ることもあるのだな、と。
「そのことだけどさ、結論から言うと、ここに君が望んだことは書いてないよ」
「えっ?」
「遺伝子情報が同じでも、決して同じ人間にはならない。それが私の結論だよ」
「―――――」
――この人は。
――この人はどうして、こんなにも失礼なのでしょう?
思えば初めて出会ったときからそうだった。
人の読みたいと思っている雑誌を、どうせ読みたい人はいないと言い、白衣を貸せば臭いと言い、返せと言ったものもなかなか返さない。
「じゃあ、私はこの雑誌を返してくるよ。
こんなマニアックな雑誌、すぐ別の誰かに貸し出されるようなことはないだろうけど、それでも早めに取りに行った方がいい思うよ」
「……どうして?」
「うん?」
「どうしてそんなこと言うのですか?」
挙句の果てに、知りたくもなかったことを堂々と結論として断言する。
――わたくしは、同じように生まれ育った人間は、同じような人間になれるんだって知りたかった。それなのに。
「君のお姉さんに会ったよ」
「えっ!?」
「正確には君と同じ臭いのする人と会ったよ」
――やっぱり犬なのでしょうか?
臭いが同じなのは当然だ。
だってケイは姉のサキから借りてコロンを付けた。
だけど臭いで判断する必要は全くない。
なぜなら、見た目もほとんど同じで、黙っていれば両親だって判別できない。
瓜二つの双子だった。
「うん、もしかしたら君たちはとてもよく似ているのかもしれない。
だけど、やっぱり、全くの別人だったよ」
「……それはそうです。
だってお姉様はとても優秀なのですから。
わたくしとは比べ物にならないくらい、優秀なんですよ」
そう、同じ遺伝子で、同じ環境で育って――なのに姉は妹の何倍も優秀だった。
周りからも言われ続けてきた。
外見は同じなのに、どうして中身は違うのでしょうね?
両親だって、姉にばかり期待していた。
いつだったか、好きな人が出来て――でも気付いてしまった。
その人の視線も、自分ではなく姉に向いていることを――。
姉のことは嫌いではない。むしろ誰よりも大好きだった。
伊達に異国の地まで付いて行って一緒に暮らしてない。
姉に憧れて、姉のようになりたいと、何度も思った。
そのために努力もした。
だけど姉の方がいつだって数歩先にいて、全く追いつけない。
生まれたのが数分違いなのに、その数分は絶望的な差だった。
同じなのに、どうして違うの?
なにが違うって言うの?
ケイはそれを知りたかった。
「優秀か。通りで私と似てると思ったよ」
「――それはどういう自慢ですか?」
「そして君とでは似てないとも思ったよ」
「……………」
本当に失礼な人だ。
思わず泣きそうになるのを、俯き、唇を噛んで堪えた。
「だけど私は甘い香りが苦手でね。
私は油臭い方が好きだね」
「……えっ?」
――それはどういう意味なのでしょう?
顔を上げると、青年はもう歩き出していた。
雑誌を返すに行くと言っていたから、恐らく図書館に向かったのだろう。
ただケイはもうその雑誌に興味がなくなっていた。
変わりにケイは今もっとも気になることを尋ねた。
「あの! お名前を教えて頂けないでしょうか!?」
今の今まで、そんなこと尋ねようとすら思わなかった。
離れて行く青年の声は、後半擦れて聞き取れなかった。
確かに聞き取れた部分だけ、ケイは繰り返す。
「アルク――」
それからと言うものケイは度々、校外のベンチで雑誌を目隠しに眠る青年を見つけては起こしてあげることになる。
◇
「アルク――起きて下さい」




