第116話 異世界の在処
パールの治療が開始された。
治療内容の詳細は聞かされたが、武蔵には難しい内容で、理解できたのはパールに薬を投与するがそれで治るかどうかはヘレナ曰く十パーセント以下とのことだった。それもパールにとって相当に苦痛を伴うものだそうだ。
「できる限りそばにいてあげたい」
「薬の影響で彼女の抵抗力は落ちる。ちょっとした感染症で命を落としかねない状況だ。彼女には当分無菌室での治療になるし、彼女のそばにいる時間が長ければ長いだけ、そのリスクが伴う」
「なら、せめて見守ってあげることくらいは!」
「君の気持ちは理解できるよ。しかしこの治療が確実なものでない以上は、彼女のために他のやるべきことをやる必要があるんじゃないかな?」
「…………」
ロースムの言い分ももっともだった。
結局、武蔵は無菌室に隔離されたパールを数日見守るうちに、意識朦朧としたその様子に居ても立ってもいられなくなった。
「――この世界の真実ってのを見たら、帰る方法がわかるのか?」
「少なくとも方法だけははっきりするよ。ただ、手段がわかるかどうかは君がこの世界でどんな経験をしてきたか次第かな」
妙な言い回しをするロースムに首を傾げながら、それでも武蔵はその世界の真実がわかる場所というところへ案内してもらうことにした。
苦しそうに悶えるパールを置いていくのは忍びない。後ろ髪を引かれる思いだった。
ただ、なんとなく「大丈夫」「気を付けて行ってきてね」というパールの声が聞こえたような気がした。離れてても想いは届くと言ったのはサラスだったか。どこへ行ってもパールのことを想ってると強く念じて、武蔵はロースムとスラに連れられてニューシティ・ビレッジを後にした。
◇
「パールを連れてきたら、きっと大はしゃぎだっただろうな……」
いの一番の感想がそれだった。
わざわざ夜になってから出発するもので、一体どこに連れていくつもりなのか思っていたが、それを目にすることになって、武蔵は目的地の検討がついた。
ロースムが連れて来た場所は港だった。
木造の桟橋があるだけの、ムングイでも見たような簡素なものだったが、それでもそこを港と呼ぶに相応しいものが接岸されていた。
「――船」
「この世界に来た人たちに造船知識を持った人が誰もいなかったからね。ここまでのしっかりしたものを作るのにはかなりの時間を必要としたよ。
スラ、出船準備を頼めるかな?」
「はいはぁい、了解しましたぁ」
指示するまでもなく早足に船に乗り込んでいったスラを見送りながら、ロースムはその場に腰を下ろした。
「年寄な上にこの足だからね。立ちっぱなしは堪えるよ」
そう言ってに苦笑するロースムに倣って、武蔵も彼の隣に座り込んだ。
「この船もロースムが作ったのか?」
「いいや、私だけじゃないよ。この世界にやってきた男衆でああでもないこうでもない言い合いながら、作ったんだよ。この海の向こうにきっと私たちの国があると信じてね。
もっとも私がそれに改造と補修を繰り返したから、もう当時の状態の部分は一つとしてないけどね」
ロースムの目は、どこか遠くを見ていて、それがとても寂しそうに感じた。きっとその人たちはロースムにとっての友人で、恐らく三百年前に全員亡くなってしまったのだろう。
「……ロースムはどこの出身の人なんだ?」
今更になって武蔵は初めてロースムがどこの誰なのか聞いていないことに気付いた。恐らく初対面のときにこの世界の人と勘違いしていたのもあったからだろう。
「私はアメリカのニュージャージー州出身さ。わかるかな?」
アメリカはわかるがニュージャージー州と言われてもピンとこない。そもそもワシントンやハリウッドだって武蔵は具体的な場所がどこかもわからなかった。
ただアメリカと言われたときに、やっぱりと思った。
サキは日本人と名乗ってはいたが、ロースムは明らかに西洋人の顔をしている。日本語は堪能だけれども、日本人とはとても思えなかった。そしてニューシティ・ビレッジの街並みは、まさに海外映画で見る住宅街という感じだった。
しかしそうなると尚のこと疑問が残る。
「三百年前のアメリカって、あんなに近代的だったのか? カウボーイとか、そういう時代じゃないのか?」
「それは西部開拓時代だから百年ちょっと前だね。君の考えている三百年前なら、そもそもアメリカはまだ存在していないさ」
知ったかぶりで恥をかき、武蔵は思わぬところで歴史の勉強の大切さを思い知りながら、ますます計算の合わなささに疑問が浮かぶ。
「君はこの世界が未来の地球じゃないかって考えてたんじゃないかな?」
再度、頭に浮かんだ可能性を、ロースムはずばり指摘してみせた。しかし一度否定されているだけあって、なんとも素直に頷けない。
「それも解釈次第では正しいかもしれない。だけど君も私も決してタイムトラベラーではないさ。同じ連続した時間軸の流れの中にいながら、未来へと流されてきてしまった哀れな漂流者さ。その証拠に、私は君が西暦何年からやってきたか言い当てることもできるよ」
「えっ……」
「2012年だね。正確な日時までは自信がないけれども、まあだいたい春頃かな」
「―――――」
思わず回答を忘れる。驚いたのは、それが正解だったからだ。
そんな武蔵の反応にロースムは満足したのか、微笑みを浮かべながら頷いた。
「その反応を見るに正解だね。違っていたら私が驚いていたところだ。
ちなみに私たちがこの世界にやってきたのは1992年さ」
「1992年……?」
武蔵が生まれるずっと前ではあるけれども、三百年も昔ではない。
ニューシティ・ビレッジの街並みを見ても、その年代なら納得できるものがある。
だけどやっぱり三百年という時間は埋まらない。ロースムが言う「同じ連続した時間」という言葉と矛盾するように思う。
「――そろそろ準備も終わった頃だね。私たちも乗船しないと、スラに怒られてしまうね」
武蔵の中でますます疑問が増えていく。それも見透かしたように、ロースムは立ち上がりながら言う。
「全ては”世界の果て”に向かえば見えてくるさ」
船を見た時点でどこに向かおうとしているのかは予想できた。
海の向こうには”壁”があると言っていたのはロースムだ。
『壁とは言っても、厳密にそれは壁じゃないよ。
そこから先は海が途絶えていてね、空だけになるんだよ』
なんともイメージの湧かない話ではあった。そこに向かえばこの世界の真実というのがわかり、疑問も解消れるというのかだろうか。
訝しい思いを感じながらも、武蔵もまたロースムに続いて乗船した。
◇
穏やかな海だった。大きな波も立たない。
夜なので水面をロクに見ることもできない。
出発時こそこの世界で初めてのクルージングに胸を弾ませていた武蔵だったが、すぐにただ広い大海原に飽きてしまい、”世界の果て”に想いを馳せながら、ぼーっと進む先に目を向けていた。
「以前、君にこの場所がどこなのかわかるか訊いたことがあったね。その答え合わせをそろそろしておこうか」
退屈そうにしていると見えたのだろうか。ロースムはまるで学校の先生が意地悪問題の回答を披露するように切り出した。
「それも”世界の果て”に行けばわかることじゃないのか?」
「いいや。私の訊いたのはこの場所の具体的な地名だよ」
「地名……? ムングイじゃなくて?」
「それはあの国に暮らす人たちがそう名乗っているに過ぎないよ。付け加えると、あの国が国として体裁を整えているのはあのムングイと呼ぶ街の中だけさ。もともとムングイで暮らしていた人たちが独立してできたロボク村を除いて、その他の集落はほとんど独立自営してるよ」
確かにサラスやヨーダからはムングイとロボク村以外の町の名前は聞いたことがなかった。騎士団と呼ばれる組織が半ば自警団に近いのは、あの街以外に活動する必要がなかったからだろう。
しかしムングイ以外の地名がまるで思い当たらない。
具体的な地名と言うからには、武蔵だって知ってて当然のような場所ではあるのだろうけど――。
「さっき答え合わせてと言ったからね。考えるのはここまでだよ。
正解を言ってしまえば、ここはインドネシアだよ」
「――――――――――は?」
あまりにも予想外の、それもあまりにも具体的な国名が出て、武蔵は思わずなにも考えられなくなってしまった。
――……インドネシア?
武蔵もインドネシアの場所くらい知っている。日本から海を越えて南下した場所に存在する島国だ。
決して日本から近い場所ではない。だけどそれでも海を越えれば辿り着ける場所だった。
決して異世界なんかではない。異世界転移なんてしなくても、行ける場所だ。
サラスから教わったアルファベットや英数字は武蔵の知るそれとほとんど共通だった。ここが異世界や異星であるなら、そんな偶然があるなんて考え難いとは思っていた。それに加えてアンドロイドなんてものが出てきたからこそ、武蔵はここが未来の地球じゃないかと考えていたわけだけど。
しかしそれでもどうしても簡単に受け入れられるわけがない。
「――どうして、インドネシア、なんだ……?」
「文化的な背景や、言語体系、さらに農産物や建築様式による推察さ。私たちがこの世界に来て、割と早い段階では、ここが我々の時代で言うところのインドネシアに位置する島の一つじゃないかとは推測していたよ。
――もっとも、もっと正しく言えば、ここはオランダ領東インドになるだろうけどね」
「――オランダ? ……インド?」
「ああ、いいよ。君にわかりやすいようインドネシアと言ったんだからね」
その口ぶりからして、ロースムはまだなにか知ってるのかもしれない。
ただ確かに武蔵はすでに許容限界だった。ここがインドネシアだと言われただけで、すでに混乱しているのだ。
「……つまり、ここは本当に、地球上のどこかだったのか?」
ただ時間をかけて考えていけば異世界に転移したなんて考えよりはよっぽど現実的に思えた。
そして、ここが地球上だとわかれば、今まさに向かっている”世界の果て”がどういった場所なのかもわかる。つまりこの世界は地球上のどこかにある、不思議な”壁”によって囲まれた世界だということだ。それがこの世界の真実ということだろう。
「地球上か……地球上ね……地球上かと訊かれてしまうと、頷き難くなってしまうけどね」
「――?」
なんとも歯切れの悪い回答だった。ここが地球かどうかの回答で曖昧になるようなことがあるのだろうか?
「ここが地球上かどうかを判断するのは君自身さ。そろそろ見えてくる頃だよ」
そう言ってロースムが指を差した方角を見て、武蔵は驚愕した。
「……なんだあれ?」
ロースムが指示した以上は、そこが”世界の果て”なのだろう。ただそこには言われていた通り、目に見えて壁と呼べるものはなかった。
しかしその場所を境に海が途切れてしまっていた。そこから先はまるで蜃気楼を見ているかのようだった。空間は揺らぎ、まるでキャンパスに適当に絵具をぶちまけたかのように黒や青と言った色合いが秩序なく広がっていた。その光景は、なるほど、確かに遠目から見れば「空だけ」になっているように見えなくもない。
「スラ、ぶつからないように注意しながら、ギリギリまで近付いてもらえるかな?」
「はぁいぃ、了解しましたぁ」
「くれぐれも注意ね」
せっかちなスラの性格を考慮してのことだろう。
しかしロースムがそこまで注意を促す以上、その先に行くのは危険ということなのだろう。
「……あれにぶつかるとどうなるんだ?」
「どうもならないさ。言葉通りあれは”壁”さ。ぶつかればたちまちこの船は沈んでしまうよ」
「……壁?」
しかし正面に見えているのは、モザイクがかかった空間だけだ。”壁”と言われても武蔵はピンとこなかった。
「こういう時は日本語で『百聞は一見にしかず』って言うんだったかな」
そう言ってロースムが取り出したのはステンレスの水筒だった。水分補給のために各自持ってきたものだ。
”壁”に近づいたところで、ロースムはそれを”壁”に向かって投げた。
それは放物線を描きながら、”壁”にぶつかると跳ね返ってロースムの手元に戻ってきた。
「えっ!?」
「確かに壁のようには見えないけど、こうやって物がぶつかれば反発して戻ってくる。ただ空間の揺らぎのように見えるけど、これは間違いなく”壁”なのさ」
「えっ、でも、今の跳ね返り方って――」
「いい観察力をしてるね。確かに、今の跳ね返り方は物理的におかしいね」
そう、ロースムが投げた水筒は放物線を描きながら”壁”にぶつかると、下に落ちていくのではなく、再び放物線を描きながらロースムの手元に返ってきたのだ。その光景はまるで時間を巻き戻すかのようだった。
「これは壁のようには見えないけど、壁のような役割を果たす、だけどやっぱり壁ではない何かさ。この壁のような何かがこの島全体を覆いつくしているのだよ」
「……じゃあ、この壁を超えることができれば……」
「元居た場所に帰ることができるね」
「……帰れる」
それはこの世界に来た当初、どれだけ望んでいたことか。
思わず”壁”に触れようと手を伸ばし――
「やめておいた方がいい。先ほどの水筒はそれほど大きくもなく、強度もあったから戻ってきたけど、そうでなければ触れた部分からねじ切れるよ。私の足のようにね」
「えっ!?」
慌てて手を引っ込める。”壁”と呼んでいる以上はてっきり触れるものだと思っていた。
「――これで足を失ったのか?」
「まあちょっとした実験のつまりだったんだけどね」
「――実験っ?」
「そう。お陰でソレがなんであるのかは、凡そ予測がついたけどね」
「……………」
まるで足を失ったことは大したことでもないかのように飄々と言うロースムに薄ら寒いものを覚えながら、武蔵は間違っても”壁”に触れないように、船の縁から距離を取った。
「……それで、この”壁”がなんだって言うんだ?」
「その前に、この場所がどこなのかの答え合わせの続きをしよう」
「答え合わせの続き? さっき、ロースムはこの場所はインドネシアだって」
「それは地名としての答えさ。位置としての答えがイコールとは限らないよ」
「――ロースムは何が言いたいんだ?」
「その”壁”をよく見れば君にだってわかるはずだよ。一番判別しやすい夜の間に来てもらったんだ。ほら、揺らいではいるけど、黒と青の境界に目を向けてみるといい。それが何なのか見えてくるはずだよ」
何が見えると言うのか。
武蔵はロースムに言われるがまま、揺れ動く黒と青の境目に意識を集中させた。
”壁”の大部分が黒かったが、下の方は青い面積が集中していた。それが一体なんだと言うのだろうか。
むしろどうしても黒い部分に目が行ってしまう。そこは偶に思い出したかのように光が瞬き、なお一層星空のように見えていた。きっと空に浮かぶ月も、離れて見ているから月と認識できるだけで、”壁の”近くで見れば揺らいで見えていたのかもしれない。
「……月?」
ふと気になり空を見え上げる。
確かにそこには月が出ていた。目を凝らして見ても、揺らいで見えることはない。
再び”壁”の青い部分に目を向ける。しかし今度は目を凝らさずに、半分だけ目を閉じて、あえてピントをボケさせて見る。
揺らいだ景色はさらに霞み、全体がはっきり把握できなくなってしまったが、そのお陰で逆に抽象的になり、見えてくるものがあった。
「――あっ……」
”空”の下方部分に見える青いもの。揺らいで変な形になってしまっていたが、青い球体の一部のように映った。
「……まさか、地球?」
「正解だよ。この”壁”の向こうに見えているのは地球さ」
瞬間、鳥肌が立つ。
ロースムが言っていた言葉の意味を全て理解して、武蔵は今度こそ、この世界がどこにあるのか把握した。
「じゃあ、まさか、この世界がある場所って――!?」
「そのまさかだよ。
ここは地球の上空凡そ五百キロの場所を浮いている島なのだよ」
「――空に浮かぶ……島っ!?」
それはある意味でここが異世界であると言われるよりも信じ難く、武蔵はそれを受け入れるのに、ここがインドネシアだと言われたときよりも時間を要した。




