決して、ない(男の話)
腕の下の女に手を伸ばし――アーツァルクは、ふと、その指先を止めた。
寝室は暗く、横になる女は後頭部しか見えない。汗の引いたその肌は、先ほどとは違う熱を、温かさを帯びていた。寝息は聞こえないが、微睡んでいるのかもしれない。
――おこして、しまうか。……いや、何を。私は。
涙が、とアーツァルクは思う。交わった後の思考は気怠い。水面の泡のように、脈絡もない断片が浮かぶ。ぽつ、ぽつりと。
泣く女ではなかった。絶望に泣きわめき、叫び散らす女ではなかった。普段からけらけらと(品がない、とアーツァルクはよく思う)笑い、人生のおおかたは楽しむものだ、と生きる女だった。死が迫った時でも、怯えながら笑おうとする、女だった。
生理的な涙ならば、アーツァルクはよく見る。むせるまで笑った時に(これも品がない、と思う)出る涙や、焦点の合わぬ目に溜まる達した後の涙。
止めた腕をまた伸ばし、女を抱く。
柔らかく暖かい背が、腹に重なる。
鼻先に、女の髪。
馴染んだにおい。
顔を、見たかったのかもしれない。泣いていないか、あるいは泣いていればその顔を、見たかったのかもしれない。そして、拭いたかったのかもしれない。交わっている時のように。
――ちがう。
女は、温かかった。
柔らかい肌だった。
いつもとは気配の違う涙だったことか。
拭いたいなどと、益体もない思考をか。
何が違うのか。何を否定したいのか。
女の体温のそばで、言葉はまとまらない。温い泥に沈むように目蓋を下ろせば――「……なに?」――女の声。かすれて、しかしはっきりとした声。
まだ、早い。どこかが思い、腹に回した腕に力が籠もった。
けれども女はいとも簡単に逃れ、身を起こす。
女は窓を見て、空を見た。
夜空の濃紺を、天の星の傾きを見た。
夜明け前。
明けぬ夜はなく、その闇は最も深い。
「戻らないの?」
振り返りもしない女。いつも通りの声に、いつも通りの言葉。
アーツァルクは息を吐き、戻る、と返す。
朝まで残れば、忠実な老僕が使用人を連れてやってくるだろう。主であるアーツァルクの身支度のために。ついで、夜を共にした女の世話もするだろう。
女はそれをひどく嫌がる。あれほど奔放に戯れるというのに、共寝した残滓を見られることは厭う。他者の奉仕を拒む。居室に呼んだ際は、朝になって滅多にないほど狼狽していた(あれはあれで愉快だった)。寝具を自分で洗うと言い出したから、アーツァルクは女の部屋に行くことにしたのだ。部屋の寝具は女の故郷のもので、手入れも簡単だと以前に聞いたことがあった。
だから、朝まで女のもとにいることはない。
そこまで求められているわけでもないのだ。
身なりを整えていると、背に声をかけられた。
「髪、しよっか」
降りた寝台に腰をかける。
ギシ、と軋むのは女が寄ってきた音。そして感触。伸ばしている髪が一房、また一房、掬われる。薄暗い部屋ではたいして上手くできないだろう。いつも通り、不揃いな結い方のはずだ。そもそも女の髪は結えるほど長くない。結うのは、こういった時だけだ。
「ちっちゃい時から?」
「……何がだ」
「髪。まっすぐでサラッサラ」
また一房。
昔はできなかった女。しなかった女。
「そうだ」
「子どもの頃からこれじゃあ、そーとーな美少年よね」
こうして女への取引材料にできる程度には、アーツァルクには容姿に自信があった。女にとって価値を持っていると信じていた。
最近は、よく、わからない。
言葉を返さずにいれば女も黙ったまま。以前ならば「うっらやましいー。女の敵め!」といったくだらない軽口をたたいただろう。
今は、何も言わない。
ただ、結って、梳いて、撫でるだけ。また、一房掬って、結う。ただ、それだけ。
予感。
アーツァルクの喉元までせり上がる、切迫した、予感。
――もはや、これすら関心がないのか、価値がないのか。では何だ? 何がある? お前たちにとって、お前にとって、価値のあるものは、興味を引くものは。
宝飾品は都市への支払いに使えるが、女は合う服がない、とさして喜ばない。では服も一緒に作ろうとすれば「どこで着ろっての」と笑って断られる。
何を喜ぶのか、いまだにわからない。喜んだのは「友」の称号だけ。不公平な取引は破綻を呼ぶから、また、手を考えなければならない。
「できたよ」
振り向けば、女が見ていた。
輪郭すら曖昧な部屋で、瞳が瞬いている。絶えた望みの前で軽やかに光を拾う、あの、強かな目が、今は濡れている、ように、見えて――
「どしたの?」
――わずかに動いた腕を、アーツァルクは、また、止める。意味のないことをしようとしていた。拭おうなどと、益のないことを。すでに互いの用は済んだというのに。
立ち上がり、寝室を足早に出る。続きの応接間を抜ければ、ずるずると引きずる音。いつも通り、女は寝具を巻き付けて追って来るのだ。アーツァルクが開けた廊下への扉を閉めるために。かんぬきを下ろすために。
アーツァルクはそのガコン、という音が気にくわなかった。鉄製だからだろうか、落ちる音はやけに響き、腹立たしいほどに耳障りだった。つけた女が始終かけ忘れるから指摘したが、もっと守りを厚くすれば不要になるかと考えるほどだった。
「じゃ、ね」
いつも通り、女は扉のそばに、アーツァルクのそばに立って、笑う。
笑って、扉を閉めた。
アーツァルクは人気の無い廊下を一散に歩く。
不快な音など、聞きたくもなかった。
◆◇◆
見上げると、女がいた。
相変わらず、掴みどころのない女だった。
どこにでもいるような女である。ただ、見た後によく考えれば、どこにでもいる者ではなかった。女にしては背丈が高かったし、髪の長さもおかしい。女で肩にも届かない短さは罪人と同じだ。それでいて、この格好でここにいるのが当然だ、という顔をして、なぜか目立たずにいた。だから、いつの間にか女はあちらこちらに顔を出し、いつの間にか受けれ入れられた。
ならず者が集まる闘技場の底でも。
騒がしい街の市場でも。
闘技場の後援者である大商人との会食でも。
どの場でも女はすぐに馴染んだ。それが向いていることなのだと笑って。身分の違いをいたずらに乱すことはなかったが、根本から気にしていないようだった。
今日も小間使いの少女たちと一緒に執務室へ入ってきた。茶器を乗せた手押し車を転がしている。今の女がする仕事ではない。女には、この城の長となったアーツァルクへの直言を許している。そんな立場の女が、やはり当然の顔をして、家臣や古参たちに茶を配膳する。家臣は挨拶代わりの嫌みを口にする。古参は闘技場時代の野卑な口調で女に礼を言う。女はいつものように笑って返す。そうして、ちらり、こちらを見てから、執務室から出て行く。控えの間で待つとすれば、何か用があるのだろう。アーツァルクは手元に視線を落とす。己の分は、忠実な老僕にすでに給仕されていた。……あとで部屋に行けば良い、と思い直す。
地図に目を落とす。
演習の内容を詰めていた。「視察団」に見せるためのものなので、見栄えがして、それでいて目新しさはないものにする予定だ。「視察団」の後ろにいる者たちへの、派手な見せ物。脅かすほどではないが、取り込むには面倒で、放っておけば防壁として都合がいい。そういった印象を持たせる。手の内を明かす必要はないから、若手を中心として少々の古参が場を仕切る流れを組む。
方針を固め、細部を決めるのは休憩を挟んでからとなった。
女を、その演習に加えるつもりはない。秘め事の多い女だ。「視察団」にも会わせないようにしているほどで、もとより出すつもりもない。であるからこの評議にもいなかった。それに、不得手なのだ。多くの者が絡む戦は勘所がわからないらしい。闘技場ではよく手の内を読まれたが、あれは人数が少ないからできたことのようだ。あるいは、人形に仕込んだ仕掛けのおかげか。それを明かせ、と「友」に命じられる権限を、アーツァルクはまだ持っていなかった。
友。
アーツァルクが女に渡せたのは、救われた恩に報いることができたのは、それだけだった。地位も富も権力もない、名ばかりの誉れ、それだけだった。この城を本拠とした日のこと、用意したものの中で、女はそれを喜んだ。喜んで――「これ最高にイカしてるわ」――最も心地よく笑った(やはり品がなかった)のは、それだけだった。
ため息を、一つ。
女が来るのであれば、なにか甘いものでも出させれば良かった。女は菓子を好む。生まれは違えど、そこは婦女子と変わりないのか、と安心する。
そんなことを考えていると、老僕が小間使いたちを指図し、家臣や古参たちになにやら配らせていた。女が、評議を邪魔する詫びに茶菓子を持参していたらしい。危ういというのに、姿を変えてはたびたび近隣の集落に潜り込み、女はこういったものを調達するのだ。
啜る茶の味が、渋みを増す。
アーツァルクはとある亡国の後継である。
本来は「アーツァルク」の後ろに地位や続柄を示す長い呼称が続き、「エバン」で終わる。「魔導人形」の技を継承する、古くからの家柄。「エバン」は領地の名であった。
父を殺され、母を殺され、そうしてその死骸を晒された地。
家臣は時折その名を呼ぶが、己にとっては捨てた名であった。呪った名であった。晒したのは、民である。技を狙われ、近隣の野心家に付け入られたのは、王である父の手落ちであろう。けれども、飢えもなく、安寧に治めていた君主を殺したのは、民であった。唆されて欲に目が眩み、館を焼いて略奪したのは、庇護していたはずの民であった。あの夜、照準の中で、松明は狂ったように踊っていた。
十五の冬である。
生き残った家臣や郎党を率い、流浪した。各地の闘技場で蔑まれ、見せ物となり、食と日銭を得てしのぐ日々。この技さえなければ、と思う夕暮れもあった。けれども、技は、逃げるために、生きるために見捨てた父母の、唯一の形見でもあった。捨てれば、己には何も残らなかっただろう。
女と、女が属する都市を知ったのは、そういった鬱屈した時期だった。幾度かの接触を経て、女との、ひいては都市との取引を始めた。
拍子抜けしたことを、覚えている。
「魔物の巣」とも呼ばれていたから用心したというのに、都市は、ずいぶんとまっとうだった。理を重んじ、契約を重んじた。考え方の違いはあれど、利が合えば取引ができた。アーツァルクは、己の才覚と、受け継いだ技を提示すれば良かった。裏切らなければ、裏切らない。長く、良い相手として取引が続いている。都市の優先は「生存」にある。生き延びるために必要なこと、そう判断したならば、魔法も人形も同じ「技」として取り込もうとする。そこには崇拝もなければ、蔑視もない。
価値の天秤は絶対ではない。
そう知って、己をわらった。
先日からの交渉は駆け引きが続いている。都市はずいぶんと踏み込んできた。こちらも一歩進めて良いだろう。女には、アーツァルクの私的な愛人の立場を与える予定だ。公の地位に就かせれば、中央から介入される。女と都市を中央の注意からそらすには妙案だった。女に伝えるのは都市との条件が固まってから。「女」などあれで十分だから、あとは政治状況に適した者を娶れば良い。
詰めの評議は家臣と古参が中心となって進んだ。
方針に沿って演習の内容を固め、意見が対立する項目はアーツァルクが判断する。そこには家臣もなければ、古参もない。目的に合うか、それだけが基準だった。中央がこちらを脅威とみなせば、いつかのように潰しに来るだろう。それに耐える力は、まだ、ない。どうのように圧をかわし、力を蓄えるか。アーツァルクは、家臣にも、配下となった古参にも、それを求めた。考えるよう、求めてきた。生きるために考える、それをしない者など不要だった。
アーツァルクは、だから、ただ平伏する民に信を置かない。力も持たず、知恵も持たず、技も持たず、そして持とうともせず、ただ施しを待つような民を、欲しない。立てる者を求めた。自ら立ち、自ら生きる者を、この地の民としたかった。血筋も家柄もいらない。ただ、自ら築いたもので生きる民が、欲しかった。
己が選んだ地に、己が作る国に、己が望んだ民を集める。
大それた望みだとは、言わせない。
評議は長くかかり、終わった頃には日が傾いていた。
呼びにやらせれば、アーツァルクは女からの書簡を渡される。すでに女は自室に戻ったとのこと、何をしに来たのか、相変わらず掴みどころのない女だった。
「気まぐれな女子ですな」
「女なんぞそんなンだろうさ」
居残った者の会話を聞き流しながら、書簡の封を切る。
休みを取りたいだとか、食事の献立を変えたいだとか、そういった類いを女はよく文書にする。休養日の希望は誘いだろうが、他は些細なことばかりだ。好きにすればいいと伝えるたび、「言質は取っとくもんよ、形に残してね。ほら書いて」と署名を求められる。都市と同じか、と書面を開けば、書かれていたのは――
「おや、どちらへ?」
「……しばらく出る。お前たちも戻れ」
――『退職の申し出』。
小国ではあるが、アーツァルクは跡継ぎとして教育を受けた。だからもちろん、言葉はすぐに読めた。読めないのは、理解できないのは、意味だった。女がこんなことを書く、意図だった。
女には離れる選択肢があるのだと、アーツァルクは、今、はじめて、気がついた。
――気のせいではなかった。抜かりがあったか。何が足りない? どうあればいい? どのような者であれば、お前は。
女の部屋の前で、アーツァルクは我に返る。執務室からどこを通ってきたのか、覚えがない。扉に手をかけていた。かんぬきがかかっていないのは幸いだった。閉ざされていれば、アーツァルクはそれを壊しただろう。衝動を抑えることなく、身の内の力を解き放って粉々にしただろう。
呼吸を整え、思考をまとめる。
女は、都市は必要なのだ。これまで以上に必要なのだ。己のために。己が作る国のために。失うわけにはいかなかった。であれば、示さなければならない。求めるならば才を。好むのであれば身を。
いつもの気まぐれにすぎない、と己に言い聞かせ、アーツァルクは扉を開く。
愛したわけでは、決して、ない。
◆◇◆
「飲む?」
差し出された器にはなみなみと水がつがれていた。髪を整えていたアーツァルクが「そこに置け」と言えば、女は一口飲んで、台に置く。内心驚いて見上げれば、気がついたのか「毒味ってやつ? いつもしてるでしょ。大変よねー」と笑う。そうして、座席の背もたれに腰掛ける。
人形の機内は狭い。都市の人形は一族のものとは異なり、動かすために多くの器具を必要とする。動き回る余裕もない。アーツァルクに席を譲った女は、だから、立ったまま身支度を始めた。
アーツァルクも髪を結う。散々に乱された髪は昨晩の名残だ。ひきつった感触に肩を探れば、噛み跡まであった。品のない女だ、とアーツァルクは思い、そんな女と事に(しかも人形の機内で)至った己の迂闊さを苦く感じる。すっきりとした体にも、妙な苛立ちを覚える。
経緯を思い出せないほど酔っていた、と認めるざるをえなかった。策を巡らせ、手配をし、こちらの狙い通りに勝つためには、確かに苦労した。苦労は十分に報われてこれからの見通しも立った。取引相手の女と関係を持ってしまう程度には、気が、緩んでいたのかもしれない。
「使う?」
女が手鏡を出した。ちら、と目をやり、無言でまた髪を結う。人形に乗れば一人で何でもしなくてはならないから、アーツァルクは身分のわりに一通りのことはできる。それに、髪を整えることは魔法を使う身ならば当然の基本だ。鏡がなければできない、と思われるのも癪に触った。
視線で気がついたのか、女は「邪魔? ごめんごめん」と手鏡を引っ込める。常識の異なる女だが察しは良く、使い勝手がいい。昨日の見世物でも、こちらの意をよく汲んで動いた。そういった事が得意な女だというから警戒は必要だろうが、使える手駒が増えるのは大きな助けだ。
「うまいもんねー、あたしじゃ無理だわ。向いてない」
そう笑う女の髪は、罪人のように、結えないほど短い。結ったこともないのでは、とアーツァルクは思う。そんな女に、己の髪を触らせる気にはならなかった。結い終わり、女が差し出した(これもまた気が利く)衣服を身につけていれば、視線を感じた。
「何だ?」
「んーーー……顔、好みだなって」
アーツァルクは、少々、いやだいぶ面食らった。
目の前にいる女は魔法を何一つ使えない。そんな最下層ともいうべき女から、元がつくとはいえ一国の後継たる己が品定めされる。なかなか刺激的な出来事だ。この女でなければ、アーツァルクは侮蔑と受け取っただろう。口を開く寸前、この女が魔法を使えないことに、全く、完全に、わずかたりとも劣等感を抱いていないことをかろうじで思い出し、ただの戯れ言だ、と結論づける。言葉を返す気にもならず、黙々と襟の留め具を整える。一つ無い、と気づけば女から「昨日は酔っててさー。破っちゃってほんとごめんねー」と渡された。品がない、とアーツァルクは何度目かわからず思う。
「ま、気が向いたらしようよ。悪くなかったしさ」
そう言って、女はあっさりと人形の機内から出て行く。女の、都市の秘密の固まりだろうに、警戒心は欠片もうかがえなかった。アーツァルクにはわからないと思っているのかもしれず、そうであればその油断につけ込んでやるか、と笑みが浮かぶ。
「おはよーーさーん! 生きてるーー? 酔っ払いどもーーー!!」
外からは女に怨嗟を飛ばすうめき声が聞こえる。昨晩は闘技場の浮浪者たちも飲んでいたから、幾人かはその辺りで屍のように転がっているだろう。中には見込みのある者もいたから、それらを手なづけている女と手を組んだのは上出来といえた。女にその気があるのならば、交渉を上手く運ぶためにも、付き合ってやれば良いだろう。
悪くはなかった、とも思い、身をかがめて機外に出る。
塵と埃と、勝利の余韻に満ちた場末の闘技場を、アーツァルクはカッ、と靴を鳴らして歩いた。




