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空と花と道と  作者: オガタチヨ
第1章
12/52

「今のお前は、ここにいるべきじゃない」

欧州――第13地区。7日目。

 太陽はいつの間にか西の方角へと傾いでいた。空には既に、水色と橙の美しいグラデーションが織られつつある。所々浮かぶ雲にはその色が凝縮されて、空に奇妙な文様を描く。

 しかし木々に囲まれて座り込んでいる二人には、そのような情景など見えてはいなかった。

 デュカスはぼんやりと、ハルトの胸に体を預けていた。

 あの日から――姉を失った日から胸の奥で渦巻いていた感情は、涙と共に流れ出た。あの黒い憎悪は不思議と消えてしまい、先程まで自分を支配していた激昂も、嘘のように退()いていた。

 ハルトの服からは、埃っぽい土の匂いと、デュカスには馴染みのない煙草の匂いがしたが、何も考えずに彼の胸に顔をうずめているのは心地よかった。ハルトの鼓動が規則正しい律動で聞こえ、まるで幼い子どもに戻ったような安堵感が得られた。

 その心地よさに身を委ねて目を閉じていると、頭上からハルトの低い声が降ってきた。

「……なあ、この村で夕日が一番きれいに見える場所、知ってるか?」

 何を突然、とデュカスは思った。いぶかしんで見上げると、ハルトの碧眼と視線がぶつかる。

 デュカスが黙ったままでいると、ハルトはのんびりとした口調で呟いた。

「オレ、いい場所を知ってるぞ。ついて来いよ」

 デュカスの体をそっと押し戻すと、立ち上がってすたすたと歩いていってしまう。デュカスは困惑したまま、その場に座り込んでいた。

 ハルトがデュカスを振り返る。急かすでもなく、促すでもなく、ただじっとこちらを見つめている。その視線に耐えかねて、デュカスは俯いた。

 やがて無言のままに、ハルトがその場を立ち去った。デュカスは一人、取り残される。

 強い風が吹き、頭上の木々がざわめいた。遠くで、カラスの鳴き声がする。日はだんだんと赤くなってきている。

 何となく居心地の悪さを感じて、デュカスは立ち上がった。ハルトの歩いていった先を見やる。そして躊躇いながらも、ゆっくりと、その方向に向けて足を踏み出す。道は緩やかな曲線を描いて、登りになっていた。その曲線を曲がったところで、前方に人の気配を感じた。目線を上げると、待ち構えていたかのように、彼がいた。

 気まずさにデュカスは目をそらす。

 そらされた本人は口の端を上げると、少しだけ得意げな笑みを浮かべた。

「さ、行くぞ」




 ハルトから十数歩離れたところを、デュカスが歩く。ハルトが立ち止まって後方を振り返れば、デュカスも立ち止まる。デュカスがついて来ている事を確かめたハルトが再び歩き出すと、デュカスもまた歩き出す。

 このような調子で、二人はどんどんと山の奥に分け入っていった。

 十五分ほど歩いただろうか、鬱蒼とした木々の中、突如視界がひらけた場所に出た。

 デュカスは思わず歩を止める。

 彼の立っている場所から数歩進んだ所にハルトがいて、その下はすぐ崖になっていた。

 この場所は、知っている。随分と幼い頃、今は亡き両親が、時折デュカスとカヤをここまで連れ出してくれたものだった。

 崖の麓には、広大な草原が広がっている。吹きすさぶ風に草が揺れ、それがあたかも波の如きうねりを作り出していた。デュカスの位置からもそれがどこまでも見渡せる。乾いた風が崖の上まで届き、デュカスの黒髪を煽ってゆく。

 草原が途切れる遥か彼方には、なだらかな山脈が、大きな太陽を背負い、赤い稜線を描きながら続いていた。夕日は一帯を鮮やかな色に染め上げ、幻想的な世界を生み出している。

 その中にぽつりと立ったまま、デュカスは目の前の風景を眺めた。

 昼間よりもやや大きく見える太陽は、徐々にその姿を山の向こうに隠してゆく。

 なんて残酷なんだろう。デュカスは思った。

 デュカスの村が焼かれようが、人間がたくさん死のうが、太陽は知らん顔でこうしていつも通り、沈んではまた顔を出すのだ。デュカスが洞窟の中で一人震えていた間も、太陽はその周期を少しも乱さず、規則正しく動いていた。なんて残酷で、そして、なんて揺るぎのない存在なんだろう。

「なぁ、きれいだろ?」

 前方からハルトの穏やかな声が聞こえた。デュカスは沈んでゆく太陽を見つめたまま、素直に頷いた。景観の美しさもさる事ながら、その存在の偉大さに心が動かされ、不覚にもまた目頭が熱くなった。

「カヤの、お気に入りの場所だ。本当は誰にも秘密なんだけどな。お前なら知ってるって、あいつは言ってたから」

 その声音はどこまでも深く、そして優しかった。こんなにも穏やかに話すハルトを、デュカスは初めて見た気がする。デュカスの記憶の中にあるハルトとは大違いだ。姉を想う時の彼は、いつもこのような口調なのだろうか。

「確か、この脇にある草むらを抜けて降りていくと、小さな花畑がある。今は、どうなってるんだろうな。あそこで昼寝すると、気持ちいいんだ」

 ハルトはそう言って、寂しげに笑う。そしてふと口をつぐんだ。

 暮れなずむ夕日を見つめ、思いはどこか、遠くへ馳せる。

 やがて彼は、ゆっくりとこちらに向き直った。逆光になっているため、その表情は見えない。

 やや沈黙があって、口を開く。

「デュカス、村を出る覚悟はあるか?」

 今しがたとはうって変わって、感情を読み取ることのできない口調。突然の質問にデュカスは面食らう。狼狽したままでいると、ハルトが先を続けた。

「この村は、お前を残して壊滅した。これは目を背けることのできない現実だ。お前はこれからどうするつもりだ? ここでこのまま、ぼんやりと過ごすのか? それとも、たった一人で村を再興するか? したところで何になる? 共に暮らす人々は、もう――いないんだ」

 デュカスは息を呑む。胸の中の、痛い所を突かれた。

「それでもお前が村を立て直すと言うのなら、オレは止めない。だが、これからどうすべきか決めかねているのなら、お前はここを出るべきだ。よほど再興の決意が固いならともかく、今のお前は、ここにいるべきじゃない。オレと一緒に、村を出るんだ」

「出る……? 村…を?」

 反芻するデュカスに、ハルトは頷いた。そして、ごく自然な動作で懐から煙草を一本取り出す。軽く口に咥え、そして――少し思案する素振りを見せると、思い直したように再びそれを元に戻した。デュカスの手前もあるのかもしれない。

 やり場のなくなった手を首筋に当てて、ハルトは言葉を続ける。

「第一、この惨状を引き起こした奴らを、放っておくわけにはいかない。それともお前は、泣き寝入りする気だったのか?」

 その言葉に、デュカスは弾かれたように顔を上げる。胸の奥の黒い部分が、またうずいた。忘れはしない、この痛み。そして、この――憎しみ。自然、こぶしを強く握りしめた。ハルトはそんなデュカスの様子を見つめる。

「今すぐにとは言わない。けれど、もう少しだけお前の気持ちが落ち着いてから、ちゃんと教えてくれ。何があったのか、誰がやったのか。知っているのはお前だけなんだ」

 デュカスは目を伏せ、頷いた。脳裏には、岩陰から見た青年たちの姿が思い出された。悪鬼の形相を浮かべ、返り血を浴びた二人。奥歯が、微かに震える。

「他にも、オレは村を出て調べなければならないことがある。本当はもう一段落してから手をつけようと思っていたが、こうなってしまった以上、仕方ない。明日にでも、陸軍に足を運んでみるつもりだ」

 淡々とした口調。しかしデュカスには、何の話なのかさっぱり分からない。要領を得ないまま沈黙を守る。表情に出たのだろうか、ハルトはデュカスの心境を察したらしい。ばつが悪そうに苦笑した。

「悪ぃ。いきなりこんな話しても、分かるわけねぇよな。とりあえず、お前にもこっちの状況を説明しておく。――念のため聞くが、戦争が終わったことは知ってるよな?」

 問われ、デュカスは頷く。

「じゃあ、第三十八地区が爆撃されたことは?」

 それは初耳だった。

 そもそも、この第十三地区から一歩も出たことのない上に、世界地図も見たことのないデュカスには、第三十八地区がどこにあるのかすら分からない。しかし爆撃という、なにやら不穏な言葉に対しては戦慄を覚えた。

 戦争は終わったのに、どうして爆撃があるのだろう。

「知らないって顔してるな。無理もない。軍部がこのこと自体を隠してるんだ。まぁとりあえず、ここ第十三地区からは遠く離れたところにある第三十八地区、そこが爆撃されたんだよ。七日前のことだ。終戦直後のこの時期に、なぜ爆撃したのか、どこの仕業なのか、そういったことはまだ明らかになっていない。ただ言える事は、爆撃に使われた兵器は、とてつもない破壊力を持っていたということだ。たった一つの爆弾が、大きな町を丸々壊滅させてしまったぐらいだからな。

そしてここからはオレ個人の推測だが、どうやら爆撃には、新型の兵器が使われた可能性が非常に高い。放射能という、生物の細胞系を悉く破壊していく化学物質を、爆弾の中に詰め込んだ代物だ。この放射能を大量に浴びると、生きているものは皆、遅かれ早かれ死を迎える。爆弾の投下地点の人々は勿論のこと、放射能が風に乗って流れてきた地域でも被害が出る。

それだけじゃない。もし第三十八地区に使われた兵器が、本当にオレの予想するものなのだとしたら、恐ろしいのは、放射能の被害だけじゃない。様々な弊害が起こると言われている。当の第三十八地区のみならず、ここ欧州にまでその余波がやって来るだろう。ひょっとすると、亜州の方では既に兆候が見られているかもしれない。亜州だけでなく、下手をすれば、全世界が大きな影響を(こうむ)ることになる。世界中が弊害に苦しむ――そんな事態だって、あり得るわけだ。そうならない為にも、早めに手を打つ必要がある。そんなことが可能ならば、の話だがな」

 そこでハルトは、一度言葉を切った。

「とりあえずオレは、第三十八地区の爆撃について調査する。軍や政府が隠し立てする以上、自分で真実を突き止めるしかない」

 なにせこの爆撃のせいでハルトは部下を八人失っている。別にその部下達の鎮魂のため、というわけでもなければ、正義感に駆られて、というのでも決してない。しかしこのままではいけないと、強く思うのだ。何か、しなければ。妙な焦りがハルトを動かす。

 デュカスに目をやると、狼狽しているのが見て取れた。ハルトの話が、あまりに衝撃的過ぎたのかもしれない。

「デュカス。お前もオレと一緒に来い」

 再度、促してみた。デュカスはやはり何も言わない。ハルトは軽く嘆息する。

「まぁいい。オレは明日の早朝までここにいる。それまでに、気持ちの整理をしておけ」

 我ながら、無茶を言っているとは思う。しかし、デュカスをこのままにしておくわけにはいかない。彼にとって、ここに留まる事はよくないのだ。

 首だけを背後に巡らすと、太陽はもう半分ほど姿を隠してしまっていた。もうすぐ、夜の闇が降りる。

麓から風が吹き上げた。流れるハルトの金髪が、赤い日に透けて輝く。

 この場所で最後に彼女と夕日を眺めたのは、ハルトが入隊する前日。あれももう、八年も前の話になるのか。

 軽く唇を噛んだ。意を決する。逃げていては、いけない。太陽を見つめたまま、できるだけ平静に呟いた。

「なあ、カヤは……どこに眠ってるんだ?」

 返答はない。

「デュカス」

 懇願の意を込めて名を呼ぶと、草を揺らす音が背後から聞こえた。ハルトはデュカスがいた場所に視線を戻す。

 しかしそこに、少年の姿はなかった。

 更にその向こう、もと来た山道へと続く木の下で、デュカスがこちらを振り返るのが見えた。人差し指で、道の奥を指差す。

 夕日に照らされたその表情は、何か言いたげな、今にも泣き出しそうな、複雑なものだった。ハルトが近付くのを認めると、くるりと背を向け、山道を辿って木々の中へと姿を消す。

 一瞬、心臓が大きく鼓動した。胃の中が、重い緊張で満たされる。

 見失わないように、ハルトも彼を追って山道へと分け入っていった。




 ひそやかに、彼女は眠っていた。

 背の高い木々に囲まれ、そこだけ微かに太陽の赤い光が差し込んでいる。今が昼間なら、鳥達の(さえず)りが響き、暖かい陽光に包まれるのだろう。まさに、彼女にはぴったりの場所のような気がした。

 前を行くデュカスの背中が立ち止まる。ハルトを振り返り、やはり無言のまま先を譲った。

 ゆっくりとした足取りで、ハルトはカヤに近付く。柄にもなく、足が萎えそうになる。デュカスの傍を通り過ぎ、盛土の前に膝をついた。震える手で、墓標をなぞる。この下に、カヤが眠っているのだ。もう、永遠に目覚めることはないけれども。

 ――やっと会えた。それなのに。

 俯き、顔を歪めた。様々な思いが胸を去来する。どう表現すれば、いいのだろう。

 やがて、かすれた声が漏れた。

「悪ぃ、デュカス。しばらく、二人にさせてくれるか」

 しばしの沈黙の後、背後で、草を掻き分ける音と遠ざかる足音がした。それを聞きながら、片手で目頭を押さえた。

 ――『約束、するよ』

 昔の自分の言葉が、頭の中に響く。

 ――『オレ、必ず帰って来る。だから、その時は――』

 ハルトの次の言葉を待つ彼女。首を傾げ、そして、微笑む。こんなにも鮮明に、覚えているのに。それなのに。

 果たせなかった、『約束』。

「ごめん…な」

 ぽつりと呟く。

「ホント、ごめんな……」

 その場から遠ざかりながら、デュカスはそれを背中越しに聞いていた。

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