「例の爆撃が原因なのでしょうか」
欧州――第13地区。7日目。
列車は、緩やかに田園地帯を走っていた。
開け放たれた窓からは心地よい風が入り、乗客の少ない車内を吹き抜けてゆく。車輪が枕木の上で軋む音と重なって、蒸気機関が忙しなく働いている音が聞こえていた。時折、長く伸びた汽笛が、周囲の山々だけでなく車内にも反響する。
そんな中、ハルトは何を見るという訳でもなく、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
平原の中央を南北に貫いて走る列車は、風に揺れる緑の大海原を泳いでいるかのようだ。少し遠くへ視線をやれば、列車の両側と、向かって正面では、さほど高くもない山のなだらかな尾根が青い空を切り取っていた。
このまま南下を続けて正面の山を抜けると、そこはもう隣の第十六地区だ。ハルトが降りるのは、国境を越える一つ手前の駅である。
欧州は第一地区から第二十八地区で成り立つ。そのうちの第六地区の首都シュワルツベルクから、一昼夜ひたすら南東に向かって列車に乗り続け、国境を越えること三つ。途中下車をすることもなく、無事第十三地区の首都に到着したのは、今日の昼前のことである。休息もそこそこにさらに何度か地方線に乗り換えて今度は南を目指し、今に至る。太陽は既に南中を過ぎ、西に移動しつつあった。
次の駅で降りて、そして――村はもうすぐだ。
車窓から見える景色は、昔と何ら変わりはない。八年前、陸軍入隊のために村を出たときも、青い空の下、目も眩むような鮮やかな緑が広がっていた。あの頃と違うのは、その景色を眺める自分自身が年を重ねたこと、それだけだ。
今回八年振りに、ハルトは村の土を踏むことになる。ゆえに、帰郷に際し、気恥ずかしさの混じった喜びと共に、ある種の不安も拭えないことは確かである。
彼女は――カヤは、自分を受け入れてくれるだろうか。
長年の軍隊生活の中で、ハルトは何度も修羅場をかいくぐってきた。多くの仲間の死とも直面した。そのせいか、自分の風貌が昔とは変わってしまったことは認めざるを得ない。年を重ねた分、変わってゆくのは当然なのかもしれないが、自分の場合はそういうのとは少し違う気がする。
そっと、自分の額に触れてみた。
そこには横一文字に走る傷跡がある。もう古いもので、皮膚が完全に引きつってはいるが、これも八年前にはなかったものだ。村を出なければ、刻まれることもなかったであろう傷跡。
ハルトは鞄の中から布切れを取り出し、額に巻きつけた。何となく、これをカヤに見せるのが躊躇われたからだ。
何よりも、とハルトは軽く溜息をつく。ここ二年、彼女に対する手紙を滞らせている。言い訳などする気はないが、これにはハルトなりの事情があるのも事実だ。
やはりカヤは、もう自分の事を待ってくれていないのではないか。戦場から帰ってこない男のことなど忘れて、違う人生を歩んでいるのではないか。そんな不安が、何度となく胸をよぎる。だからこそ今日も、彼女への土産を買おうか迷った挙句に断念した。渡せなかった時のことを考えると、怖くなったのだ。
その一方、彼女と交わした「約束」を信じることで、自らを奮い立たせる。戦場でもそうだった。会えないことで不安になる度に、彼女の言葉と自分の言葉を信じろと、己に言い聞かせてきた。
そんな日々が今までずっと続いてきた。しかしそれも今日終わる。やっと、会えるのだ。会えば全てが分かる。
もし受け入れてくれるのなら、一体どんな笑顔で――。
突如、ばさばさっという音がして、ハルトの思考が中断される。続いて、女性の間延びした声も聞こえた。
「あらあら、大変」
少しも大変そうでない声の方へと目をやると、通路をはさんで反対側の座席で、初老の女性が風に煽られてはためく新聞紙と格闘していた。どうやら、両手を広げてページをめくろうとしているらしい。
ハルトは自分の座席の窓を閉めると、立ち上がって通路を越え、今度は女性の座席の窓を閉めてやった。その空間だけ、風がやむ。
「ありがとう、助かったわ」
女性は、ハルトを見上げて微笑んだ。ハルトも目元を和らげる。
再び自分の席に戻ると、女性の方を――正確には女性の読んでいる新聞の方へと目をやった。その一面には、先の世界大戦の立役者である各地区の代表者たちが集い、会談を行っている様子が、いかにも尤もらしい写真入りで掲載されていた。例の第三十八地区の爆撃に関しての記事は、皆無だ。
ハルトは眉間に皺を寄せた。
欧州陸軍上層部が情報操作を行って、この件に関する事柄を全て隠蔽してしまっているのだろう。先の世界大戦以降、軍のもつ権力の大きさは、実質上は政府のそれにも匹敵する。一般の文民に知られたくないことや自分たちに都合の悪いことなどは悉く押し隠して、その代わりに偽りの情報を流す。欧州に限らず、どこの地区でも見られる状況だ。
しかし、とハルトはさらに厳しい顔つきになる。
今回の爆撃に関して、出来事そのものを隠蔽する必要が、はたしてあるのだろうか。世界大戦中には、どこそこの地区が攻撃を受けたという細かい報告が、大仰なまでに為されていた。なぜ今回に限っては、ここまでひた隠しにするのだろうか。軍上層部、すなわち陸軍元帥と将官階級の人間が考えていることは、少佐であるハルトには分からない。恐らくは、爆撃の事実そのものが、文民に知られてはまずいことなのだろう。
ハルトがロウから第三十八地区に関する報告書を受け取ったのが二日前、そしてその翌日――すなわち昨日の未明、報告書の作成者であるトールキン中尉が死亡した。あまりにも突然すぎる死。これは一体、何を物語っているのか。
上官として、そして彼の戦友として詳しいことを聞くためにハルトは、陸軍総司令部を発つ前、軍事施設内にある病院に足を運んでみた。トールキン中尉を担当した若い医師は、ハルトの姿を見ると心得たように頷き、沈痛な面持ちで彼の症状を教えてくれた。
「本当に、あっという間でしたよ。彼が不調を訴えてここに来てから、ほんの……十九時間です」
医師が語ったところによれば、トールキン中尉は第三十八地区への調査が終了した日の夜半から、頭痛や眩暈を感じていたらしい。しかし本人は、ただの過労だろうと、たいして気にも留めなかった。爆撃直後の地域を見てきたのだ。無理もない。おまけに報告書の作成や事後処理に追われていた為、その翌日は通常どおりに勤務していた。とは言え、朝からずっと下痢が続くなど、具合はよくなかったようだ。そして更に一夜明けてから。すなわち、ハルトがロウを介して例の報告書を受け取った日、彼はとうとう軍務を休んで来院した。その時には既に、顔色も死人のように真っ青で、目は落ち窪んでさえ見えたという。
「いつものような覇気が全く感じられなくて。これはおかしいなと思った矢先に、僕の目の前でいきなり吐血したんです。慌てて入院手続きを取りました。でも、横になっているだけでもどんどんと症状は悪化して……そして、今朝……」
言って、医師は目を伏せる。精神的疲労のためであろう、彼自身の顔色もあまり思わしくない。
ハルトが黙って聞いていると、若い医師は辺りをはばかるように、声を潜めた。
「あの、それと……。息を引き取る数時間前のことですが、奇妙なことがあったんです。トールキン中尉のね、髪が……その、一度にごっそり抜けていたんですよ。まるで頭皮が急速に老化したかのように。それに、吐血した直後から、同時に血便も止まらなくなって。主だった薬を投与してみましたが、全く効果はありませんでした。しかも、同僚の医師から聞いた話では、トールキン中尉と一緒に第三十八地区の調査に赴いた他七名も、全員が同じような亡くなり方をしているんです。これって、おかしいですよね」
思いつめたような表情でハルトを見る。
「やはりこれは、例の爆撃が原因なのでしょうか。あの爆撃に使われた兵器が、とんでもない代物だったっていうことでは……」
「細菌兵器が使われたと?」
「ええ、勿論その可能性もあります。しかし――それよりも、もっと該当するケースがあるんですよ。少佐は、「放射能」ってご存知ですか?」
いや、とハルトはかぶりを振った。本当は知っていた。以前、知り合いの軍医から聞いたことがある。が、敢えて知らないふりをした。相手はそれを信じたようだ。
「僕みたいな下っ端には詳しいことまで分からないのですが、どうやらある物質を化学変化させることで発生する毒素みたいなもののことで、各州で研究が進んでいるらしいんですよ。報告によれば、その放射能を浴びた生物は、喀血、下痢及び血便、脱毛、他にも全身各所からの出血や、皮膚の異常などといった症状が見られるそうです。これ、トールキン中尉の症状と……酷似していると思いませんか?」
「つまりこういうことか? 第三十八地区の爆撃に、その放射能とやらを使った兵器が使われていた」
医師は、神妙な顔つきで頷いた。
「なるほど、確かに考えられなくはないな」
「あっ、でも、あくまでも僕の個人的な推測でしかないわけですし。確かなことは全く分かりません」
とは言え、なかなかに鋭いところを突いている。ハルトは思った。が、これも黙っておいた。
「それと少佐、このことはくれぐれも内密にお願いします。シュタイナー少佐だから、僕もこれだけお教えしているんですからね。下手に外部に情報が漏れると、大変なことに……」
慌てて弁解する医師を、ハルトは手で制した。
「言われなくても分かってるよ、とりあえず、ありがとうな」
礼だけを言うと、病院を後にした。
――そう、言われなくても分かっている。もし仮に、これが放射能を使った新兵器による被害なのだとしたら、当然のごとく軍上層部は、下級兵士や世間一般に公表することを避けるはずだ。公表した途端に大きな混乱を招くのは、目に見えているのだから。そう考えると、彼らが第三十八地区に関する情報を隠蔽しようとしているのも合点がいく。
やはり、放射能兵器なのだろうか。
いずれにせよ、今の段階では全て憶測の域を出ない。折を見て秘密裏にでも調べた方がいいかもしれない。何か、嫌な予感がする。このまま見過ごしてはいけないと、軍人としての勘がざわめくのだ。
「もし“例の”新兵器なら、被害は――放射能だけじゃない」
呟いてから、第三十八地区の人々のことを失念している自分に、はたと気付く。自嘲めいた笑みを浮かべた。
トールキン中尉の書いた報告書を読むだけでも、第三十八地区の人々の置かれた状況の凄惨さが窺える。にもかかわらず、既に出てしまった被害は仕方のないものとして片付ける。それよりも先手を打って、次の打開策を考えようとする。それが、ハルトがこの八年間で身につけたことだ。軍人とはそうあるべきなのだ。
座席の背もたれに体を預けると、ハルトは苦笑混じりの溜息を漏らした。退役したというのにそんなことにこだわっている自分が、なんだか滑稽だった。
窓の外に目を向けると、次の駅が見えた。傍らの荷物を引き寄せる。
そう、せめて今だけは、爆撃のことは忘れよう。
列車が駅に到着し、ハルトは降りた。面映い気持ちで村への道を急ぐ。太陽は、少しだけ西に傾いでいた。山の木々の間を足早に抜け、懐かしい故郷が近付く。林道の奥に、石垣の入り口。やっと、会える――。
そして見たのは、あまりに信じがたい光景だった。
焼け野原と化した村の入り口で、ハルトは呆然と立ち尽くしていた。