第二話 襲来、怠惰のベルフェゴール
私は原付バイクを所定の駐輪場に止め、錆びの浮いた階段を上る。ワンルームアパートの三階、西側の角、家賃5万円の狭い我が家の扉を開く。
「ただいまー」
誰もいない部屋に私の疲れた声が響く。普段よりやや早い、16時の帰宅。外はまだ明るいが、外出する気には到底ならない。スーツを脱ぎ、化粧を落とし、早速楽なジャージに着替える。
ただいま26歳、彼氏はいないしできる気もしない。
自分で悲しくなることを思いながら、冷蔵庫の麦茶をグラスに注ぎ今日の夕飯を考える。
「おっ、コンフィは今日が食べごろなんじゃないかな」
テレビで見て見よう見まねで作ってみた鶏肉のコンフィが確か食べごろ。野菜のストックはキャベツが少しとニンジンが半分、それにジャガイモ。添え物としてサラダを作ってもいいが、ここは全部鍋にぶち込んでコンソメを入れてポトフもどきにしよう。決定。
まだ夕飯を作るには早いので、SNSを眺めていると『トリニティアークがセブンシンズのサタンを退ける』というニュースがトレンドに上がっていた。
曰く、『サタンをもう一歩のところまで追い込むも、ベルフェゴールと魔獣の襲撃により断念。人々への被害を最小限にすべく、5分とかからず魔獣を撃退。』
コメントにはトリニティアークへの賛美と、私たちセブンシンズへの暴言であふれていた。その中の『ベルフェゴールたんキター!引き篭りじゃなかったのかwww』というコメントを見つけて私は今までの疲れが実体化したかのような錯覚を覚え、がっくりと肩を落とした。
私の名前は坂凪涼子。私に与えられた名前は怠惰のベルフェゴール。
荒れ狂う『降者』たちの熱狂は、今はもう普通のことだ。
五年前のあの日、世界中の人々に不思議な力が降り注いだ。
降り注いだというのは比喩ではなく、事実、『あめあられと人々の頭上に降ってきた』のである。
その不思議な力はまるで金平糖のような形をしていて、それを受けた人々全てにさまざまな能力を発現させた。いわく、火を操る能力。手を使わずに物を動かす能力。一瞬で遠くへと移動する能力。しかしながらその『降力』はあまりにも突然すぎて、ほとんどの人がその能力をうまく扱えなかった。いわく、突然発火し火事を起こした。突然車が動いて事故を起こした。突然大海のど真ん中に落ちて遭難した。そんな事故が相次ぎ、『降力』は多くの人が恐れる天災となった。図らずも能力を発現してしまった人々は、その能力の大小に関わらず、多くがその居場所を追われた。学校、職場、幼少を過ごしずっと慣れ親しんだはずの街。そんな追われた人々の多くは、世に言うヴィラン、悪の組織となって、自分達を否定した世界を否定した。強盗、殺人、意味もない破壊活動の件数は前年度の十倍以上に跳ね上がった。能力を得たものたちに銃器は通じず、警察も自衛隊も機能しなくなった。彼らの中にも能力者はいたが、能力を発現することで、悪の組織として生きる人々と同じように居場所を追われるということにはなりたくなかった。だが、そんな中でも立ち上がるものたちはいた。『降力』が起こって一年後、世界救世連合《World Hero Union》が発足。世に跋扈する悪を掃討すべく発足したこの連合は、能力を持つものたちに『ヒーロー』という役職を与え、かくしてヒーローVS悪の組織という、能力を持つものたち…『降者』たちの今日の日常が出来上がったわけである。
とはいえ、悪の組織もヒーローも、一般の会社と同じくピンきりなわけで。
私の属する『セブンシンズ』も弱小中の弱小で、七つの大罪という大それた名前を持ちながら強盗に入ったり誰かを誘拐したりなんて、わかりやすい悪事をしたこともない。どこから給料が出てるのか不思議でならないが、WHUのような国際機関があるらしく、そこから「いかに悪として活動しているか」に応じて報酬が出るらしい。そんなんあるのかと世界を疑うが、悪として活動の報酬で糧を得ている身としては、ぐうの音も出ない。
私が実際に悪を働いているわけではないけれども。私の仕事はそんな悪事を報告するための報告書作りであって、やってることはただの事務仕事だ。表に出ないから『怠惰』だといわれても。それに今日は表に出たわけではあるけれど。そんなことは言い訳だけれども。
やめよう。気が滅入ることをついつい考えてしまうのは私の悪い癖だ。
私はSNSの画面をそっと閉じ、現実逃避をすべくWiiUの電源に指を伸ばす。しかし突然チャイムが鳴り響き、ぐっと堪えて立ち上がる。何か通販したっけか、そう思いながらドアを開けるとそこに立っていたのは1人の男性だった。
背は高く、髪は明るい黒。しかしながらその人相は悪く、目元に影を落とすバンダナとくわえ煙草がさらに印象を悪くしている。体つきはしっかりしているものの、逆に威圧感しか感じない。
「飯食いに来た」
「煙草を消さないと家には上がらせんぞ」
へいへい、と携帯吸殻いれに煙草をねじ込むこの男性、私の隣人である。
「ほんっと良い飯のタイミングだけ目ざとい奴…」
「独り言がでかいんだよ。壁薄いんだから」
ぐうの音も出ない。
「じゃあ準備するから…イカやってんじゃない。家人より先にゲームの電源をつけるんじゃない。」
文句を言ってももう彼はゲームの画面に集中しており、こちらの愚痴を聞き入れる様子はない。私はため息を吐きつつ、冷蔵庫からコンフィの入ったタッパーを取り出す。
「そういえば、さっき見たよ。また魔獣倒したんだって?お疲れ。」
「それほどでもない。」
自慢げにそう言いながら、彼は画面の中を赤く染め上げていく。
彼の本名は知らない。ただ私が彼について知っているのは、ロキというあだ名と、その名にふさわしい傍若無人さと、そして彼がこの日本で1,2を争う強豪ヒーローグループのひとつ、トリニティアークの1人、赤きミカエルということだけ。
天の使いが邪神を名乗っていいものか。
「そのおかげで私も早く帰れたしね…」
「珍しく仕事したな、怠惰の」
「私の仕事は事務だっての」
彼が私について知っているのは、スズというあだ名と、ゲーム好きということと、私がしがない悪の組織の事務員ということだけだ。
「礼に飯はよ」
「やかましいわ」
これはワンルームアパートに住む悪の女幹部(事務)と、正義の味方(ニコ中)の平凡な日々を綴る物語である。