1-7
風が吹くことも無くただ無音が支配している。シルフィは五感が回復し目を開ける。広がる光景に疑った。草地と樹木が生い茂る地は真っ白なぶ厚い氷が張り巡らされ、一面銀世界だった。樹氷が姿を現し、白い息が呼吸をするたび吐かれる。身が凍りそうなほど寒い。
劇的に変わった光景に頭が回らない。抱きしめていたソルフィアの姿が無い。目に着いた小型魔物達は一掃されたのか全ていなくなっている。親玉は口から多量の吐血を吐き、追加魔法で巨大な氷の剣が何本も突き刺さっていた。完全に動きが停止した。
深く息を吸えば冷気が体内に入り込み凍えるような感覚を覚えた。ソルフィアの姿を探すため見回すと離れたところに倒れていた。おぼつかない脚で近づくと、目から熱い物がこみ上げた。
体の至る所に氷が覆われている。膨大な魔力に体が耐えきれなかったのか口の端から血が滴り続ける。魔法の対価なのか右腕、左足は全て氷に覆われ、顔さえも半分張られていた。ソルフィアは体の半分が氷に支配されていた。
「…あ……あ…」
--何でこうなってるの…?
最上級魔法を唱え力尽きたソルフィアは生気を失ったように倒れていた。震える腕でゆっくりと起こすと抱きしめる。ポタポタと姉の顔に涙が落ちる。破裂音が響き渡った。続けて何かが激しく落ちる音が耳に入った。振り返るとソルフィアの魔法を受け死んだと思われた親玉が氷を打ち破り復活した。
氷が無残にも落とされ残骸が残る。目の前に映る光景を信じたくなかった。最上級魔法に匹敵するほどの魔法を受けたのに狂ったように動き始める。ゾンビとも言えるその精神にシルフィはこれ以上ないほどの恐怖を表した。
「…なん…でッ……」
生きていた。
まだ生きていた。
突き刺さっている刃は壊すことができなかったのだろう。何本もの刃が突き刺さったままだ。計り知れない威力の魔法であった。なのに、どうして……。
親玉は腕を振り上げるとシルフィ達を弾き飛ばした。
「っ!!!」
無情にも宙に浮かび地面に叩きつけられた。意識がとどまらない。計り知れない痛みに体が麻痺したように動かない。視界が強くぼやけ魔物を見つけられない。体を支え切れないのか起きあがろうとすると腕が負ける。地面に倒れ込むとソルフィアが見えた。ピクリとも動かず地面に横たえている。魔力が底に近いくらい低い。
そんな……
無力さに悔やんだ。守ってばかりの自分に心底恨んだ何もできなかった自分が嫌で嫌で堪らなかった。守る術さえないなんて…微かに残る力で地面の砂を握りしめた。砂が皮膚を傷つけ血がにじむ。涙が止まらなかった。
親玉は最後の攻撃だと言わんばかりに大きく口を開けた。口の中に青い光が集まり始める。魔物の赤い瞳がシルフィを捕えている。もう動く力もなく見つめるだけしかできなかった。
ここで、終わりなのかな…
―――嫌だ、こんなところで死にたくない。お姉ちゃんを死なせたくない。
前方から青い炎が迫りくる。炎は触れたもの全てを焼き払う。炎と共に獣系の魔物は地響きを鳴らし続け二人に襲いかかる。立ち上がる事さえ困難な体を鞭を打ちゆっくりと立ち上がる。足元がふら付き地面へ投げ出されるような思いを感じたが、しっかりと地に着いた。完璧に開眼ができず、半分しか目が開かない。定まらない焦点を魔物に合わせ見据えた。横たわるソルフィアの前にゆっくりと歩むと立ち止まる。突っ込む魔物に体を向け両手を横に伸ばした。
――ソルフィアを守るかのように。
不思議と恐怖は感じなかった。感情がおかしくなったのかと疑う。襲いかかる魔物を前に何も感情が湧かなかった。
何もできないなら盾になる。魔物に潰されても盾となってお姉ちゃんを守りたい。
じりじりと熱気を感じる。焼き払う音が鼓膜を破りそうだ。大きく息を吸い体を強張らせる。炎が二人を覆った。バチバチと焼く音が木霊する。終いに魔物が体を大きく反り上げ潰しにかかろうと襲う。
燃え盛る青い炎から一筋の閃光が放出した。無数の閃光が現れ炎を包み、辺り一面を覆い始めた。まばゆい光が真っ白い世界を創造する。
突然、勢いを知らない炎が嘘のようにかき消された。しかしなおも光は止まない。
光に照らされた魔物は驚き弾かれたように地面に倒れ込んだ。悲痛な声を上げ始める。体を締め上げられるような痛みに襲われ動くことができない魔物。白い光が勢いをつけるようにある方向へ吸い込まれた。光は止み焼き払われた地だけが残る。
一つの足音が響いた。力強く一歩を踏み出したのは手を広げ盾となったシルフィだった。
全身傷だらけだった身体は掠り傷一つも無い。立つことさえ困難だったのにしっかりと立っている。シルフィは力を宿した瞳は真っすぐに魔物を捕えていた。猛烈な炎に包まれたのに傷一つ負ってない。むしろ傷が完全に回復されていた。横に倒れているソルフィアも不思議と炎の攻撃を受けていない。
シルフィは誘われるように右手を前へ突きだした。手のひらを魔物に向ける。青い光が手のひらに集まり始める。
―――魔法。
倒れていた魔物はようやく体制を直すと。咆哮を上げ氷に満ちた斧を振り上げた。魔力が増大し大きな青い魔法陣が魔物の足元に現れる。右掌から槍のように巨大な鋭い水の刃が放たれ魔物へ飛んでいく。高速で回る水の刃は高出力の魔力で威力が倍増している。
『アクア・スパイラル』
魔物は避ける事が出来ず命中した。前から後ろまで貫通し、串刺しになるような形。血が辺り中に跳ね跳んでいく。魔物の奇声が天まで轟いた。力無く倒れた魔物は息絶え、煙を放ち姿を消した。
目を疑った。信じられなかった。炎に包まれたのに無傷なのが。痛み一つなく動けるのが。死んでいないのが。
――魔法が使えたのが。
融けきらなかった氷が地に張り付いている。凍えそうなほど寒かった空気が暖かさを取り戻した。草木から滴が垂れている。魔物から噴き出た血が地だまりを作っている。体が小刻みに震えだした。今頃、震えが起きる。麻痺をしていた感情が復活したように恐怖が現れる。それと同時に安心感も感じた。全ての魔物がいなくなったからだ。
「お姉ちゃん…」
震える体を押さえ横たえているソルフィアに近寄る。炎の熱気で溶けたのだろう。半分以上支配していた氷は無くなっていた。しかし依然、ソルフィアは目を開けることはなかった。
「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!」
肩を揺さぶるが反応は無くただ体が揺れるだけだった。制御が外されたかのか大粒の涙が頬を流れ落ちた。揺らし続けるも目を固く瞑り動く様子もない。
まさか……
思いたくない。
考えたくない。
嘘だ、絶対嘘だ。
すすり泣く声が止まらない。同じ単語が大地に渡る。変わらない調子で言い続ける。力無くソルフィアの顔が横に傾いた。それ以降どこも動くことはなかった。
全てを失ったような。そんな感覚が蝕んだ。天を見上げれば変化がない夜の空にむなしさが積もるだけだった。
お願い、誰か…
「誰か、助けてぇ……」
姉に崩れるように抱きつく。嗚咽が、かすりきれる声が響く。風も草木も揺れる事は無い無音の地にシルフィの泣き声だけが聞こえた。