第5章
その日、鬼影は夜明け前に戻ってきた。
学然も雲隠も起きて自分を待っていてくれたことに気づき、彼はずいぶんと驚き、そして恐縮した。
「思い出しましたか?」
静かに雲隠が訊ねた。
「ああ」と、鬼影は頷く。
「俺はここに、願いを叶えてもらうために来た」
そう答えた鬼影の瞳には、強い光が宿っていた。
(こいつ、何を思い出したんだ?)
もしかしたら、彼はすべてを思い出したのかもしれない。学然は何となく彼の雰囲気から感じ取っていた。
そして、それは雲隠も同じだったのだろう。
立ちあがると鬼影のそばに歩み寄る。
「――あなたの願いは何ですか?」
死んでからも叶えてほしいと思うほど、強い願い――。
鬼影は一度瞼を閉じると、静かに双眸を開いた。
「俺の村を救ってほしい」
鬼影は雲隠に訴えた。
自分は貧しい村の出身であること。その村の者たちが、自分の願いを叶えるために少しずつお金を出して、都へと送り出してくれたこと。
自分はそんな村人たちの役に立ちたくて、官吏になったこと。その志も半ばに、国が荒れ、そして滅びてしまったこと――。そして、自分はその動乱の中で命を失ってしまった…ことを。
中央が荒れたのだ。たとえ辺境の地といえども、村もただでは済んでいないはずだ。きっと村人たちも困窮しているはず。たくさんの命も失われているだろう。
中央の機能が失われている今、彼らに救いの手を差し伸べてくれる者はいない。本来であれば、自分がそれをすべきだったのだ。そのために自分は官吏になったのだから。なのに……!
彼が思い出した真実は、学然が思っていた以上に重いものだった。
「俺はまだ、何も返していない!このままでは死ねないんだ!」
鬼影は雲隠にすがりついた。
「お願いだ。村を、村を救ってほしい!」
雲隠は、じっと彼の訴えを聞いていた。
だが、雲隠ははっきりとこう告げたのだ。
「それはできません」
それは拒絶の言葉だった。
驚いたのは学然だ。
今まで、この庵を訪ねてきた者たちの願い。彼がそれを、断ったことは、ほとんどない。
どんな願いであっても、彼らの大切なものと引き換えに叶える、それが雲隠だ。
なのに、彼は今、はっきりと「できない」と断ったのだ。
「雲隠、お前……!」
「――学然、こればかりはできないことなのです」
ゆっくりと首を横に振る。
「俺の願いは、叶えるのに値しないものか?」
震える声で鬼影は訊ねた。
彼にとってもまた、断られることは想定外だったのだろう。
「それとも、俺が引き換えとして出せるものが大したものではないからか?」
鬼影は大切な翡翠の玉を握りしめた。
雲隠はこれまた「いいえ」と首をゆっくりと振った。
そして鬼影に向かって微笑んだのだ。
「叶える必要がない願いだからですよ」
「?」
「あなたの村は、もう大丈夫。確かに動乱に巻き込まれはしましたが、今はもう立派に再興しています」
「そう…なのか?」
驚いたように目を見開く鬼影。
都から遠く離れた村の様子など、あのごたごたの中では確認する術すらなかったのだ。
「ええ。それにね、鬼影、そんなに人はやわではないのですよ」
人は強い。しっかりと根を張り、何度踏みつけられても立ち直る道端に咲く草のように、人はたくましいのだ。
「あなたが伝えたかった言葉は、村の人たちにもきっと伝わっていますよ」
「そうか……」
だから――
「もう、休みなさい。大丈夫ですから」
雲隠の言葉に、鬼影は目を見開いた。
だが、すぐに笑みを浮かべる。まるですべてを覚悟していたかのように。
「俺はやっぱり死んでいるのか?」
「ええ」
雲隠は何も隠さずに、ただそう答えた。
「――そうか」
鬼影は息をひとつはくと、にっと笑った。
「あんた、最初から知っていたな」
「すみません」
「いや……いい」
「ちょ、ちょっと待った!」
一人、事態が飲み込めていない学然は、二人の会話に割って入る。
「どういうことだ!雲隠!」
ぐいと雲隠の腕を引っ張る。
雲隠は困ったように微笑んだ。
見かねて鬼影が説明をする。
「言った通りだよ。俺は死んでいる」
「死んでいるってお前、ここにいるじゃないか!」
今度は鬼影の腕を引っ張る。
「そう言われてもなあ……実際死んじまっているんだし」
そんなことを突然言われても、学然には納得がいかない。
どこをどう見ても、鬼影は目の前にいて、そして自分とこうして言葉を交わしているのだ。生きている人と何も違わない。
「学然……」
悲しそうに雲隠は瞳を伏せた。
「それでも、彼がこの世の者でないことは真実です。――あなたも知っているはず」
ここはそういうところなのですから、と雲隠は静かに言った。
ふう、と学然は大きく息を吐いた。
そうだ、こいつはそういう奴だった。そして、ここはそういうところだった。
常識では通用しないことが起こる場所なんだった――。
何度も経験しているのに、どうしても忘れてしまう。
気持ちを切り替えて、学然は訊ねる。
「――で。お前、なんでわかったんだ、こいつがこの世の者じゃないって。それとも、最初から知っいたのか?」
「初めは何となく、ですよ。確信したのは名前を聞いてからです」
「名前?」
言われて学然は思わず苦笑する。
ああ、そういうことか。
鬼影の「鬼」はこの世ではない者を示す字だ。
「この世ではない者。そして影。ここにくる方が記憶を失っているということは、初めてではありませんが…あまりにもできた名前だったので。おそらくこの名は本当の名ではないのでしょう」
普段は決して勘がいいようにはまったく見えないのに、こういうことには勘が働くのだな、と学然は苦笑した。
「学然」
鬼影はそれまで見せたことがないほど真面目な顔で、学然を真正面からみた。
「お前、いつまでそうやっているつもりだ?」
「鬼影……?」
言葉を向けられている学然は、わけがわからず戸惑う。
「お前がいるべきところはそこじゃない」
最後に、鬼影は学然の耳元で囁いた。
「お前は俺と同じだ」
言い終えた鬼影はふっと笑った。刹那、彼の姿かたちがぱんと軽い音と共にはじけ、たくさんの光の粒子となった。そうして、すうと空へと吸い込まれていく。
「逝ってしまいましたね……」
雲隠は空を見上げて静かにつぶやく。
だが、隣にいる学然はただ呆然と立ち尽くしていた。
「学然……?」
雲隠が心配そうに、自分の顔を覗き込んでいる。
だが、学然はいつものように軽口をたたくことさえできなかった。その場から動くことさえできず、学然はただただ鬼影の言葉を心の中で反芻し続けていた――。