第4章
それから幾日か過ぎた。
鬼影の記憶は、少しずつではあるが戻ってきているようだった。
やはり一時的なものなのだろうと、雲隠は言う。
もしかしたら話をすることで、何かしら記憶がよみがえるかもしれないと言われ、学然と鬼影は日中、湖のほとりで雑談をすることが、すっかり日課となっていた。
あれから自分の名前以外に彼が思い出したことと言えば、彼が貧しい村の出身であるということ、それから村人たちの力を借りて、官吏になったということだった。
「こんなお役人もいるのか」
鬼影が官吏だと、しかも地方ではなく中央の官吏だと知ったとき、学然はずいぶんと驚いた。
「ホント、お前は失礼なやつだな」
「いや、だって、お役人といったら、もっと堅いやつばかりだと思っていたから」
「まあ、確かにそうかもしれないけどな。俺は違う」
胸を張って鬼影は言う。
「俺、これでもトップの成績で官吏になったんだぞ」
「うわ…ウソだろ……」
「どうだ、敬え」
言われて学然はぷいと横を向く。
「絶対にそれだけはイヤだ」
「お・ま・え・な!」
頭をこぶしでぐりっとやられる。
記憶の大半は未だに戻っていないというのに、鬼影はこんなにも明るい。もともとの性格がそうなのかもしれなかったが、この明るさは、雲隠や学然の心にも少なからず影響を与えていた。
こういったことは何よりも本人が一番辛いはずだ。その本人がこのように明るければ、周りにも自然と笑みを与える。
「もしかしたら、それがお前を守ってくれているのかもな」
学然は鬼影が首に下げている玉を指さした。
記憶を失ってしまうことなんて、めったに起こることではない。それこを、鬼影の身には、想像を絶するような何かが起こった可能性が高い。
けれど、彼は今こうして命を失わずに済んでいる。
彼が庵の前に倒れていたときから気になっていた玉。何の石でできたものかはわからないが、淡い紫色をしていた。
鬼影は無意識のうちにその玉をよく触っている。触っていると、どうやら心が落ち着くようだった。
「ああ……そうかもしれないな」
「それ、何なんだ?」
「さあ、何だろうな?覚えていたら、今、こうして苦労していないぞ」
「――そりゃそうだな……」
我ながら間抜けなことを聞いたもんだと、学然は話題を変えた。
「じゃあさ、お前の国ってどんな国だったんだ?」
「そうだな……」
うーんと、鬼影は考え込む。
どうやらこの部分はまだ思い出していないらしい。
学然は、彼の記憶の糸が少しずつほぐれるように、慎重に言葉を選ぶ。
「国はでかかったのか?」
「――そうだな……。う…ん……それなりにはでかかったと思うんだけどな」
「へえ、周辺の国はどうだった?」
「友好的……だったと思うぞ。ああ、そうだ。少なくとも俺が生まれてから今まで、戦はなかったと思うんだ」
「ほう……」
「そうだ!今の王さまは、建国以来の賢君と言われていたな。だから俺のようなヤツでも官吏になれたんだ」
「待て、お前、その国は……」
学然の頭に、ふっと聞いた話がよみがえってきた。
鬼影が言う言葉のかけらをつなぎ合わせて考えると、どうしても1つの国につながる。
その国は、大国でずいぶんと栄えていた。
貧しい者も、能力さえあれば官吏になることができ、その制度は周辺の国たちからも注目されるほどだった。
だが、賢君が没すると、後継ぎをめぐり動乱が起こった。
国は乱れ、人々は疲弊した。
それまでは、友好的だった周辺の国たちも、その騒乱に乗じて攻め込んできたという。
結果、その国は滅びてしまったそうだ。
「そ…んな……」
鬼影は頭を抱えて、その場に蹲った。
「鬼影!」
小さくうめいていたが、ふっと顔を上げる。
「俺は……」
「?」
「俺は何もできなかった……」
鬼影はぎゅっと両手を強く握りしめる。
「何一つ、あいつらに恩返しできなかった。俺は…俺は……あんな結末を迎えるために官吏になったんじゃない!」
しまった、と思ったときにはすでに遅かった。一気に記憶がよみがえってしまったようだ。
彼は押し寄せる記憶にひどく混乱し、興奮していた。
「ちょっと待て、落ち着け、鬼影」
「落ち着いてなんていられるか!俺は、俺は……!」
「鬼影!」
強く彼の名を呼ぶ。
「――あ……」
「いいか、鬼影、落ち着け。お前はなぜここに来た?お前が今しなくてはならないことはそれだろ!よみがえってきた記憶に翻弄されるな!」
がっくりと、鬼影の全身から力が抜けていくのがわかった。
「――すまない…。先に戻っていてくれないか。できれば、1人で頭の中を整理したい」
鬼影の言葉に、一寸、考え込んだ学然だったが、最後には「わかった」と頷いた。
今の彼を1人にするのは少々心配ではあったが、彼はもう一人前の大人だ。それに自分がいたところでどうにかなるものでもない。
少しずつ思い出してきた過去を、ゆっくりと1人で整理したい、という気持ちもわからないではない。
学然は立ちあがった。
「じゃあ、俺は先に戻ってる。いくらここが安全な場所ったって、夜は冷える。風邪引く前に戻れよ」
「わかった。すまないな」
少しばかり鬼影の様子が気になりながらも、学然は先に庵へと戻って行った。
湖のほとり。
学然が立ち去った後、鬼影は1人その場所に残っていた。
すっと立ち、空を仰いだ。
夜空にはぽっかりと満月が浮かんでいる。
雲ひとつない空から鬼影に降り注ぐ月光――。
あれから数刻、鬼影は1人、よみがえってきた記憶の糸をひとつひとつ丁寧に辿っていっていた。
すべての記憶が1つになったとき、彼の頬に涙がすうと一筋流れた。
(ああ、そうだ……)
鬼影はようやく思い出したのだ。
すべてを。己自身のことを。もちろん、大切な玉のことも。そして、何をしにここにやってきたのかも。
(――俺は……)
都に旅立つとき、村人たちが魔除けにとくれた珍しい紫の翡翠の玉を、ぎゅっと握りしめて、彼はそれを天にかざす。
(俺は……もう……この世にはいないんだ……)