第3章
記憶をすっかりどこかに落としてきてしまった青年が、その後かろうじて思い出したのは自分の名前だけだった。
彼は「鬼影」と名乗った。
記憶が戻らなければ、ほかの来訪者のように願いを叶えてやることもできない。また、元いた場所に帰れ、と追い返すこともできない。
「しばらくすれば戻るのではないですか」
なんとものんきに雲隠の言葉に従い、鬼影はしばらく竹青庵に留まることとなった。
「なあ、ここってどういうところなんだ?」
何もすることがない鬼影は、それでは心苦しいと言って、学然の部屋の片づけを手伝っていた。
学然は鬼影から本を受け取ると、高い位置にある本棚にそれを押し込む。
「そうだなあ……うーん、お前から見てここはどんなところに見える?」
学然は逆に鬼影に問う。
まさか問い返されるとは思ってもみなかったのだろう。鬼影は一瞬固まった後、眉をひそめた。
「お前と雲隠以外の人を見ていない気がする。ってことは、ここはよっぽど山奥か?」
「まあ、似たようなもんだな」
曖昧に学然は返事をした。
正直な話、学然自身よくわかっていない、ということもあった。
この庵にたどりつける者が、非常に限られた者だけ、というのはよくわかっている。だが、ではこの庵がある竹林がそもそもどのような場所にあるのかは、学然は何度雲隠から聞いても理解できないのだ。
ただ1つ、そんな学然でもはっきりと断言できることがある。
庵の周りには、民家はない。
民家がないのだから、当然のことながら人もいない。いるのは学然と雲隠の2人だけだ。そして、時折こうしてやってくる人だけ。
「ここ」と外界とのつながりがいったいどうなっているのかは、学然にはまったくわからない。「ここ」から出ていこうと思ったことが一度もないから、自分が「ここ」から出られるのかどうかも実は知らない。
やってきた人間たちが、もといた自分たちの世界へ戻っていくのだから、出ようと思えば容易に出られる気もするのだけれど、なぜか学然は「ここ」以外のどこかに行きたいと思ったことが一度もなかった。
いや、自分には、「ここ」にいなくてはならない理由があるような気がしてならないのだ。だからこそ、その理由となっていることが消えない限り、雲隠のもとを離れることは絶対にない気がしていた。
「じゃあ、お前たちはいったい何をここでしているんだ?」
「――お前、本当にここにきた理由をまったく覚えていないんだな」
「そうだと言っている」
「あのな……威張るな」
学然はがっくりと項垂れた。
そして、雲隠が仙人であること。彼は訪れる人の願いを、その人が最も大切にしているものと引き換えに叶えること、この地は特殊な場所で、通常であれば人が入りこむことができないことを話して聞かせた。
「ってことは、俺は何か願い事があってきた、ってことか?」
「普通に考えるとそうなる。――願いについても、まったく覚えていないのか?」
「覚えていない」
うーんと鬼影は首をかしげる。
「ダメだ、思い出せない」
だが、彼がここに来た、ということは、よほど重大な何かがあり、そして叶えて欲しいという強い願いがあったはずだ。
それを忘れてしまうほどの、衝撃的な何かが彼の身にあったのだろうか。
考えて、学然は首を振った。
「――とてもじゃないが、そのようには見えん…」
思わず声に出して言ってしまう。
この軽さ。どう考えても重大な何かを内に秘めているようには見えない。
「お前、今、何かとても失礼なことを考えただろ?」
「いや、そんなことはないぞ。断じてない」
「ふうん、ま、いいや。で、お前は?」
「は?」
「いや、雲隠のことはわかったけどな、お前は何なんだ?」
「――聞いても楽しかないぞ」
そう前置いて、学然は自分のことも打ち明ける。
と、いっても、結局は自分自身のことを、自分でもわからないのだから、説明のしようがないのだけれど。
だから、鬼影には、自分も記憶がないこと、そして、今は雲隠の傍らでやってくる人たちの対応をしていることを話した。
「なんだ。じゃあ、お前は俺と同じなんだな」
「お前と?」
「そう、同じようなもんじゃないか。お互い、過去の記憶がないってな」
「のんきなやつだな…」
それはお前だろう、と鬼影に言われる。
(確かに、な……)
もう長い間戻らない記憶。
はじめの頃こそ、必死になって取り戻そうとしたが、それも無駄だとわかると、努力をすることもやめてしまった。
それに、もうあまりにも長い年月が経ち過ぎてしまった。すでに外の世界に自分を待つ人もいないだろう……。
そう思うと、記憶が戻らないならばそれでもいい、とさえ思うようになっている。
だが、だからこそ思うのだ。
鬼影の記憶は取り戻して、そして彼を無事元いた場所へと帰してやるのだと、かたく誓ったのだった。