君のいない写真に、君がいた
彼女を初めて撮った写真には、彼女が写っていなかった。
六月の終わり、放課後の昇降口には雨の匂いが残っていた。誰かが開けた窓から湿った風が吹き込み、磨かれた床には、低くなった日の光が薄い金色を延ばしていた。下駄箱の端に一本だけ、青い傘が立てかけてあった。
僕は写真部に入って二年目だったが、相変わらず人を撮るのが得意ではなかった。風景なら、少なくとも撮られることを嫌がらない。廊下の窓も、雨上がりの水たまりも、こちらがどれほど長く眺めていても、迷惑そうな顔をしない。
その日も、誰もいない昇降口を撮るつもりだった。
ちょうどシャッターを押そうとしたとき、廊下の向こうから一人の女子が歩いてきた。同じクラスの佐伯紬だった。彼女は青い傘の前で一度立ち止まり、それを手に取ると、何かを思い出したように振り向いた。
「相沢くん、そこで何してるの?」
僕は返事をする前に、反射的にシャッターを押してしまった。けれど、ファインダーをのぞき直したときには、紬はもう画面の外にいた。写真に残ったのは半分開いた昇降口の扉と、床に延びた光の帯、それから青い傘があった場所の、乾ききらない小さな水の輪だけだった。
「写真を撮ってた」
「見てもいい?」
液晶画面を向けると、彼女は身をかがめてのぞき込んだ。肩から落ちた髪の先に、まだ雨粒が一つ残っている。僕はそのことに気づきながら、教えていいのか分からず黙っていた。
「これ、私の写真だね」
紬はそう言って笑った。
「写ってないけど」
「うん。でも、ここにいたのは分かる。ほら、傘の跡」
画面の隅を指さした彼女の爪には、薄い水色の絵の具がついていた。美術選択の授業で何かを描いたのだろうか。そう尋ねる間もなく、紬は傘を差して外へ出ていった。
僕は写真をもう一度確かめた。
青い傘はない。彼女の姿もない。けれど、濡れた床の上に残された円い跡だけが、少し前まで誰かがそこにいたことを、静かに教えていた。
その写真は、僕がそれまで撮ったどんな風景とも、どこか違って見えた。
写真部の部室は、旧校舎の三階にあった。
壁には過去の部員が撮った花火や校庭の写真が並び、窓際には故障した三脚が何本も立てかけられている。顧問の石原先生は国語教師で、写真の技術には詳しくないと言いながら、作品を見せると妙に鋭いことを言う人だった。
「今年の文化祭は『放課後』をテーマにしようと思う。せっかく毎日学校にいるんだから、君たちにしか撮れないものを見せてほしい」
七月の最初の部活で、先生はそう言った。
僕は昇降口の写真を提出した。ほかにも、空になった教室、窓辺の植木鉢、夕日の当たる体育館の壁を撮っていた。どれも光の具合は気に入っていたし、構図も悪くないと思っていた。
先生はしばらく黙って写真を眺め、最初の一枚を指さした。
「いい光だね。ただ、相沢の写真って、いつも人がいなくなってから撮ったみたいに見えるな」
「人が写っていないからですか」
「そういう意味じゃないよ。人のいない写真でも、誰かがそこにいるように感じることはある。たぶん、写っているものと、見ているものは少し違うんだろうね」
僕はうまく返事ができなかった。写真は目の前にあるものを写すのだから、写っているものを見ているに決まっていると思った。それでも、先生の言葉は、机の上に残された小石のように気になった。
翌日の昼休み、紬が僕の席へ来た。
「昨日、部室の前に貼ってあった写真、相沢くんの?」
「どれ?」
「昇降口の。私がいなくなったやつ」
部員の試作品を、文化祭の掲示板に仮置きしていた。彼女はそれを見たらしい。
「そうだけど」
「きれいだった。あんな場所でも、ちゃんと光が入ってくるんだね。毎日通ってるのに、気づかなかった」
それは僕が人から言われて一番嬉しい種類の感想だった。見慣れた場所を、見慣れないものとして見てもらえた気がしたからだ。
ところが紬は、続けて意外なことを言った。
「私も、写真を撮るのに付き合っていい?」
「撮るの?」
「撮るのは相沢くん。私は歩くだけ。街の中で、きれいだと思う場所を案内したいの」
彼女は鞄から折りたたんだ紙を取り出した。市内の観光地図だったが、有名な寺も公園も丸で囲まれていない。代わりに、住宅地の細い路地や、川沿いの階段、古い商店街の裏手に、小さな鉛筆の印がいくつもついていた。
「ここ、夕方になると建物の影が道路を半分だけ覆うんだよ。こっちの橋は、雨がやんだあと、水面に雲が映る。あと、この道には夏でも涼しいところがある」
「ずいぶん詳しいね」
「帰り道に、よく遠回りするから」
なぜそんなに遠回りするのかと聞くと、彼女は少し考えてから、家にまっすぐ帰るのがもったいない日があるのだと言った。
僕には、その気持ちが何となく分かった。写真を撮ろうと思う日も、たいてい、まだ帰りたくない日だったからだ。
「いいよ。でも、佐伯さんの写真を撮ってもいい?」
僕が尋ねると、彼女はほんのわずかに目を伏せた。
「ごめん。それは、まだ嫌かな」
「分かった。勝手には撮らない」
「ありがとう」
謝る必要なんてないのに、紬は申し訳なさそうに笑った。僕はその表情を見て、なぜ自分があんなことを聞いてしまったのか、不思議に思った。
それまで、人を撮りたいと思ったことはほとんどなかったのに。
最初に二人で歩いたのは、梅雨の晴れ間の金曜日だった。
学校の裏門を出て、スーパーの駐車場を横切り、川へ向かう細い道を進んだ。昼間に降った雨はすっかりやんでいたが、道路のくぼみにはまだ水が残り、自転車が通るたび、薄い水面が震えた。西の空は明るく、雲の下だけが灰色を帯びていた。
紬は歩くのが速くなかった。店先の鉢植えや、塀に絡まる蔦を見つけると立ち止まり、時々、それまでの話とは関係のないことを言った。
「ここ、春は白い花が咲くんだよ。風が吹くと散って、誰かが砂糖をこぼしたみたいになるの」
そう言って示したのは、民家の壁から道路へ枝を伸ばした小さな木だった。今は葉が茂っているだけで、花の名も僕には分からない。
「そのとき写真を撮った?」
「撮ってない。帰り道だったし、携帯の充電もなかったから」
「もったいないね」
「そうかな。毎年咲くんだから、また見に来ればいいよ」
僕は歩きながら、その言葉を何度か思い返した。
写真を始めてから、きれいなものを見つけると、反射的に残そうとしていた。次に同じ光が差すとは限らないし、同じ雲が浮かぶこともない。だから、撮らなければ失うような気がしていた。
紬はそうではないらしい。
彼女は目の前のものを惜しむことなく眺め、少しすると、また歩き出した。
川に着くころには、雲が大きく裂けていた。橋の上から見ると、水面を境に二つの空が向かい合っているようだった。上の空は光を含み、下の空は流れに引き延ばされて、揺れるたびに形を失っていた。
僕は何枚も写真を撮った。紬は欄干にもたれ、川下の方を見ていた。
「同じもの、そんなに撮るんだね」
「水が動くから、一枚ずつ違うんだ。あとで選べるように」
「じゃあ、一枚だけ選ぶまで、見ててもいい?」
僕は液晶画面を操作した。三十枚近い写真の中から、一番輪郭のはっきりした雲を選んだ。色も整っているし、風景としては申し分ない。
「これかな」
「私、こっちが好き」
紬が指したのは、画面の半分ほどが白く光ってしまっている写真だった。撮った瞬間に風が吹いて、水面の反射が崩れた一枚だ。
「失敗だと思うけど」
「そう? 川が動いてるのが分かる。こっちの方が、今見た川に近い気がする」
僕は二枚を見比べた。整っている写真と、揺れている写真。確かに後者には、橋の上を風が通り抜けた瞬間が残っていた。
「佐伯さんって、写真のこと詳しいの?」
「全然。だから、変なこと言ってたら気にしなくていいよ」
「いや。面白いと思う」
紬は気恥ずかしそうに笑い、それから川を見下ろした。
その横顔を、僕は撮りたいと思った。
撮らなかった。約束をしていたからだ。
代わりにカメラを下ろし、彼女の隣で、もう一度同じ川を眺めた。いつもならシャッターを押して終わる時間が、思っていたより長く続いた。
川風が彼女の前髪を持ち上げる。少し遅れて、僕の制服の袖も揺れた。
同じ風に吹かれているのだと気づいたとき、何が嬉しかったのか、僕にはまだ説明できなかった。
夏休みが近づくにつれ、二人で歩く日が増えた。
行き先はいつも特別な場所ではなかった。閉店した文具店の赤いシャッター、坂の途中にある自動販売機、日暮れになると猫が集まる空き地。紬が見つけた場所を、僕は自分の目で確かめ、それから写真に撮った。
紬といると、見逃していたものが見えてくる。コンクリートの壁の小さなひびに根を下ろした草や、古い看板の下からのぞく昔の文字。街には、僕が気づかないまま通り過ぎていた時間が、あちこちに重なっていた。
ある日の帰り道、駅前の写真店でプリントを受け取った。
紬は店先で写真を広げながら、これは好き、こっちは少し寂しい、と一枚ずつ感想を言った。川の写真を見ると、やはり光が崩れた方を選んだ。
「相沢くんって、人を撮らないんだね」
「苦手なんだ。撮ろうとすると、相手がこっちを見るだろ。その瞬間、なんだか別の顔になる気がして」
「分かるかもしれない」
彼女は写真を封筒に戻し、紙の端を丁寧にそろえた。
「小さいころ、写真を撮られるのが好きだったんだ。遠足のときも、家族旅行のときも、カメラを見つけるとすぐ前に出てた。でも、いつからか、撮る前に『笑って』って言われるのが嫌になっちゃって」
紬は、言葉を探すようにゆっくり続けた。
「楽しくないわけじゃないの。写真のときだけ、ちょうどいい顔を作らなきゃいけないのが苦手で。あとから見せてもらうと、ちゃんと笑ってるのに、あのとき何を考えてたのか自分でも分からないことがあってさ」
僕は、誰かに笑ってと言ったことがあっただろうかと考えた。人を撮らない僕は、そんな言葉を使わずに済んでいただけかもしれない。
「だから写真が嫌い?」
「ううん。写真は好き。見返すのも好きだし。ただ、自分が写るとなると、うまくできない。それだけ」
彼女の言う「うまくできない」が、僕には少し悲しかった。写真に写ることに、上手も下手もないはずなのに。
けれど、それを口にするのは違う気がした。紬が感じている不自由さを、僕の正しそうな言葉で片づけたくなかった。
「今度、写真を見せ合わない?」と僕は言った。「僕が撮ったものだけじゃなくて、佐伯さんが撮ったものも」
「私、あんまり撮らないよ」
「それでもいい。見たい」
紬はしばらく僕の顔を見ていたが、やがて鞄から携帯を取り出した。
最初に見せてくれたのは、台所の流しに置かれた二つのコップだった。次は、雨のついたバスの窓。三枚目には、黄色い絨毯の上に脱ぎ捨てられた靴下が一足だけ写っていた。
「これ、何?」
「弟。帰るといつもここに靴下を脱ぐの。何回注意しても直らなくて」
彼女は呆れたように言ったが、その声には、誰かをよく知っている人だけが持つ柔らかさがあった。
「この写真、好きだな」
「靴下なのに?」
「うん。佐伯さんの家のこと、少し分かった気がする」
彼女は携帯を胸元に引き寄せ、ほんの少し照れた顔をした。
その日の夜、僕は寝る前に写真を見返した。川も、路地も、猫のいない空き地も、以前とは違って見えた。
写真の外側に、紬がいた。
歩きながら話したことや、彼女が立ち止まった場所が、一枚ずつの周囲に浮かんでくる。写っていない彼女の声を思い出すたび、僕は写真から顔を上げ、暗くなった部屋の窓を見た。
あのとき、もう少し一緒に歩いていたかった。
そう思ったのは、たぶん初めてではなかった。
文化祭の作品を選び始めたのは、夏休みが明けてすぐだった。
写真部の展示には、一人につき三枚まで出せることになった。僕は自分の机にプリントを並べ、何度も順番を入れ替えた。昇降口の水の輪、川面の崩れた光、午後の路地に延びる二つの影。どれも紬と歩いた日の写真だった。
写真の隅に写った二つの影は、僕たちのものだった。顔はなく、制服の形もほとんど分からない。ただ、近づいたり離れたりする黒い輪郭が、道の上に長く伸びている。
僕はその三枚に、一つの題名をつけた。
『君のいない写真』
少し気取っていると思った。それでも、ほかにふさわしい言葉を思いつかなかった。写真に彼女が写っていないことと、いつか一緒に歩けなくなる日が来るかもしれないこと。その二つが、僕の中でいつのまにか同じ寂しさになっていた。
紬には、まだ見せていなかった。
九月の半ば、放課後の教室で、彼女は僕の机の上のプリントを見つけた。窓の外では運動部の掛け声が聞こえ、掃除を終えたばかりの床が淡く光っていた。
「これ、展示する写真?」
「うん。どう思う?」
紬は三枚を順に眺め、最後に題名を書いた紙へ目を落とした。
「君のいない写真、か」
その声には、いつもの明るさがなかった。
「変かな」
「変じゃない。きれいだと思う。でも、少しだけ、寂しい」
「寂しい写真にしたかったんだ」
僕がそう答えると、紬はしばらく黙っていた。
「どうして?」
「どうしてって……佐伯さんが写ってないから」
口にしてから、しまったと思った。
紬は怒らなかった。ただ、机に置かれた写真をもう一度見つめ、そのうちの一枚を指でそっとずらした。川の写真だった。
「私はあの日、相沢くんの隣にいたよ」
「うん。知ってる」
「すごく楽しかった。川もきれいだったし、帰りに買ったアイス、溶けるのが早くて困ったね。そういうことまで、私は覚えてる」
彼女はそこで言葉を切った。
「でも、これを見てると、最初から私がいなかったみたい。私のいない景色を、相沢くんが先に寂しがってる気がする」
僕は何も言えなかった。
写真を選ぶあいだ、僕はたしかに、いつか訪れるかもしれない別れのことばかり考えていた。紬と過ごした日々を、美しい思い出として並べようとしていた。まだ彼女は僕の隣にいて、次の放課後だって会えるはずなのに。
「ごめん、変なこと言った」
紬は笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
「写真は相沢くんのものだし、私が決めることじゃない。ただ、私まで、その中からいなくなった気がしただけ」
彼女はプリントを丁寧にそろえ、机の端に置いた。
そして、いつもと同じようにまた明日と言って教室を出ていった。
僕は追いかけなかった。
廊下から遠ざかっていく足音を聞きながら、初めて、自分が何も見ていなかったような気持ちになった。
それから数日、紬とは帰らなかった。
喧嘩をしたわけではない。教室で会えば挨拶もしたし、授業で配られたプリントを渡すと、彼女はちゃんと礼を言った。ただ、放課後になると互いに声をかける機会を逃し、そのまま一日が終わった。
僕は展示の写真を選び直せないでいた。
石原先生は、三枚の写真を黙って見たあと、僕の方を向いた。
「綺麗に撮れてるね。でも、相沢はこれを誰に見せたいの?」
「文化祭に来る人です」
「もちろんそうなんだけど。相沢自身は、この写真を見た人に何を感じてほしい?」
僕は答えられなかった。光が綺麗だと思ってほしかった。けれど、それだけではなかったはずだ。
「写真ってね、撮ったときの気持ちを全部説明できるわけじゃないんだよ」と先生は言った。「見る人は、その人の経験で見る。だからこそ、撮った人が何を見ようとしたかは、大事なんじゃないかな」
その帰り、僕はカメラを鞄にしまったまま、紬と歩いた道を一人でたどった。
夏の間に背の高くなった草は、もうところどころ黄色くなっていた。川沿いの階段には乾いた葉が集まり、夕方の風が吹くたび、一枚ずつ水面へ落ちた。橋の上から見える空は、六月より高いところにあるようだった。
僕は、写真を撮ろうと思わなかった。
あの日、紬は川を見ていた。僕が撮った写真をのぞき込み、失敗だと思った一枚を好きだと言った。そのあと二人でアイスを買い、彼女は一口食べるたびに話を止めた。僕は彼女の食べるのが遅いことを初めて知り、溶ける前に食べた方がいいと余計なことを言った。
彼女は笑っていた。
どうして僕は、あの日のことを寂しい思い出にしようとしたのだろう。
まだ終わってもいない時間を、終わったものとして眺めるのは、ひどく臆病なことだったのかもしれない。写真にしてしまえば、変わっていくことを恐れずに済む。紬が明日、僕の知らない顔を見せても、昨日までの彼女を持っていられる。
けれど、僕が好きになったのは、写真の中にしまえる誰かではなかった。
橋を渡りかけたとき、携帯が震えた。紬からだった。
『あの橋のところ、もう紅葉してる?』
唐突な質問に、思わず笑ってしまった。
『少しだけ。今、橋にいる』
送ると、すぐに返事が来た。
『え、私も行こうとしてた。ちょっと待ってて』
僕は欄干にもたれ、向こう岸の道を眺めた。車が二台通り過ぎ、犬を連れた人が橋を渡っていった。日が傾くにつれ、欄干の影が僕の靴先まで伸びてきた。
十分ほどして、紬が坂を上ってきた。
息を弾ませ、額にかかった髪を払っている。走ってきたの、と聞くと、最後の坂だけ、と彼女は言った。
「そんなに急がなくてもよかったのに」
「だって、相沢くんが帰っちゃうかもしれないでしょ」
その言葉が、僕には嬉しかった。
僕たちは並んで橋を渡った。紬は川岸の木を見上げ、赤くなり始めた葉を見つけると、わざわざ少し遠回りをして近くまで行った。
「この前の写真、ごめん」と僕は言った。
紬は足を止めなかった。
「私も、うまく言えなかったと思う。写真が嫌だったわけじゃないんだよ。ただ、あの日はちゃんと二人で歩いたのに、相沢くんが私のいないことばかり見ているのが寂しかった」
「うん。今なら少し分かる。僕、いつかいなくなることばかり考えてた。まだ一緒にいられるのに」
彼女は横を向いて僕を見た。
「私、いなくなる予定ないよ」
「分かってる」
「明日も学校に行くし、その次の日も行く。たぶん、また一緒に帰りたいって言うと思う」
僕は立ち止まった。
それまで僕にとって、未来はどこか遠くにあって、いつか大切なものを奪っていく時間のように感じられていた。けれど、紬の言う未来は、明日の放課後や、まだ見たことのない帰り道のことだった。
「僕も、一緒に帰りたい」
そう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
それから二人は、川沿いに落ちていた赤い葉を一枚拾い、どちらの葉脈が綺麗かという、どうでもいいことで言い合った。勝ち負けは決まらなかった。気がつけば日が暮れかけていた。
僕はカメラを取り出さなかった。
代わりに、紬が今日の夕焼けをどう思うか尋ねた。彼女は橋の向こうを見て、少し考え、それから、絵の具を水で薄めすぎたみたいだと言った。
僕には、そう言う彼女の声までが、夕暮れの一部に思えた。
文化祭の前日、僕は展示する三枚をようやく決めた。
一枚目は、青い傘があった昇降口。二枚目は、水面に揺れる雲。三枚目は、夏休みに二人で訪れた小さな公園の、誰も座っていないベンチだった。
写真は変えなかった。
ただ、題名だけを変えた。
『帰り道の途中』
同じ写真なのに、並べてみると以前ほど寂しくなかった。昇降口の水の輪から、傘を持って駆けていく紬の後ろ姿が思い浮かぶ。川面の光には、欄干から身を乗り出していた彼女の声が重なる。公園のベンチは空っぽだが、僕たちはそこに座らず、向こうの自動販売機で飲み物を買ったのだ。
写真を見た人には、もちろん、そんなことは分からない。
それでよかった。
写真の中にすべてを入れなくても、そこから誰かの時間が始まればいい。僕は初めて、そのことを素直に受け入れられた。
文化祭当日、校舎には焼き菓子と絵の具の匂いが入り交じり、いつもの廊下に、いつもとは違う足音が満ちていた。写真部の展示室には思っていたよりたくさんの人が来て、僕は受付をしながら、誰がどの写真の前で立ち止まるかを眺めていた。
僕の作品を見て、ある小学生くらいの女の子が母親に言った。
「この傘、どこに行ったの?」
母親は困ったように笑い、どこだろうね、と答えた。
女の子はもう一度写真を見てから、きっと誰かが持って帰ったんだよ、と満足そうに言った。
僕はその会話を聞いて、胸の奥が少し温かくなった。
午後、紬が教室を訪れた。彼女は写真の前に立ち、一枚ずつ時間をかけて眺めた。僕は受付の椅子に座ったまま、彼女が振り返るのを待った。
「題名、変えたんだね」
「うん。最初のは少し、格好をつけすぎた」
「そんなことないよ。あれも好きだった。ただ、こっちの方が、私たちが歩いた日らしいと思う」
紬は川の写真の前に戻った。
「やっぱり、これが一番好き」
「実は先生にも、光が飛んでるって言われた」
「じゃあ、私の見る目がないのかな」
「いや。あの日の風が写ってるから、これにしたんだ」
紬は少し驚いたように僕を見て、それから笑った。
「そういうの、伝染するんだね」
その一言が嬉しくて、僕はしばらく返事ができなかった。
展示室を出る前に、紬は鞄から小さな封筒を取り出した。
「私も、写真を一枚持ってきたの。相沢くんに見せたくて」
中には、携帯で撮ったらしい少し粗い写真が入っていた。
教室の窓際。夕方の光を受けた机の上に、閉じたノートとカメラが置かれている。画面の端には、椅子に腰かけて写真を選んでいる僕の腕が、少しだけ写っていた。
「いつ撮ったの?」
「七月。相沢くんが私に写真を見せてくれた日」
僕はしばらくその写真を見つめた。
僕の顔は写っていない。けれど、カメラの向こうで、紬が僕を見ていた。
「撮ってたんだ」
「うん。相沢くんはいつも、誰もいないところを撮るでしょ。でも私には、相沢くんがいる場所って、ちゃんと分かるから」
彼女は言い終えてから、自分が何を言ったのか気づいたように、少しだけ顔を赤くした。
僕の胸の中で、あの日の雨の匂いがよみがえった。
彼女のいない写真に彼女がいたように、彼女の撮った写真にも、僕がいた。
互いのいない場所を探していたのではない。互いのいる世界を、少しずつ見つけていたのだ。
十月になって、空の色が変わった。
文化祭の片づけを終えた校舎は、少しだけ広く感じられた。中庭の木は葉の先から黄色くなり、風が吹くと、乾いた葉が廊下の隅まで入り込んだ。窓を閉める音が、夏よりもはっきり響く季節だった。
ある水曜日の放課後、紬が僕を校舎裏に呼び出した。
何かあったのかと尋ねると、彼女は曖昧に笑い、ついてきてほしいと言った。二人で歩いた先には、日当たりの悪い花壇と、使われなくなった水道があった。校舎の壁には夕日が斜めに差し、窓枠の影が長い四角形を作っていた。
「ここで?」
「うん。今日なら、いいかなと思って」
紬は鞄の紐を握り直し、僕を見た。
「私の写真、撮ってくれない?」
僕はすぐにカメラを取り出せなかった。
「いいの?」
「うん。でも、うまく笑えないと思う。変な顔かもしれないし、髪も風でぐちゃぐちゃになるかもしれない。それでもよかったら、今日の私を撮ってほしい」
僕は頷いた。
「佐伯さんの顔がどう写るかより、佐伯さんがここにいることを撮りたい。……うまく言えないけど」
「分かるよ。たぶん、前よりずっと」
彼女は花壇の横に立った。秋の光は夏ほど眩しくなく、制服の白い襟を柔らかく照らしていた。風が吹くたび、乾き始めた葉が足元を滑っていく。
僕はファインダーをのぞいた。
紬は少し緊張した顔でこちらを見ていた。僕が何も言わないので、彼女は困ったように首をかしげる。その表情が可笑しくて笑うと、彼女もようやく笑った。
シャッターを押しかけて、やめた。
彼女はそのまま、僕を待っていた。
「どうしたの?」
「ちょっと、話してもいい?」
カメラを下ろすと、紬は不思議そうな顔をした。
「僕、佐伯さんと帰るようになってから、放課後が好きになった。前は写真を撮るために残ってたけど、今は、佐伯さんと一緒に歩けるから帰る時間を待ってる」
言葉にすると、思っていたより簡単なことだった。六月の昇降口も、夏の川も、秋の橋も、その全部を通り抜けて、僕が伝えたかったことはここにあった。
「写真を撮らなくても、明日も会いたい。来週も、その次の季節も。……佐伯さんのことが好きです」
紬はすぐには答えなかった。
遠くのグラウンドから、ボールを打つ音が聞こえた。何かの部活動が始まったらしい。僕はその音を聞きながら、自分の心臓がひどく速く打っていることに気づいた。
「私ね」と紬が言った。「最初、相沢くんの写真が好きだったの。誰もいないところを、こんなに綺麗に見つける人がいるんだと思って。それで一緒に歩いてみたら、写真を撮ってないときの相沢くんの方が、もっと好きになっちゃった」
紬は自分の言葉に照れながらも、目を逸らさなかった。
「私も、相沢くんが好き。明日も一緒に帰りたいし、冬になって川が寒くなっても、二人であの橋を渡りたい」
僕たちは笑った。どうして笑ったのかは、よく覚えていない。たぶん、二人とも同じくらい恥ずかしくて、同じくらい嬉しかったのだと思う。
「じゃあ、写真を撮ろうか」
紬が言った。
僕はカメラを構え直した。
「笑った方がいい?」
「好きな顔でいいよ」
彼女は少し考え、肩の力を抜いた。視線をこちらへ向けたまま、口元だけに穏やかな笑みを残している。僕は、その表情を初めて見た気がした。
シャッターの音が、小さく鳴った。
液晶画面には、秋の日差しの中に立つ紬が写っていた。髪は風に乱れ、片方の靴には花壇の土が少しついている。背景の壁も、取り立てて美しくはない。写真展に出せば、もっといい場所を探した方がよかったと言われるかもしれなかった。
けれど、僕にはそれが、世界で一番好きな写真になった。
紬は画面をのぞき込み、しばらく黙っていた。
「……あ、これなら好きかも」
「よかった」
「私、こんな顔するんだね」
彼女はまだ知らなかった自分を見つけた人のように、何度か画面を見返した。
僕は写真を保存し、カメラを鞄へしまった。
校舎を出ると、空にはまだ明るさが残っていた。道路の向こうで信号が変わり、下校する生徒たちが自転車を押して歩いている。紬はその景色を眺めながら、今日はどこを通って帰ろうかと尋ねた。
「遠回りしてもいい?」
「もちろん」
僕たちは、いつもの川へ向かって歩き出した。
僕は何度もカメラの入った鞄に手を伸ばしかけ、そのたびにやめた。風が吹いて、紬が髪を押さえる。彼女は昨日見つけた店の話をして、僕は知らなかったと答える。話が途切れても、今度はその沈黙を、急いで何かに残そうとは思わなかった。
撮った写真は、いつか色が褪せるかもしれない。記憶だって、少しずつ形を変えていくだろう。けれど、そのことを以前ほど怖いとは思わなかった。
写真に写る彼女が、彼女のすべてではないからだ。
明日になれば、彼女はまた、僕の知らないことを話すだろう。新しい景色を見つけ、思いがけないところで笑い、今日とは違う顔をする。僕はそのたびに、少しずつ彼女を知っていく。
橋へ向かう角を曲がるとき、紬が何でもないように僕の手を取った。指先は少し冷たかったが、握り返すと、ゆっくり温かくなっていった。
初めて撮った写真には、彼女が写っていなかった。
けれど、そこから始まった日々には、いつも彼女がいた。
そのことを、僕はもう、写真に証明してもらわなくてよかった。




