5年付き合った彼氏が元カノを家に住まわせ、「寝室を譲って」と言ってきた
大学の同窓会の二次会は、新宿のカラオケ店で開かれた。モニターに男女のデュエット曲が映し出された瞬間、私はイントロだけで何の曲か分かった。直人が大学時代から好きだった曲で、彼と一緒に歌いたくて、私も一か月以上かけて練習してきた曲だった。
黒川直人はすでに一本のマイクを手にしていた。テーブルに残っているもう一本へ手を伸ばした、そのときだった。ちょうど部屋のドアが開き、水野柚香が雨粒のついたビニール傘を畳みながら入ってきた。
直人の目が、目に見えて明るくなる。彼は私より先に残っていたマイクを取り、柚香へ差し出した。
「柚香、すごいタイミングだな。これ、大学の頃よく歌ってただろ。一緒に歌おうよ」
周囲から一斉に冷やかす声が上がった。同窓会のグループLINEに写真を上げる人もいれば、大学時代に二人が一時期付き合っていた頃の話を持ち出して笑う人もいる。私は二秒ほど止まっていた手をそっと引っ込め、目の前の白湯を一口飲んだ。
その夜、直人はほとんど柚香のそばにいた。十時を過ぎた頃から胃がしくしく痛み始め、時間が経つにつれて痛みは強くなっていった。一度トイレに逃げ込み、しばらく休んでから戻ったものの、直人は店で頼んだ有頭海老の塩焼きの殻を柚香のために剥いていて、私が戻ったことにさえ気づかなかった。
その瞬間、もう何も言いたくなくなった。
五年間、私は十分すぎるほど伝えてきた。
1
午前二時を過ぎ、ようやく同窓会がお開きになった。
地下駐車場は冷え切っていた。私はコンクリートの柱に手をつき、締めつけるような胃の痛みに耐えた。額にはすぐに冷たい汗が浮かび、数歩先まで歩いた直人がようやく私がついてきていないことに気づいた。
振り返った彼は、露骨に眉をひそめた。
「佳奈、今日は久しぶりにみんなで集まったんだぞ。さっきからずっとそんな態度だけど、そこまでする必要ある?」
「胃が痛いの」
柚香は直人の後ろに立ち、彼のジャケットを肩に掛けていた。私の言葉を聞くと半歩だけ前へ出て、申し訳なさそうな顔をする。
「さっきの曲のこと? もし嫌な気分にさせたなら、次から気をつけるから」
直人の表情がすぐに険しくなった。
「柚香は関係ないだろ。何でも自分のせいにするなって」
それから私に向き直る。
「柚香は酒も飲んでるし、東京に戻ってきたばかりで今はホテル暮らしなんだ。俺が送るから、佳奈はタクシーで帰って」
私たちが住んでいるのは江東区の豊洲。一方、柚香が滞在しているホテルは西新宿だった。外では雨脚がますます強まり、終電はとうに終わっている。配車アプリを開いても、周辺の車両が不足しているという表示ばかりだった。
私は柱にもたれたまま、何とか息を整えた。胃の痛みは波のように押し寄せ、もう腰を伸ばすことすら難しかった。
「先に私を家まで送ってくれない? それが無理なら、病院でもいい。今、本当に歩けないの」
直人は数秒間私を見つめたあと、鼻で笑った。
「さっきまで自分でトイレに行けてたじゃないか。俺が柚香を送るって言った途端、歩けなくなるのか? 佳奈、いつからそんなやり方で引き止めるようになったんだよ」
私はもう説明しなかった。バッグを開き、以前医師から処方された胃薬を取り出して、持ち歩いていた水のペットボトルを開ける。
錠剤を手のひらに出した直後、隣にいた柚香がみぞおちの辺りを押さえ、少し体を曲げた。
「直人、私もなんだかここが痛くて……。さっき、ちょっと飲みすぎたのかも」
直人の顔色が変わった。私の手にあった薬と水を反射的に取ろうとして、その勢いでペットボトルの水が私のスカートにこぼれた。
「とりあえず薬を――」
「それ、私に処方された薬だから。他の人が勝手に飲んじゃ駄目」
直人の手が止まった。
さすがにまずいと気づいたらしく、薬を私の手に戻し、そのまま柚香の体を支える。
「じゃあ佳奈はそれ飲んで。俺は柚香を夜間救急に連れていく」
そう言って車へ向かった直人は、途中で一度戻り、車内に置いてあった薄手の上着を私のそばへ置いた。
「外は冷えるから着てろよ。タクシーがつかまったら連絡して」
その上着を見ているうちに、五年前の冬を思い出した。
当時の私たちは、練馬区にある二十平方メートルほどの古い1Kで暮らしていた。ある夜、急性胃炎でベッドの上に丸くなって動けなくなった私を見て、直人はコートのボタンもまともに留めずに飛び出していった。まだ開いている薬局や夜間診療をしている医療機関を探して、雪の中を走り回ってくれた。
戻ってきた彼の髪には、溶けかけた雪がいくつも残っていた。直人は私を抱きしめ、「もう二度と一人でこんな思いをさせない」と何度も言った。
今、その人は別の女性のために助手席のドアを開けている。
車の窓が下がった。
「佳奈、いつまでそこにいるんだよ?」
私は彼が置いていった上着を駐車場の柵に戻し、柱を支えにしてゆっくり立ち上がった。
「直人。もう私の体のこと、心配しなくていいから」
彼が一瞬、言葉を失う。
私は返事を待たなかった。
2
月曜日の経営会議が始まってすぐ、直人は一冊の資料をテーブルの中央へ滑らせた。会議室には各部門の責任者が集まり、柚香も彼の右隣に座っている。
「ASTER案件は今日から柚香に任せる。佳奈は今日中に資料とクライアントとのやり取りをまとめて、引き継ぎを済ませてくれ」
ペンを持つ私の手が止まった。
ASTERは今年の中でも特に重要なDX支援プロジェクトだった。最初の提案からヒアリング、予算モデルの作成まで、ほぼすべて私がチームを率いて進めてきた。一か月間、何度も提案内容を作り直し、ようやく最終的な商談までこぎつけた案件だ。
それに対し、柚香が正式に入社したのは先週の金曜日だった。
「入社したばかりで、まだサービス内容もコスト構造も、クライアント社内の決裁フローも把握していないでしょう。契約直前の段階で責任者を変更するなら、先方にも正式な説明が必要になる。今このタイミングで交代させるのは、案件のリスクを上げるだけだと思う」
この会社は、私と直人が五年前に一緒に立ち上げた会社だった。今の直人は代表取締役CEOで、私は執行役員として事業全体を統括している。
経営判断としてプロジェクト責任者を変更すること自体はできる。けれど、契約直前の重要案件を、業務上の明確な理由もなく突然担当替えするのは、通常のプロジェクト管理として不自然だった。
柚香は資料を握りしめ、視線を落とした。
「佳奈、私、あなたの成果を横取りしたいわけじゃないの。まだ早いと思うなら、まずチームに入って勉強するだけでもいいよ。別の案件を任せてもらうのは、慣れてからでも――」
直人が指で机を軽く叩いた。
「これは経営判断だ。柚香は前職でも法人営業をやっていたし、早めに主力案件を経験させたい。佳奈は今、事業全体を見てる立場だろ。新人を育てるのも仕事のうちだ。いつまでも一つの案件にこだわる必要はない。何かあったら俺が責任を取る」
誰も口を挟まなかった。
私は数秒だけ直人を見つめ、ASTERの資料を閉じた。
「分かった。CEOとしての判断なら、正式な手順で引き継ぐ。今日中にクライアントとのやり取り、コストモデル、リスク一覧、現在残っている課題を全部まとめる」
直人の表情がようやく緩んだ。
柚香がコーヒーカップを持って立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
「佳奈、ありがとう。まだ分からないことも多いから、これから色々――」
私の隣まで来た瞬間、彼女のヒールがぐらりと傾いた。
熱いブラックコーヒーが勢いよく飛んでくる。
反射的に体をずらしたものの、手の甲から手首にかけては避けきれなかった。さらにカップに残っていたコーヒーの大半が、開いたままのノートパソコンへかかる。
画面が二度ほど点滅し、そのまま真っ暗になった。
周囲の人たちが一斉に立ち上がった。ティッシュを持ってくる人、水を用意する人。私はすぐに電源ケーブルを抜き、本体を裏返した。
手首には焼けるような痛みが広がっている。パソコンには昨夜修正したASTERの最新財務モデルが入っていた。正式なファイルはクラウド保存が社内ルールだったものの、最後に変更した部分だけはまだ同期していなかった。
「ごめんなさい、足を滑らせちゃって……。佳奈、手、大丈夫? パソコンも……どうしよう」
直人が急いでこちらへ来た。
だが、最初に手を伸ばしたのは柚香のほうだった。
「火傷してないか? 手、見せて」
柚香は首を横に振る。
私は十数分ほど手首を流水で冷やした。会議室へ戻った頃には、パソコンは情報システム部の担当者が確認のために持っていったあとだった。
直人はそこでようやく、赤くなった私の手を見た。
「パソコンは情シスに任せろ。駄目なら新しいのを用意する。それより手、ちゃんと近くのクリニックで診てもらえよ。跡が残ったら困るだろ」
「ASTERの昨夜更新したデータがまだ中にある」
彼の表情がわずかに止まった。
「それもできる限り復旧してもらう。それと、今夜空いてる? 先週銀座で見てたイッセイ ミヤケのワンピース、気に入ってただろ。仕事が終わったら一緒に買いに行こう。今日の埋め合わせってことで」
私は直人を見つめながら、会社を立ち上げたばかりの頃を思い出していた。
最初のオフィスは、シェアオフィスに借りた四席だけだった。仕事が終われば練馬の古い部屋へ帰り、閉店前のスーパーで半額になった弁当を二人で分けることも珍しくなかった。
一番苦しかった頃、直人は最後のおにぎりを私へ押しつけ、自分は狭いキッチンでカップ麺をすすりながら笑っていた。
会社が成功したら、佳奈が欲しいものは何でも買えるようにする。
私はあの言葉を本気で信じていた。
今では、高価な服一着で何もかも片づけられると思っている。
私は手首についた水滴をティッシュで拭いた。
「いらない」
直人が眉を寄せる。
「ずっと欲しがってただろ?」
「もう欲しくないから」
3
三日後、直人が私のオフィスへやってきた。
私はASTERの引き継ぎ資料を整理していた。彼はしばらく机の上を眺めたあと、指先で二度叩く。
「今夜、柚香の歓迎会に出てくれ。社内の責任者だけじゃなく、ASTERの主要メンバーと付き合いの長い取引先も何人か来る。柚香はこれから関係を作っていかなきゃならないし、事業統括の佳奈が欠席するわけにはいかない」
私は作業の手を止めた。
「入社の歓迎会なら先週やったでしょう。それにASTERはまだ最終契約も済んでない」
「だからこそ人間関係を作っておく必要があるんだよ。佳奈が来なかったら、事業統括が新しい責任者を認めてないって受け取られる。そうなったら困るのはチーム全体だ」
午後七時半。
歓迎会は六本木にあるホテルの個室で開かれた。会社の管理職に加え、長く付き合いのある取引先も数人参加していた。柚香は上品なワンピースを着て直人の隣に座り、周囲から業界や案件について次々と説明を受けている。
私は少し離れた席で白湯だけを飲んでいた。
最近は胃痛が以前より頻繁になっていた。酒や刺激の強いものを少し口にするだけでも、その夜はかなり苦しくなる。
会が半ばまで進んだ頃、直人がグラスを手に私のところへ来た。
「佳奈、ASTERはこれまでずっと佳奈が担当してきただろ。今日は主要メンバーもそろってるし、柚香と一杯だけ乾杯してくれ。それで正式に引き継ぎ完了ってことにしよう。二人の間に個人的なわだかまりはないって、みんなにも分かる」
周囲の会話が少しずつ途切れた。
「胃の調子が悪いから、今は飲めない」
「一口も?」
「無理」
直人の顔から徐々に笑みが消えていく。
「これだけ人がいるんだぞ。一口くらいいいだろ。空気を悪くするなよ」
柚香がグラスを持って立ち上がった。
「いいよ。佳奈、体調が悪いなら無理しないで。私は気にしてないから、仕事でちゃんと連携できればそれで――」
言い終える前に、柚香の体がふらついた。
直人がすぐに腕を伸ばして支える。
「また具合悪いのか?」
「最近、あまり眠れてなくて。ホテルが大通り沿いだから、夜中も車の音がして何度も起きちゃうの」
直人はしばらく黙ったあと、何でもないことのように口にした。
「じゃあ、しばらくホテルはやめれば? うちに一部屋空いてるだろ。部屋が見つかるまで住めばいい。東京に戻ってきたばかりなんだし、物件探しにも時間かかるだろ」
私は顔を上げた。
「今、何て言った?」
「数日だけだよ。豊洲なら会社にも近いし、新宿から毎日来るより楽だろ」
テーブルの空気が一瞬で固まった。
私と直人が暮らしているのは、三年前、結婚を考えて購入した豊洲の2LDKの分譲マンションだった。
頭金の大半は私の貯金から出し、残りは二人でペアローンを組んだ。持分もそれぞれの出資割合に応じて登記している。起業で忙しくなり、結婚式は何度も先延ばしになった。それでもあのマンションは、ずっと二人の家だった。
「私は反対。そこは私の家でもあるの。誰かを住まわせるなら、少なくとも先に相談するのが普通でしょう。みんなの前で勝手に決めないで」
直人の表情が冷えた。
「佳奈、大学時代の友達を数日客室に泊めるだけだぞ。そこまで大げさにすることか? 俺にだって持分はある。最近の佳奈、同窓会の夜からずっと柚香に突っかかってるよな。仕事と私情まで一緒にされると、正直疲れる」
「ただの友達なら、私に一言も聞かずに決めたりしないでしょう」
直人はじっと私を見た。
「じゃあどうしろっていうんだよ。そんなに私情をコントロールできないなら、事業統括として今後もやっていけるのか、一度自分で考えたほうがいいんじゃないか?」
私は動きを止めた。
直人がここまではっきり、仕事上の立場を使って私を黙らせようとしたのは初めてだった。
会がお開きになる頃、彼もさすがに言いすぎたと思ったらしい。焼き魚が運ばれてくると、取り箸で一切れ取って私の小皿へ置いた。
「さっきは言い方がきつかった。とりあえず食べろよ。続きは家で話せばいい。柚香だって部屋が見つかればすぐ出るんだから、俺たちの生活には影響しない」
私は白い魚の身を見つめた。
五年前、直人が起業を決めた頃のことを思い出す。
当時の私は、東京にある外資系コンサルティング会社から内定をもらっていた。ロンドンのMBAへの出願準備も進めていた。
それでも直人と会社を始めるために内定を辞退し、留学のために貯めていた資金まで出した。
最初の資金調達に失敗したとき、直人は取引先との会食で無理をして胃から出血し、病院へ運ばれた。私は一晩中そばにいた。
翌朝目を覚ました彼は私を抱きしめ、この会社がどれだけ大きくなっても半分は佳奈のものだ、と言った。
今、その会社で得た立場を使って、私に元恋人のために場所を譲れと言っている。
私はナプキンをテーブルへ戻した。
「直人。事業統括のポジション、好きな人に渡せばいいよ」
バッグを持ち、私は個室を出た。
4
翌日、予約していた消化器内科を受診した。
数日前に受けた胃カメラ検査で採取した組織の病理結果が出ていた。医師は検査結果を確認しながら、静かな声で告げた。
「病理検査の結果、早期胃がんと診断されました。これから追加検査で病変の深さや転移の有無を確認して、内視鏡治療が可能か、それとも外科手術が必要か判断します。早期に見つかっているので治療できる可能性は十分高いですが、これ以上先延ばしにはしないでください。飲酒も控えて、無理はしないように」
私はしばらく画面を見つめ、最後に小さくうなずいた。
病院を出ると、東京はまだ明るかった。ビルの隙間から午後の日差しが差し込み、車や人の声が入り混じっている。
私は歩道に立ったまま、周囲のすべてが遠い場所で起きているような感覚に陥った。
スマートフォンには会社から十件以上の連絡が入っていた。
直人からは、一件もなかった。
私は航空会社のアプリを開き、数日後の成田発ボストン行きの便を予約した。
数か月前から、ある外資系投資会社の東京オフィスから何度か声を掛けられていた。シンガポールとアメリカにもチームを持つ会社で、以前から私を採用したいと言ってくれていた。
その会社を通じ、ボストンの医療機関についてもすでに相談できる体制があった。
直人とNEXUS LINKのことがあって、これまではすべて断っていた。
私は久しぶりに、受信箱に残っていたメールを開いた。
豊洲のマンションへ帰り、玄関のドアを開けた瞬間、部屋の様子が変わっていることに気づいた。
見覚えのない靴が何足も増え、リビングの隅には買い物袋が積まれている。柚香は私がいつも座っている一人掛けのソファに腰掛け、私のシルクのルームウェアを着て、いつも使っている有田焼のマグカップを手にしていた。
そのカップは、直人が去年佐賀へ出張したときに買ってきてくれたものだった。
底には私の名前まで入っている。
柚香は私を見ると、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。
「佳奈、おかえり。直人が、このルームウェア最近着てないって言ってたから、ちょっと借りたの。それとこのカップ、可愛かったから使わせてもらってる。別にいいよね?」
私は何も答えなかった。
すぐに書斎のドアが開き、タブレットを持った直人が出てきた。
私を見るなり眉をひそめる。
「今日の午後どこにいたんだよ。会社から何度も連絡したのに、電話も出ないし。それと柚香、まだよく眠れないみたいなんだ。客室は廊下側で音も気になるらしいから、今夜は佳奈が客室で寝て、寝室を柚香に使わせてやって。部屋が見つかったらすぐ元に戻すから」
私は直人を見つめた。
「私の服を着せて、私のカップを使わせて、そのうえ今度は私たちの寝室まで譲れって?」
「ただの部屋だろ。佳奈、最近どうして何でもそんな大問題にするんだよ。柚香は体調も良くないし、数日だけなんだから譲ってやればいいじゃないか」
「このマンションの頭金は私が大半を出してるし、私にも持分がある。私の私物を勝手に使わせる権利も、私を寝室から追い出す権利も、直人にはない」
彼の顔が険しくなった。
「じゃあ、俺にどうしろっていうんだよ。柚香が戻ってきてから、佳奈は毎日何かに腹を立ててるじゃないか。昼は会社のことを全部背負って、家に帰ったらまたこれだ。正直、ずっと機嫌を取ってる余裕なんてないんだよ」
私はそれ以上言い返さなかった。
もう、話し合う意味がなかった。
寝室へ入り、ドアに鍵を掛ける。
本当に必要な荷物は多くなかった。パスポート、パソコン、着替え数着、必要な書類。それだけでキャリーケース一つに収まった。
他の物には一切触れなかった。
最後に、病院でもらった診断結果をドレッサーの上に置いた。
隣には、執行役員を辞任し、会社も退職する旨を記した書類と、直人への別れの手紙を並べた。マンションの持分やペアローン、保有株式などについては、今後、弁護士と司法書士を通じて正式に連絡すると書き添えた。
キャリーケースを引いて玄関へ出たとき、直人と柚香はちょうど近所のコンビニへ出ていた。
私は鍵をシューズボックスの上に置いた。
静かにドアを閉める。
振り返らなかった。
午後十時過ぎ。
直人が寝室のドアを開けた。
部屋には誰もいなかった。
ドレッサーには書類が整然と並び、その一番上にある診断結果には、「早期胃がん」という文字がはっきり記されていた。
直人は長い間その場に立ち尽くしたあと、慌ててスマートフォンを取り出した。
だが、私の番号にはもうつながらなかった。
5
その夜、直人は私が通っていた病院へ向かったらしい。当然、受付では個人情報を理由に何も教えてもらえず、その後は会社の人間や大学時代の知り合いに片っ端から連絡した。
それでも、誰も私の居場所を知らなかった。
翌日、会社に届いたのは、私が執行役員を辞任し、退職することを正式に通知する書類だけだった。
私が保有する株式やマンションの共有持分については、すべて弁護士を通じて対応した。個人的な連絡先は残していない。
後になって、直人は私が出国したことだけを知った。
その先は、何も分からなかった。
半年後。
丸の内にある高層オフィスビルの会議室で、NEXUS LINKの資金調達チームが投資会社の到着を待っていた。
ここ数か月、同社は立て続けに顧客を失い、キャッシュフローも急速に悪化していた。今回のラウンドで資金調達ができなければ、給与や取引先への支払い、銀行借入の返済にまで影響が出る状況だった。
直人は会議テーブルの一方に座っていた。
半年ぶりに見る彼は明らかに痩せ、目の下には濃い疲労の色が残っている。
柚香はその隣で、資金調達用の資料を広げていた。
「三か月かけて作った資料だし、追加できる数字は全部入れた。モデルも何度も修正したから、今日よほどのことがなければ、向こうも次の段階まで進めてくれると思う」
直人は答えなかった。
やがて会議室のドアが開いた。
ORBIT Capital東京オフィスの責任者が入り、今回の投資審査に参加するメンバーを簡単に紹介する。
そして最後に、入口の脇へ体をずらした。
私はその後ろから会議室へ入った。
髪は半年前より短くしていた。身に着けているのは、無駄のないデザインの黒いスーツ。
治療は無事に終わった。
術後の回復期間を経て、私はORBIT Capitalへ正式に入社した。過去五年間、創業から経営、資金調達まで実務で経験していたことを評価され、投資チームに加わった。
そして偶然にも、NEXUS LINKは私が担当する案件の一つになった。
直人が勢いよく立ち上がり、テーブルのコーヒーを倒した。
「佳奈……本当に佳奈なのか? 病気は? この半年、どこにいたんだよ?」
私は投資側の席へ座り、目の前の資料を開いた。
「黒川社長。今は投資審査の場です。個人的な話は、会議が終わってからにしてください」
彼は数秒固まったあと、ようやく椅子へ戻った。
私は財務モデルのページを開く。
「提出いただいた予測数値には、いくつか大きな問題があります。顧客獲得コストは二年前の数字を使っている。継続率にも十分な根拠がありません。今後三年間の売上成長率についても、現在の契約規模からは説明できない水準です。この状態では、投資委員会が企業価値を判断するには情報が足りません」
私は資料をテーブルへ戻した。
柚香がついに口を挟んだ。
「佐倉さん、この資料は私たちが三か月かけて準備したんです。数字について説明が必要なら追加します。でも、最初から全体を否定するような言い方は、少し一方的じゃありませんか?」
私は別の資料を取り出し、彼女の前に置いた。
「では、こちらを先に説明していただけますか」
それは、別の企業が前年に公表していた資金調達向けの説明資料だった。
「御社が今回提出した資料と、構成、財務モデルの式、それに複数の誤記まで一致しています。水野さん、これはどういうことですか?」
柚香の表情が固まった。
会議室は静まり返った。
6
柚香の指が資料を強く握りしめた。
「知りません。この部分は私一人で作ったものじゃないし、チームのメンバーも作業しています。似ているからって、私が持ってきたと決めつけられるものじゃないでしょう」
私はそれ以上、彼女と言い争うつもりはなかった。
投資会社のデューデリジェンスで必要なのは、感情的な言い合いではなく、証拠とプロセス、内部統制の確認だ。
「資料の作成経緯については、書面で説明を求めます。確認が終わるまで投資審査は一旦停止します。また、デューデリジェンスの過程で、一部の取引先への支払いや経費処理にも不自然な点が確認されています。こちらについても、御社の監査担当と外部弁護士を通じて調査していただきます」
直人の顔色が変わった。
「不自然な支払いって、どういう意味ですか?」
「詳細は正式な報告書でお伝えします」
彼は少し黙ったあと、突然私を見た。
「佳奈。会議が終わったら、十分だけ二人で話せないか? 本当に十分でいい」
「今回の投資に関する話であれば、双方の担当者がそろっている場でお願いします。それ以外でしたら、話すことはありません」
私は資料を閉じ、同僚たちと会議室を出た。
午後、地下駐車場へ向かうと、直人が追いかけてきた。
ネクタイすらまともに直していない。私の車の前へ回り込んだため、同行していた警備担当者がすぐに一歩前へ出た。
「触ったりしない。少し話したいだけです」
私は距離を取ったまま立ち止まった。
直人は長い間、私を見つめていた。
「診断書を見てから、ずっと探してた。あんなに悪かったなんて、本当に知らなかったんだ。知ってたら、絶対に一人で行かせたりしなかった。佳奈、ごめん。この半年、ずっと昔のことを考えてた。もう一度やり直せないか? 株もマンションも金も、全部佳奈の望むようにするから」
「無理」
直人が目を瞬く。
「え?」
「私たちは、もうやり直さない」
私は車のドアを開けた。
そのとき、エレベーターの方向から急いだ足音が響いた。
柚香が走ってきて、警備担当者に止められる。
「佳奈、待って。投資のこと、もう一度考えて。私が会社にいるのが嫌なら辞める。もう二度とあなたと直人の前にも現れない。ORBITが投資してくれるなら、条件は何でも――」
「もう資金調達だけの問題じゃないの」
私は一枚の資料を直人へ渡した。
デューデリジェンスで見つかった問題は、他社資料の流用だけではなかった。
柚香が担当していた複数の業務委託契約には、実態のない費用や不自然に高額な請求が含まれていた。さらに一部の取引先と共謀し、架空の業務委託費を会社から支払わせ、その一部をキックバックとして個人口座で受け取っていた形跡も見つかっていた。
総額は一千万円を超えていた。
その一部は、弟の借金返済に使われていた。
柚香が資料を奪い取る。
「嘘よ! こんなの、私を陥れるために作ったんでしょう!」
「本物かどうかを決めるのは私じゃない。資料はすでに御社の外部弁護士へ渡してある。刑事事件に該当する可能性がある部分については、必要な手続きを取ってもらう」
柚香の顔から血の気が引いていった。
私はもう一度直人を見る。
彼は何も言わなかった。
私は車に乗り込んだ。
バックミラーの中に、二人だけが残った。
数日後、NEXUS LINKの社内調査はさらに広がった。
取引先の一部は新規取引を停止し、銀行も同社の信用状況を改めて審査した。資金調達の結果を待っていた主要顧客も、相次いで新規案件を取りやめた。
その後、異常な支払いについて警察の捜査も始まり、柚香は詐欺などの疑いで事情を聴かれることになった。
ORBIT Capitalは正式に投資審査を打ち切った。
最後の資金調達手段を失い、NEXUS LINKはついに持ちこたえられなくなった。
7
会社が破産手続きに入った日、私は東京オフィスで別の投資案件の資料を読んでいた。
アシスタントがノックをして入ってくる。
「佐倉さん、NEXUS LINKが今日、正式に破産手続きに入りました。それと、黒川さんが午後からずっと一階のロビーの外で待っています。アポイントもありませんし、帰っていただくよう伝えても動かないそうです。警備から、どう対応するか確認が来ています」
私は時刻を確認した。
「オフィスには入れないで。まだ帰らないようなら、私が退勤するときに数分だけ話します」
窓の外では、街に明かりがつき始めていた。
私は直人に会いたいわけではなかった。それでも、ずっとビルの入口に居座られるほうが周囲への迷惑になる。
下へ降りると、入口の外に何人か人が集まっていた。
直人は建物の前で膝をついていた。
以前はいつも完璧に整えていたスーツも皺だらけで、髪も乱れている。私の姿を見つけて立ち上がろうとしたが、長時間膝をついていたせいか、すぐによろめいた。
警備員が間に入る。
「佳奈、会社がなくなった。創業時の借入の一部は俺が個人保証してたから、銀行からも請求が来てる。豊洲のマンションの俺の持分も、これから手続きの対象になる。今になって分かったよ。今まで、どれだけ佳奈が会社を支えてくれてたのか」
「私の持分はあなたの保証債務とは別。必要なことは弁護士同士で処理するから」
直人の顔が歪んだ。
「本当にもう、何とも思わないのか? 五年間だぞ。何も残ってないのか?」
「残ってない」
長い沈黙のあと、彼はポケットから紙に包まれたものを取り出した。
中にあったのは、一度割れて修復された陶器のカップだった。
起業したばかりの頃、私たちが買った安いペアカップ。そのうち一つが引っ越しのときに割れ、私はとっくに捨てたものだと思っていた。
「あとで拾って、金継ぎしてもらったんだ。佳奈、俺たち、あんなに貧乏だった頃だって二人で乗り越えただろ。もう一度最初からやり直せたら、二度と同じことはしない」
私はカップに手を伸ばさなかった。
「直人。割れた器なら、金継ぎで直せるよ」
彼の目に一瞬、期待が戻る。
「じゃあ――」
「でも私は、もうそれを使いたくない」
直人は黙った。
私はカップを踏みつけたりもしなかった。
意味のない罵倒も必要なかった。
背を向けて歩き出すと、後ろから何度も名前を呼ぶ声が聞こえた。
それでも、一度も振り返らなかった。
8
その後、柚香の事件は正式に裁判へ進んだ。
捜査が進むにつれ、当初把握されていた以上の資金不正が判明した。架空の業務委託契約を使って会社から金を支払わせ、その一部を受け取っていた行為などが認定され、最終的に詐欺罪などで実刑判決を受けた。
判決の日、直人も裁判所へ来ていた。
退廷後、廊下で柚香が直人を呼び止めたことから口論になり、直人が感情的になって手を上げた。すぐに裁判所の職員と警備員に制止され、その後、傷害の疑いで警察から事情を聴かれることになった。
半月ほどして、アシスタントがその件を報告してきた。
「水野の判決が確定したそうです。黒川さんも裁判所で起こした件について警察の聴取を受けています。それから、個人資産の整理もまだ続いているようです」
私は投資資料から目を離さなかった。
「今後、その二人については報告しなくていいよ」
アシスタントはうなずき、資料を持って部屋を出た。
私も、それ以上聞かなかった。
さらにしばらくして、私は都内の業界団体が主催するディナーパーティーへ招待された。
会場は大手町のホテル。
会も後半に差しかかった頃、入口付近が急に騒がしくなった。
振り返ると、痩せた男がホテルのスタッフに止められていた。
直人だった。
着ている服はかなりくたびれ、髭も伸びている。私と目が合った瞬間、一歩前へ出ようとしたが、スタッフに阻まれた。
「佳奈、数分でいい。騒ぐつもりはない。話したいことがあるだけなんだ」
私は入口から数メートル離れた場所で立ち止まった。
「何?」
直人は唾を飲み込んだ。
「少し金を貸してくれ。会社の整理が終わっても、個人保証の債務が残った。それで資金を回すために闇金にまで手を出した。今は親が住んでる埼玉の家まで押しかけられてる。母親も体が悪いんだ。十万円でもいい。本当に、もう他に頼れるところがない」
私は彼を見ながら、あの雨の夜を思い出した。
痛くて歩けず、家か病院まで送ってほしいと頼んだ夜。
その話をわざわざ彼に聞かせる気にはならなかった。
もう必要なかった。
「貸さない。闇金や嫌がらせの件は、弁護士か警察に相談して」
「佳奈……」
「もう戻るから」
私は背を向けた。
スタッフがすぐに直人をホテルの外へ連れていった。
数分にも満たない出来事だった。
会場へ戻った私は再びグラスを手に取り、中断していた会話を続けた。
9
パーティーが終わる頃、外では冷たい風が吹いていた。
ホテルの前に一台の黒いレクサスが停まっている。
窓が下がり、運転席から一ノ瀬圭介が顔を出した。
「送っていこうか?」
私は笑いながら助手席のドアを開けた。
「どうしてここに?」
圭介はコンビニで買った温かい蜂蜜入りの飲み物を渡してくる。
「会場でちょっと面倒があったって聞いた。ちょうど近くにいたから。黒川さんがまた来るようなら、次からは弁護士に任せたほうがいい。必要なら会社で警備も手配できるし、一人で対応する必要はないから」
「耳が早いね」
「佳奈のことは、社内だと妙に広まるのが早いんだよ」
車は夜の東京を走り始めた。
半年前、私がボストンで治療を受けていた頃、圭介はORBITのアメリカと東京をまたぐ案件をいくつか担当していた。その時期、仕事面でかなり助けてもらった。
私が正式に入社してからは、同僚として働くうちに少しずつ距離が縮まり、いつしか友人になっていた。
赤坂付近まで来たところで、圭介が再び口を開く。
「黒川さんが今どうしてるかなんて、もう知らなくていいと思う。知れば知るほど、過去のために時間を使うことになるから」
「私も知りたくない」
圭介は少し笑った。
今住んでいるマンションの前に車が停まる。
私がシートベルトを外すと、圭介はすぐには前を向かなかった。
「佳奈」
こういう場面で彼が「佐倉さん」ではなく名前で呼んだのは、その日が初めてだった。
私は彼を見る。
圭介はハンドルに手を置いたまま、数秒黙っていた。
「今、恋愛のことを考えたくないのは分かってる。だから今すぐ答えなくていい。ただ、いつかもう一度誰かと付き合ってもいいと思える日が来たら、その候補に俺を入れてほしい」
思わず笑ってしまった。
「一ノ瀬さん、それって告白?」
「たぶん」
「じゃあ、今は断るね。今の私は仕事をもっとしたいし、もっと稼ぎたい。すぐ次の恋愛に進む気はないから」
彼は特に落ち込んだ顔もしなかった。
「了解。その目標なら全面的に応援する。俺も別に急いでないし」
私は車のドアを開けた。
「じゃあ、明日の朝会で」
「また明日」
エレベーターの扉が閉まる。
鏡のような扉に映った自分を見つめた。
五年間続いた私の生活は、その日、本当の意味で終わった。
10
三年後。
アジア太平洋地域のベンチャーキャピタル業界の年次カンファレンスが横浜で開催された。
クロージングパーティーは、大さん橋から出航するクルーズ船の上で行われる。
私はORBIT Capitalのパートナーとして最後の講演を終え、ステージを降りた。
人混みの少し外で、圭介が待っていた。
この三年間、私たちはいくつもの大型投資案件を一緒に手掛けた。ORBITの東京事業も大きく成長し、私は投資ディレクターからパートナーへ昇進した。
仕事以外でも、二人の関係は少しずつ変わっていった。
けれど、どちらかが無理に距離を縮めようとすることはなかった。
圭介がジャケットを差し出す。
「甲板は風が強いから着て。それと、ニューヨーク本社の連中がまた言ってたよ。来年、佳奈の担当案件を二つ増やせないかって」
私はジャケットを受け取った。
「先に予算を増やしてもらって。それから話を聞く」
圭介が吹き出した。
「佳奈らしい」
彼がシャンパンを一杯渡してくる。
私は軽くグラスを合わせた。
この三年間、忙しいときはそれぞれ仕事に集中し、時間が合えば一緒に食事をしたり、旅行へ出かけたりした。
翌月には二人で軽井沢へ数日休みに行く予定だった。
圭介が予約したレストランの話を始めたところで、アシスタントが少し慌てた様子でこちらへ来た。
「佐倉さん、警備から連絡です。スタッフ用の通路から船内に入ろうとした人がいて、ずっと佐倉さんの知り合いだと言っているそうです。本来ならそのまま警察へ引き渡すところなんですが、名前を聞いたので、一応確認をと思って」
私は彼女を見る。
「誰?」
一瞬ためらったあと、アシスタントが答えた。
「黒川直人です」
その名前を聞いて、数秒だけ動けなかった。
三年間、一度も聞いていない名前だった。
かつて自分の人生の中で、あれほど大きな場所を占めていた人だったことさえ、もう遠い記憶になりかけていた。
船の下層にある警備室へ行くと、一人の男が椅子に座っていた。
髪には白いものが増え、頬はこけている。着ている上着も体に合っていなかった。
三年前より、十歳以上老けて見えた。
私が入口に立つと、直人はゆっくり顔を上げた。
そして私だと分かった瞬間、勢いよく立ち上がろうとする。
すぐに警備員が肩を押さえた。
「佳奈……やっと会えた。俺、もう何もないんだ。仕事も見つからないし、親もその後亡くなった。この三年間、ずっと昔のことを考えてた。本当に分かったんだよ。俺が全部間違ってた。何でもするから、もう追い払わないでくれ」
私は数メートル離れた場所に立っていた。
「どうして船に入ろうとしたの?」
「佳奈に会いたかっただけだ。金も何もいらない。ただそばに置いてほしい。運転手でも、雑用でも、何でもする」
三年前に同じことを言われていたら、怒っていたかもしれない。
今はただ、知らない人を見ているような気分だった。
「直人」
彼がぴたりと黙った。
三年ぶりに、初めて名前で呼んだ。
「私たちは、もう何の関係もないよ」
直人の唇が震えた。
「でも、五年も一緒にいたじゃないか。佳奈、本当に全部忘れたのか?」
「忘れてない。練馬の古い部屋で暮らしてたことも、一緒に会社を始めたことも、雪の中を走って薬を探してくれたことも覚えてる」
直人の目に、わずかに光が戻った。
「だったら――」
「そのあとに起きたことも、全部覚えてる」
私は彼の言葉を遮った。
「覚えていることと、戻りたいと思うことは別だから」
警備室が静まり返った。
直人の肩から、少しずつ力が抜けていく。
私は警備責任者へ顔を向けた。
「後は規定どおりにお願いします。警察への引き渡しが必要なら、そのまま手続きを進めてください」
それだけ言って、私は部屋を出た。
甲板へ戻ると、横浜港の光が海面に揺れていた。
圭介は手すりのそばに立って待っていたが、何があったのか聞こうとはしなかった。
私が近づくと、静かに手を差し出した。
「終わった?」
私はその手を握る。
「うん。終わった」
クルーズ船がゆっくり岸を離れ、街の明かりが少しずつ遠ざかっていく。
ふと、何年も前の雨の夜を思い出した。
あの頃の私は、あと一度だけ我慢すれば、あと少し待てば、きっと人は昔の姿に戻ってくれると思っていた。
けれど、失われていくものは、いつも大きな音を立てるわけじゃない。
風が通り過ぎる。
痕跡は、少しずつ薄れていく。
人も同じだ。
私は遠くの海を見た。
「行こう。祝杯、まだなんでしょう?」
圭介が笑う。
「もちろん」
私たちは並んで、明るい宴会場へ歩いていった。
背後で扉が静かに閉まる。
過去は、その向こう側に置いてきた。




