第16話 正常範囲の損失
農業区の点検を終えた玲華がコア付属診療所へ戻った時、停電終了から5時間が過ぎていた。蘇った換気ファンが、焼けた絶縁材と消毒薬の臭いを廊下全体へ押し出している。銀眼の片隅では、神経過負荷の警告がまだ赤く点滅していた。
「担架をお持ちします」
「歩ける。検査をしながら、下層の復旧状況を見せて」
救助隊員は困った顔で、状態盤の前にいる黒鉄を見た。左腕には冷却布が巻かれ、現場指揮画面では復旧要員と未確認者の数が刻々と変わっている。
「先に緊急検査を受けろ」
黒鉄が言った。
「その後、現場指揮権は0時まで維持する」
玲華は今度は反論しなかった。農業区まで歩いた後、左側の視野で焦点の遅れがひどくなっていた。首の後ろの管理者端子を閉じると、先ほど奈々と見た機関通信が診療所の記録窓にも自動で添付された。
群体温度、正常範囲へ回復。活動量増加。損失率二・七パーセント。
セル大阪環境復元局から届いた受粉生態への返信だった。農業区担当の文書なら、玲華が開き直す理由はない。だが診療所画面の東京復旧曲線へ報告書が重なると、「活動量増加」という表現だけが妙に曖昧に見えた。
報告書には、環境復元局の連絡担当である山田由紀の認印がついていた。末尾には「東京の迅速な回復を願っています」という挨拶が添えられている。似た方舟で同じ夜を耐えた人間が送った文のように自然だった。玲華は疑義項目を作らず、農業区が求めた女王の状態と孵化率の原本だけを待機一覧へ入れた。
簡易診療台へ座ると、医療員が生身の右の瞳孔と銀眼を交互に照らした。
「神経反応の遅延、0.6秒。最低6時間は接続禁止です」
「3時間」
「6時間です」
黒鉄が代わりに答えた。玲華は睨んだが、彼の視線はもう都市状態盤へ戻っている。上層の空調と医療電力は緑に戻り、中層も急速に安定しつつあった。下層だけが広い橙色の塊として残っている。復旧要員の投入表示は分刻みで増えていた。
「死者の集計は?」
「確定中だ」
黒鉄が答えた。
「崩落区画より、通信が途絶えた区画のほうが多い」
「未確認者を含めた名簿を送って」
「未確定の数字を公開すれば、家族が封鎖区画へ押し寄せる」
「公開しろとは言ってない。私が確認するの」
黒鉄はそれ以上反対せず、玲華の現場端末へ暫定名簿を送った。名前の横には死亡、負傷、未確認のほか、「行政転出」という灰色の分類が混じっている。災害の最中にどこへ転出したのか。玲華が訊こうとした時、昇降機の到着音が先に鳴った。
玲華は医療員が貼った神経安定パッチを剥がさないまま立ち上がった。都市の明かりが戻っただけでは、勝利は完成しない。まだ点灯していない区画に誰が残されたのか、その数を確かめるまでは。
昇降機の扉が開き、暖かい上層の空気が流れ出した。玲華は上へ向かう籠を通り過ぎ、下降専用の籠へ乗る。
「下層へ行く。蘇った都市が、誰の上に立っているのか確かめる」
下降するほど、昇降機の壁の振動が荒くなった。再稼働した構造バッテリーが、階層ごとに違う拍子で鳴っている。上層ではほとんど感じなかった震えが、下層へ近づくにつれて足の裏を痺れさせた。
扉が開いた先は、第42復旧区だった。天井灯は半分しか生きておらず、残りは橙色の非常表示を吐きながら明滅している。数百人の労働者が、浸水した電力溝からケーブルを引き出していた。濡れた作業服の背には、臨時交代番号が白く塗られている。
玲華は最寄りの監督官から、奪うように端末を受け取った。
「一人につき何時間?」
「停電前の交代を合わせれば14時間です。ただ、今抜けさせると冷却水がまた溜まります」
隣で風間美緒が濡れた手袋を外した。構造バッテリーの現場責任者である彼女の顔は、埃で灰色だった。
「第3ポンプが戻るまでです。4時間後には半数を帰せます」
黒鉄が訊いた。
「それより前に止めたら?」
美緒は感情を交えず、順番を述べた。
「農業区の低温庫が先に落ちます。次が下層の酸素再生機。医療区は独立電源があるので、さらに6時間もちます」
黒鉄は即座に追加交代を承認した。命令書の責任者欄へ自分の名を入れ、現場端末を監督官へ返す。誰も歓声を上げなかった。労働者は数字を確かめ、また腰を折った。
玲華は水へ膝を浸し、ケーブルを運ぶ女に近づいた。水に長く浸かった指先は白くふやけている。
「交代終了まで、あとどれくらいですか?」
「終了なんて、あるんですか?」
女は笑いもせず問い返した。監督官が慌てて頭を下げさせようとしたが、玲華が止める。女の手首端末には、残るエネルギー寄与義務が表示されていた。停電復旧の特別加算がつき、働くほど数字が減るはずなのに、飲料水と暖房の使用料も同時に上がり、ほとんど動いていない。
「臨時措置だ」
黒鉄が後ろから言った。
「復旧が終われば、加算債務は取り消す」
女に聞こえたかはわからなかった。水中で警告音が鳴ると、すぐに身体を返した。玲華も一緒に取っ手を引く。太いケーブルが溝から上がると、ポンプの音が一段低くなった。
上層からの最初の支援班が、その時到着した。清潔な防護服と新品の手袋を着けていたが、足場への乗り方からわからない。一人の男が滑って水へ落ちると、下層労働者が罵声を呑み込みながら引き上げた。監督官は熟練者二人を作業から外し、支援班の安全教育につける。人数は増えたのに、実際に動く手はむしろ減った。
「同じ市民を同じ場所へ立たせても、すぐ同じ負担になるわけではないか」
黒鉄が言った。
「それでも降りてこさせるべきよ。知らずに享受するのと、見た上で選ぶのは違う」
黒鉄は濡れた袖をまくる玲華を、しばらく見た。
「見たからといって、選択権が生まれるわけでもない」
状態盤の下層電力率が、三十一パーセントから三十三パーセントへ跳ねた。数字は嘘をつかないように見えた。だがその数字が、誰の14時間を食べて動いたのかは表示しない。
玲華は濡れた手を振った。今はポンプを生かすのが先だった。不平等は復旧後に直せると、まだ信じていた。
臨時診療所は、閉鎖された通勤用ホームに設けられていた。列車が走っていた場所には折り畳み寝台が四列に並び、ホーム案内板は到着時刻の代わりに患者数を表示している。重傷十七、意識低下四十二、歩行可能百三十余名。
玲華は崩落事故の患者から探した。だが骨折や火傷を負った者より、自力で歩けない労働者のほうがはるかに多い。外傷のない者たちが手を震わせ、話している途中で呼吸を忘れたように口を開いた。
医療員が一人の男の首へ診断パッドを貼った。
「低血糖、低体温、末梢神経反応不安定」
「感電ですか?」
「痕跡はありません。長時間労働と脱水に分類しました」
男は答えようとしたが、舌がうまく動かない。作業服の胸にある寄与表示は緑だった。玲華が手首端末を近づけると、「交代義務達成」の文字が鮮明に浮かんだ。
「この状態で、正常判定?」
「寄与判定は医療システムではありません」
医療員が疲れた声で言った。
「作業場への出入りと割当量だけを見ます」
玲華は受付記録を時系列に開いた。患者は別々の作業場から来ていたが、症状が始まった時刻は交代終了直後へ集中している。停電前から同じ症状で二度、三度と診察を受けた者もいた。過去の診療欄には原因ではなく、「回復後復帰」の印だけが繰り返されていた。
「精密検査はしなかったんですか?」
「中層病院の承認項目です。意識が戻って歩ければ、先に復帰させました」
医療員は酸素ボンベの目盛りを見ながら続けた。
「寝台がいつも足りなかったから」
玲華は彼を責められなかった。次の通路からは新しい患者が運び込まれている。誰を寝かせるか決める者も、結局は不足した数の中から選ぶしかない。
次の寝台には、十六歳ほどの少年が横たわっていた。法定交代年齢をようやく越えたばかりの顔だった。母親は寝台の下で作業靴を脱がせながら、同じことを繰り返す。子供は停電前にもう二交代を終えていた。復旧呼び出しを拒めば暖房配給を切られる、と。
玲華は呼び出し命令の発信元を確認した。自動復旧配置網。責任者の名はなく、都市安定率が基準を下回った時、下層の稼働可能人員を順次招集するという規則だけがあった。
「この規則を停止して」
同行していた警備員がためらった。
「現場指揮権で変更できるのは、招集の優先順位だけです。停止には構造バッテリー責任者と行政責任者、両方の承認が必要です」
玲華は黒鉄へ通信を入れかけ、手を止めた。先ほど美緒が述べた故障順序が浮かんだ。農業区の低温庫、酸素再生機、医療区。招集を止めれば、このホームの酸素も長くはもたない。
彼女は少年の作業番号を最後尾へ送り、同年代の全員を一時除外一覧へ入れた。完全な停止ではない。順番を変えただけだった。画面はすぐ、新たな成人労働者の名前で空席を埋めた。
除外された少年の母親が、礼を言おうとした。玲華はその言葉を受け取れず、顔を背けた。少年の穴は、見えない誰かが代わりに埋めた。一人を救う選択が、別の名前へ費用を移した。その事実が喉につかえた。
ホームの端から、また一人運ばれてきた。外傷のない患者だった。医療員は問診もせず、診断項目を押した。
「過労と推定」
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