第3回 逆襲のリーガル・バトル
六法全書は、鈍器として使うには少々重すぎるし、盾として使うには面積が足りない。だが、その中身を頭に叩き込めば、聖剣エクスカリバーをも凌駕する最強の「搦め手」になる。
保釈中の俺は、伊波弁護士の事務所――雑居ビルの隅にある、カビ臭い書類の山に埋もれた「修行場」にいた。
「いいですか、佐藤さん。現代日本において、剣を振るうのは野蛮人のすることです。知性ある人間は、相手の『不法行為』を突いて、その銀行口座と社会的地位をダイレクトに攻撃します。それが真の魔法です」
死んだ魚の目をギラつかせた伊波が、百均の指示棒で黒板を叩く。そこには魔法の陣形ではなく、複雑怪奇な『労働基準法』と『刑法』の相関図が描かれていた。
「まず、あのギルドが提供している『ポーション』。あれは何ですか?」
「……飲めば傷が治る、怪しい緑色の液体です。一本五千円で買わされました」
「はい、アウト。医師の免許なく治療効果を謳って液体を販売するのは、薬機法違反、および医師法違反の疑いが極めて濃厚です。さらに、成分表がない。これは食品衛生法にも抵触しますね」
伊波は楽しそうに、書類の山にチェックを入れていく。
「次に、あなたの働き方。ギルドは『業務委託』だと言い張るでしょうが、実態は指示命令系統が明確な『労働』です。深夜の地下通路での作業、危険手当の未払い、そして何より、社会保険への未加入。これは労働基準監督署が泣いて喜ぶ案件ですよ」
俺は、これまで「勇者」だの「スキル」だのといった甘い言葉に踊らされていた自分を呪った。
モンスターを倒すのに必要なのは、レベル上げじゃない。コンプライアンスの遵守だ。
修行開始から一週間。ついに「刺客」がやってきた。
深夜、事務所からの帰り道。道玄坂の薄暗い路地裏で、俺の前に一人の男が立ち塞がった。
かつてギルドで「期待の新人」として紹介されていた、ランクDの冒険者、タクヤだ。背中には、明らかに銃刀法に触れる巨大なバトルアックスを背負っている。
「よう、佐藤さん。いや、前科者の『放火魔さん』って呼んだ方がいいか?」
タクヤは下卑た笑いを浮かべ、斧の柄を鳴らした。
「ギルドマスターからの伝言だ。『余計な真似をして組織に迷惑をかける奴は、モンスターと一緒に廃棄処分しろ』ってよ。悪いな、これもクエストなんだ」
普通なら、ここで俺も隠し持ったダガーを抜くところだろう。
だが、今の俺は違う。
俺はゆっくりとスマホを取り出し、録音ボタンを押し、胸ポケットのクリップに固定した。
「タクヤ君。まず確認したいんだが、その斧。この場所で剥き出しにして持ち歩く正当な理由はあるのかな?」
「はあ? 殺し合いに理由が必要かよ!」
「あるよ。銃砲刀剣類所持等取締法、第二十二条だ。業務、あるいは正当な理由なく刃物を所持することは禁止されている。君のそれは『業務』だと言いたいんだろうが、そもそもあのギルドは公安委員会に武器所持の届け出を出していない。つまり、君は今この瞬間、現行犯で逮捕可能な状態だ」
タクヤの眉がぴくりと動く。
「……うるせえよ。警察が来る前に、お前をバラバラにすれば済む話だ!」
タクヤが斧を振り上げた。
巨大な刃が俺の頭上に迫る。
俺は避けない。代わりに、左手に隠し持っていた「防犯ブザー」のピンを引き抜いた。
ビィィィィィィィィィ!
静寂の路地裏に、鼓膜を劈くような高音が響き渡る。
同時に、俺は右手に持っていた「六法全書(ポータブル版)」を盾のように構えた。
「おい、何だその音は! やめろ!」
「やめないね。タクヤ君、よく聞け。今この状況は、君による『一方的な暴行』の開始だ。俺は今、身を守るために防犯ブザーを鳴らし、周囲に助けを求めている。この音で、近隣住民が最低でも五人は窓を開けるだろう。そして俺の胸元では、君の殺害予告がバッチリ録音されている。ここで俺を一傷でもつけてみろ。君の人生は『殺人未遂』で確定だ。執行猶予なしの実刑コースだぞ」
タクヤの手が止まった。
法律という名のデバフ魔法が、彼の脳内にダイレクトアタックを仕掛けている。
「……脅してんのか? 俺にはギルドのバックアップがあるんだ!」
「そのギルドは、俺が逮捕された時に何て言った? 『自己責任』だ。君がここで俺を殺しても、彼らは全力で君を見捨てる。君は一人で刑務所に入り、何千万円もの賠償金を一生かけて払うことになる。それでもいいなら、その斧を振り下ろせ。……さあ、どうする?」
タクヤの顔から血の気が引いていく。
彼は冒険者だった。暴力には慣れているが、「法的な責任」という概念には、スライムの核を突かれるよりも弱かった。
「……クソが! お前、マジで性格変わったな!」
タクヤは斧を収めると、吐き捨てるようにして闇に消えていった。
俺は震える手でブザーを止め、深く息を吐いた。
勝った。
一滴の血も流さず、魔力の一滴も使わずに、ランクDの冒険者を退けた。
「素晴らしい。正当防衛の要件を完璧に満たしつつ、相手の戦意をリーガル・プレッシャーで削ぎ落としましたね」
影から伊波弁護士が拍手をしながら現れた。彼は手に、ビデオカメラを持っていた。予備の証拠までバッチリだ。
「佐藤さん、準備は整いました。守りのターンは終わりです。明日、我々はギルド本部に乗り込みます」
翌日。渋谷のスクランブル交差点を見下ろす、あのギルドのオフィス。
俺は、保釈中の身には不釣り合いなほどピシッとした(といっても伊波から借りた型崩れした)スーツを着て、扉を蹴破……らずに、インターホンを静かに鳴らした。
「はい、シブヤ・クエストセンターです。……あら、カイト様? 先日のご提案を考えてくださったのかしら?」
受付嬢が、あの不気味な笑みで俺を迎える。
俺は何も言わず、カバンから一束の書類を取り出し、カウンターに叩きつけた。
「これは……?」
「民事訴訟の訴状、および労働基準監督署への告発状、それと医師法違反、火薬類取締法違反の疑いに関する通知書だ」
受付嬢の笑顔が、わずかに凍りつく。
「カイト様、これは何かの冗談……」
「冗談じゃない。君たちが『自己責任』という言葉で隠してきた数々の不法行為を、すべて白日の下に晒させてもらう。俺は前科者だ。もう失うものはない。だが君たちは違う。この街で『公認ギルド』の顔をして商売を続けたいなら、俺という『無敵の人』を相手にするコストがどれだけ高いか、思い知らせてやる」
奥の扉から、ギルドマスターらしき、恰幅のいい鎧姿の男が出てきた。
「佐藤、お前……! 刺客を返り討ちにしたと思えば、こんな姑息な真似を……! ここは冒険者の聖域だ。日本の法律など……」
「聖域? 不動産登記簿によれば、ここは『店舗付事務所』だ。賃貸契約書には公序良俗に反する行為の禁止条項がある。大家にこの状況を伝えたら、即刻立ち退きだろうな」
俺の言葉に、ギルドマスターが奥歯を噛み締める。
かつて俺が憧れた「力」の象徴が、ただの「書類不備の塊」に見えた。
「佐藤さん、追い込みの仕上げです」
伊波が背後から一通の封筒を差し出す。
「マスター、あなた方に朗報です。警察庁と法務省が、最近の渋谷の混乱を見て『異界犯罪対策室』の設置を決定しました。そのアドバイザーとして、実際にギルドの被害に遭い、かつその法的欠陥を指摘した唯一の民間人――佐藤カイトさんが内定しています。今、この建物の下には、あなたの『聖域』にガサ入れを入れるための令状を持った連中が、信号待ちをしていますよ」
ギルドマスターの顔が、真っ青を通り越して土気色になった。
彼は振り返り、オフィスのさらに奥にある、不気味に発光する「重厚な扉」を指差した。
「……ふん、勝ったと思うなよ。この扉の先は、我々が発見した未踏のダンジョンだ。そこは重力も、物理法則も、ましてや日本の法律など一ミリも届かない『真の治外法権』。我々はそこで再起する!」
そう叫ぶと、ギルドマスターと受付嬢は、吸い込まれるように光の扉の向こうへと消えていった。
残されたのは、もぬけの殻になったオフィスと、大量の不法所持品の山。
俺は、その扉を見つめた。
法律が届かない場所。
それがあるからこそ、あいつらはやりたい放題をやっていたのだ。
「伊波さん。あの中に行けば、俺の前科、消せますかね?」
「法的には不可能ですが、あの中で行われている犯罪を現行犯で押さえれば、情状酌量、あるいは『国家功労者』としての特赦の道が見えるかもしれません」
俺は、ボロボロになった六法全書をカバンに仕舞い、代わりに伊波から渡された「法務省認定・特別執行官」の腕章を巻いた。
剣でも魔法でもない。
正義を執行するための「秩序」を手に、俺は光の扉へと足を踏み入れた。
渋谷の地下、法律が死んだその場所で。
前科一犯の俺が、真の「英雄」になれるかどうか、試してやろうじゃないか。




