第2回 社会的死、ギルドの闇
警察署の留置場、いわゆる「豚箱」の朝は早い。
ガチャンという無機質な音と共に差し入れられるのは、プラスチックの容器に入った冷めた飯。昨日の今頃は、渋谷のオシャレなカフェ風ギルドで「選ばれし勇者」としてチヤホヤされていたというのに、今の俺は、醤油の小袋をどっちから切るべきか真剣に悩んでいるただの容疑者だ。
自由を奪われるというのは、単に壁に囲まれることじゃない。
自分の人生のハンドルを、自分以外の、それも極めて事務的で冷淡な連中に握られることだと思い知った。
「佐藤カイト、接見だ。弁護士さんが来てるぞ」
看守に促され、俺はアクリル板越しに対面した。
現れたのは、安物のスーツをヨレヨレに着こなし、今すぐ栄養ドリンクを十本くらい一気飲みさせてやりたくなるような、死んだ魚の目をした中年男性だった。
「……国選弁護人の伊波です。佐藤さん、あなたの状況は、まあ、一言で言うと『最悪』ですね。これ、差し入れの週刊誌と、ネットの反応をまとめた資料です。読むと死にたくなるからお勧めはしませんが、現実を知るために目を通してください」
差し出されたコピーには、見るも無惨な文字が踊っていた。
『【悲報】渋谷駅テロ未遂の犯人、重度のファンタジー脳だった』
『無職(22)が「魔法」と称して火炎瓶もどきを投擲。異世界転生失敗か』
『冒険者ギルド「シブヤ支部」、関与を全面否定。「勝手に備品を持ち出した過激派の暴走」と発表』
血の気が引くのが分かった。
過激派? 暴走?
俺はただ、あの受付嬢に言われた通りに……。
「伊波さん、ギルドがそう言ってるんですか? 俺はちゃんと登録して、依頼書ももらって……!」
「ああ、その『依頼書』ね。警察が押収したあなたのスマホを調べたそうですが、専用アプリのデータは遠隔操作ですべて削除されていました。バックアップもなし。現在、あのギルドは『ただのコワーキングスペース』として営業を続けています。彼らは法務のプロですよ。利用規約、読みましたか?」
「いえ、三秒でスクロールしてチェックを……」
伊波弁護士は、深いため息をついた。その吐息には、蓄積された疲労と、世の中の愚かさに対する諦念が混じっていた。
「あの規約にはね、こう書いてあるんですよ。『本サービスはエンターテインメント目的であり、現実の法を優先する。利用者が武器を手に外に出た時点で、それは個人的な趣味、あるいは犯罪行為であり、当社は一切の責任を負わない』と」
「そんな……じゃあ、あのスライムはどうなるんですか! あれは確かにそこにいて、俺を攻撃してきたんだ!」
「法律の話をしましょう、佐藤さん」
伊波弁護士は、アクリル板を指先でトントンと叩いた。
「この国に『モンスター』という法的定義は存在しません。あれは法的には『所有者の判明しない動産』か、あるいは『有害な外来生物』、最悪の場合は『産業廃棄物』です。あなたは公道でゴミを焼いて、その勢いで駅の施設を壊した。正当防衛を主張しても、相手が『人』でも『野生動物』でもない以上、緊急避難の成立は極めて難しい」
「ゴミを焼いて、駅を壊した……」
「そうです。検察は、SNSでの炎上と社会的影響の大きさを重く見て、あなたを『見せしめ』として起訴する方針です。略式起訴で罰金刑という線もありましたが、これだけ騒がれると、公判請求……つまり、裁判所に行って有罪判決をもらうコースが濃厚ですね」
俺は頭を抱えた。
勇者どころか、ただの「迷惑な放火魔」として裁判所に引きずり出されるのか。
その時、ふと伊波弁護士が奇妙なことを口にした。
「……不思議なのは、スライムの死骸、つまりあなたが焼いた後の『残骸』の行方です。警察が現場検証した時には、跡形もなくなっていた。通常、あれだけの爆発があれば焦げ跡や成分が残るはずなのに、綺麗さっぱり。清掃業者が入る前に、何者かが持ち去った形跡がある」
「何者かが?」
「ええ。噂ではね、あのスライムの成分は、最新の美容液や半導体の洗浄液として、闇市場で高値で取引されているらしい。ギルドは、あなたのような無知な若者に『前科』というリスクをすべて背負わせ、裏で高価な素材だけをノーリスクで回収している……。これはあくまで私の推測ですがね」
ギルドの本当の目的。
それは世界の平和でも、冒険者の育成でもない。
法の穴を突いた「究極の搾取システム」だ。
若者に魔法のスクロール(爆発物)を持たせてモンスターを処理させ、事件が起きたらトカゲの尻尾切り。残った素材を裏ルートで売り捌く。
数日後、俺は一時的に釈放された。保釈金は、田舎の両親が泣きながら工面してくれた、俺の大学資金の残りだった。
警察署の玄関を出ると、眩しいほどの太陽が降り注いでいた。
しかし、俺のスマホは、警察から返却された瞬間から狂ったように震え続けている。
『お前の住所特定したわ。親の職場もな』
『犯罪者のくせにシャバに出てくんな』
『勇者ごっこ楽しかった?(笑)』
友人グループのチャットからは退会させられ、SNSのDMには殺害予告が並んでいる。
大学の就職課からは「今後の推薦はすべて取り消します」という事務的なメールが一通。
たった一回の「冒険」で、俺の二十二年間は、スライムのように跡形もなく溶けて消えていた。
渋谷のスクランブル交差点を通りかかると、あのギルドの入ったビルが見えた。
看板は今日も誇らしげに輝いている。
そして、その入り口には、かつての俺と同じように、目を輝かせた若者が数人、吸い込まれていくのが見えた。
「おい、待て……! そこに行っちゃダメだ!」
叫ぼうとしたが、声が出なかった。
今、ここで叫べば、また「不審者」として通報される。
前科がつく。
その恐怖が、俺の喉を物理的に締め上げた。
その時、俺の背後に、一台の黒塗りの高級車が止まった。
後部座席の窓がゆっくりと開き、中から見覚えのある顔が覗いた。
ギルドの受付嬢だ。
彼女は、あの時と同じ、完璧な営業スマイルで俺を見た。
「あら、カイト様。先日はお疲れ様でした。釈放、おめでとうございます」
「……お前、よくそんな顔して俺の前に……!」
「誤解しないでください。私共も、カイト様のことは非常に残念に思っているんです。才能があったのに、日本の法律が追いついていないばかりに」
彼女は窓越しに、一枚の新しい名刺を差し出してきた。
そこには『シブヤ・リスク・マネジメント:特別清掃員採用担当』と書かれていた。
「前科一犯。もう、まともな企業には就職できませんよね? 家賃も払えない、ネットでは一生叩かれ続ける。そんなあなたに、唯一残された道は……法が及ばない『あちら側』で働くことだと思いませんか?」
「あちら側?」
「ええ。今度は『依頼書』なんてチャチなものは使いません。警察に捕まらないための技術と、モンスターを効率的に素材化するノウハウを教えましょう。前科者だからこそできる、本当の『冒険』です」
彼女の瞳の奥に、得体の知れない暗黒が広がっているのが見えた。
ギルドの闇は、俺を前科者にしただけでは満足しなかったのだ。
社会的に死なせた上で、その死体をさらに自分たちの都合のいい道具として利用する。
これが、現代日本における「勇者」の末路か。
俺は名刺を受け取らなかった。
だが、その指は、恐怖と、それ以上にやり場のない怒りで震えていた。
「断る。……俺は、あんたたちを、別のやり方で潰してやる」
「あら、心強いこと。ですが、まずは今月末に裁判所から届く『判決文』をよく読んでからおっしゃってくださいね」
車は静かに走り去っていった。
渋谷の雑踏の中で、俺は一人、手に持った六法全書のコピーを握り締めた。
ページはボロボロに破れ、涙で文字が滲んでいる。
剣は折れた。
魔法は奪われた。
地位も名誉も、未来さえもない。
だが、俺の胸の中には、これまで一度も感じたことのない、どす黒い「情報の匂い」が漂っていた。
それは、法という名の巨大な迷宮を攻略するための、血生臭いヒントだった。
俺の戦いは、ここから始まる。
異世界の魔王を倒すためではなく、このクソみたいな現実の法律という魔物を、正面からぶち殺すために。
ふと、スマホが鳴った。
唯一ブロックされていなかった連絡先。
さっきの死んだ魚の目をした弁護士、伊波からだった。
『佐藤さん、面白いことが分かりました。あのギルド、実は「社会保険」に入ってません。これ、攻められますよ』
俺の顔に、今日初めての、そして最高に邪悪な笑みが浮かんだ。
法律。それは勇者にとっては最強の呪いだが、悪魔にとっては最高の武器になる。
前科一犯、佐藤カイト。
俺の「リーガル・アドベンチャー」の、これが本当のプロローグだ。




