犬猿だけの仲
1
太陽が仕事のやる気を削ぐほどの日差しを向けてきた朝。203号室からは沖田、204号室からは坂城が、それぞれアパートのドアを開け外へ一歩踏み出した。二人とも太陽が逃げ出すほどの熱気を放っていた。
行ってくる、じゃあな、と二人が妻へ向かって挨拶をし、ドアを完全に閉めたところでお互いの存在に気づいた。二人とも 「 朝からこれかよ 」 という表情に変わる。仕方なく、どうも、と最低限の挨拶を交わし、もうたくさんとばかりに急いで階段を下り早足でアパートを出た。
「 ごめんなさいね、ウチの主人たら今日はあの日ですから 」 沖田の妻がアパートの廊下で夫を見送りつつ、隣で同じく夫を見送っていた坂城の妻に言った。
「 それはお互い様ですわ。ウチもなかなか強情っ張りでねえ 」 と坂城の妻が手を横に振る。
夏のような秋の朝に、二人の主婦の笑い声が広がった。
2
(くそ、朝からあのオヤジと鉢合わせとは、胸くそ悪い)
沖田は電車で坂城のことを罵っていた。今日は全てが決する日だから、意識するのは仕方のないことだった。
(まあいい。家に帰る頃にはこんな苛立ちなんて忘れるだろう。今晩は酒だ、酒。にしてもあのオヤジ、シャツの中にユニフォーム着てやがったな。シマシマ模様が透けてたし。あんな恰好が許される職場なんてどうせロクでもないところなんだろう。そうだ、あんな奴に限って勝ち試合の時に酔っ払って、公共物を壊したとかテレビで報道されるんだ)
念仏のように坂城の悪口を唱えていた沖田は、目的地の駅のドアが閉まるのに気づき、慌てて飛び降りた。くそ、あのオヤジのせいで危なかった。
一方、坂城もバスの手すりに掴まりながら沖田のことを呪っていた。
(あん野郎、なんも同い時間に出てくるこたねえやろうが。嫌がらせにもほどがあるっちゅうもんやろ。調子に乗んなや、五分になっちゅうからってそっちは勢いだけじゃろが。総合力でみとうたら、こっちが上に違いないんや。あーやめやめ。どうせあっちは最後の足掻きって奴や。話題だらけの軟弱集団にこっちが負けるわけない。あ、帰ったら家で宴会やな)
もうそろそろか、と坂城は体内時計を頼りに席に座っているサラリーマンに降車ボタンを押すよう頼んだ。バスが止まったが、そこは坂城が降りる停留所ではなかった。降りないんですか、とボタンを押したサラリーマンがいぶかしむ眼差しを向けてくる。すんません、ちょと間違えましたわ、と苦笑いをするしかなかった。くそ、あん野郎のせいで恥かいてしもうた。
この二人の仲が悪いことには理由がある。単純な理由だ。
沖田は読切タイタンス、坂城は万神ジャガースの熱烈なファンだった。
読切タイタンスは本拠地を都に置くプロ野球チームで、現在はツェ・リーグの二位であった。スターチームと言われるだけあり、毎年ペナントレースでは上位に食い込む。が、逆に成績が低迷すると、恐ろしいほどのパッシングを食らう。野球に関心のない人でも同情してしまうほど厳しい意見が噴出する。それは選手個人にも言えることで、たった一回の失策でレギュラー交代ということも珍しくなかった。いい意味でも悪い意味でも競争が激しい球団だ。沖田自身は 「 熾烈な争いがあるからこそ、あのような強い野球ができるのだ 」 とタイタンスを否定する友人に弁舌することがたびたびあった。
万神ジャガースは、現在ツェ・リーグ首位を走っているプロ野球チームで、本拠地は太阪にある。タイタンスほどの派手さはないが、チームの気迫は他の追随を許さない。また、一か八かの博打をするようなプレースタイルは多くのファンを獲得している。ただそれ故に、チームの好不調の波が激しいという面もあった。坂城の言葉に置き換えれば 「 人生と一緒 」 ということになる。数年前、圧倒的最下位でシーズンを終わった時も 「 負けて強うなるっちゅうもん。これで来年が楽しみになったで 」 と坂城は言った。彼自身、負け惜しみを言ったつもりはさらさらなかった。心底来年が楽しみだった。
この二チームがお互いにライバル意識を持っていることは世間の知るところだった。他チームには負けてもコイツだけは、と鼻息を荒くするようになったのはいつ頃なのかはっきりしない。ただ気づいた時にはそういう関係になっていた。
沖田と坂城に関しては、初めて会ったときから敵意を剥き出しにしていた。二人とも読切対万神の試合に行こうとそれぞれ部屋の外に足を踏み出した瞬間、お隣のドアが開いた。相手の服装を見た。沖田は黄をベースカラーにしたタイタンスのユニフォームを、坂城はシマシマのストライドが入ったジャガースのユニフォームを羽織っていた。お互いの眼差しが冷たいものだったことがさらに二人の関係を悪化させた。コイツとは分かり合えないな、と二人は本能的に察知したのである。
最近はタイタンスもジャガースも成績が落ち込み二人の間も休戦状態であったが、今シーズンは久しぶりに火花を散らすことになった。現在ツェ・リーグ首位がジャガース、二位がタイタンスであり、今日の直接対決に勝利したチームがリーグ優勝となる。沖田や坂城にとっては仕事など二の次で、今日が一年の終わり、つまりは大晦日気分だった。
3
沖田はたまらず携帯電話を手に取り、インターネットへと繋いだ。無論、タイタンスである。仕事を真面目にやり始めて一時間が過ぎたが、やはりタイタンスが頭から離れない。
専門の情報サイトへ接続すると、寒気のするヘッドラインが目についた。見なきゃ良かった、と後悔した。
タイタンスの選手に不倫疑惑が掛かっていた。しかも主力級のプレイヤーで、世間にもある程度名前が通っている。沖田は怒りを売りつけるようにデスクを蹴りつけ、隣の女性社員がその怒りを買った。
タイタンスは 「 野球少年達の憧れの球団 」 という位置づけが強い。そのためこの手の問題には敏感だった。記事を見ても、今日の試合に出場できるかは微妙、と書かれてあった。
(まいったなあ) 沖田は女性社員のお叱りを受けながら腹の内で舌打ちをした。 (数少ない左バッターなのに。別にいなくても戦えないってわけじゃないが、でも痛いよなあ。ただ今日は特別な試合だからな。もしかしたら、球団側が批判覚悟で大目に見て出場というのもあり得るか)
沖田がぶつぶつとなにかを呟きだしたので女性社員は気味悪くなり、その場を離れた。
(堪忍してくれや)
坂城が両手を頭の後ろで組み、椅子の背もたれに思い切り体重をかけた。おかげで椅子ごと床へ転げ落ち、周りの冷ややかな視線の的になった。
(こんなんなしや)
腰をさすりながら机へと手を伸ばし、パソコンの画面を凝視した。ジャガースの選手の乗った私用車が後ろから追突されたというニュースだった。記事を読むかぎりでは選手側に非はなさそうであったが、怪我をしているかどうかが気になった。ピッチャーだからなおさらだった。
(肩とか大丈夫やろな。くそ、ウチの選手になんてことしてくれたんじゃあ、このボンクラドライバーがあ! 慰謝料払えや、コラァ!)
坂城はすっかりジャガースの監督気分で、目の前にいる空想の運転手に罵詈雑言を吹っかけた。どうかしましたか、と部下が心配そうな顔で坂城に近づいていく。
「 さっさと金出せや、コラァ! 」
坂城が部下の襟を掴んだ。とばっちりの部下の顔が半泣きになった。
4
沖田と坂城の両妻は、それぞれの部屋で歌を口ずさみながら夕食の準備を始めていた。今日は年に一度の大盤振る舞いである。下手をしたら年末年始のご馳走よりも豪華になるだろう。
手際よく炊事をこなしていると、開け放したベランダから隣が作った料理の匂いが侵入してくるのがわかった。どうやらあっちも今晩はどんちゃん騒ぎをするつもりらしい。両妻はそれを想像し、顔をしかめた。
5
観客が女優のノーバウンド投球に驚きの声を上げている間も、沖田はタイタンスのベンチを観察していた。不倫疑惑の選手は特に後ろめたさを見せることもなく、周りと一緒に拍手をしていた。どうやらあの様子だと今日は問題なく出れるのだろう、と沖田は安堵する。
坂城も今朝事故に巻き込まれていた投手がマウンドに向かうのを見て、胸を撫で下ろした。体を気遣って、二番手もしくは三番手で出てくる事を坂城は予想していたのだが、その心配も杞憂だったようだ。いつものように腕が振れている。万全だ。
「 一番、ショート…… 」
バッターがボックスにゆっくりと収まり、審判が開始のジェスチャーをした。沖田と坂城の握り拳に力が入った。一年の総決算が始まる。
6
試合は振れ幅の大きいシーソーゲームとなった。
序盤はタイタンスファンがお祭り騒ぎになった。
まず初回に四点をあげた。フォアボールや犠牲フライなどスカッとする点の入り方ではなかったが、主導権を握ったのは明らかだった。今日の試合に限って言えば内容はどうでもよく、結果が全てである。選手もそれをわかっているのだろう、最低限の役割を果たすプレーを心がけているように沖田には見えた。
ジャガースのほうはある程度ランナーは出すものの、ここぞという場面で凡打をするばかりで得点できずにいた。この状態のまま四回まで進んだ。
(決まりだな)
沖田はたこ焼きをつまみながら余裕の表情を作っていた。
(あっちは完全に焦ってやがる。点を取らないと、って力みすぎだぜ。しかし、もうちょっと好ゲームになっても良かったんだけどな)
沖田は相手に少し物足りなさを感じながらも、三振したタイタンスのバッターに、なにやってんだよ、とハッパをかけた。
回は進んで六回。タイタンスファンの笑みはジャガースファンへと乗り移った。
先頭バッターにフォアボールを与えたのが始まりだった。タイタンスのピッチャーが突如崩れ始めたのだ。ジャガースはそこから連続ヒットやホームランなどで沖田の感じていたジャガーズの物足りなさを容赦なく打ち砕き、大量八点をもぎ取ったのである。一気に逆転し、これで八対四。ジャガースの四点リードに変わった。
これでジャガースファンの空元気から 「 空 」 が取れた。声援の勢いもジャガースファンが上回っている。球場から帰りかけていた坂城も最後まで見届けようと腰をすえた。
(よっしゃ、信じてたで。こっちは逆境にはめっぽう強いんや。楽な試合展開でしか勝てんようなチームに負けるわけあるかい)
もんじゃ焼きを口にしながら坂城は選手の名を叫んだ。おかげでひどくむせ、ジャガースの攻撃もダブルプレーで終了した。
六回で四点差ならなんとか大丈夫だろう、とジャガースファンが高をくくった頃、タイタンスの反撃が始まった。七回、八回とタイタンスが一点ずつ加え、八対六のスコアで九回に突入することになったのである。ジャガースにまだ二点のリードがあるとはいえ、タイタンスには逆転ムードが渦巻いていた。
九回表タイタンスの攻撃。ジャガースは、二点の重みを知れ、と言わんばかりにリーグ最高の防御率を誇るストッパーを投入した。なにがなんでもこの回で決着をつけるつもりのようだった。
タイタンスの先頭バッターは粘りに粘った。失投したような悪球も構わずに手を出し、ファールにした。それが何球か続いた後、ついにピッチャーが根負けしたのか甘いコースにボールがいった。これを待っていたようにバッターが鋭く反応する。どんぴしゃの球だった。打球は軽く外野を超え、フェンスを超え、球場の外へ消えた。
タイタンススタンドが総立ちになった。沖田も例外ではなかった。たこ焼きが地面に散らばったが、そんなことはどうでもよかった。あまりの出来事に沖田は隣にいた人に思わず抱きついた。若い女性だと気づいたのは抱き合って十秒ほど経った後で沖田は慌てて離れたが、女は狂ったように飛び跳ねていてこちらには気づいていないようだった。
坂城は坂城で隣にいる定年まじかに見えるオヤジと慰めあっていた。
「 今のはしょうがねえ。たまたまだ、たまたま 」 オヤジは自分に言い聞かせるように言った。
「 こんほうが面白くなるってもんで 」 坂城が無理して強気なことを言う。
「 いや、心臓に悪いだけだろ 」
「 すんません 」
もんじゃ焼きどうです、とオヤジに勧めたが、それ嫌いなのよ、と苦笑混じりに断られた。
ジャガースのピッチャーは立ち直ったのか、それとも悪循環になっているのかわからない投球を続けた。続くバッターは平凡なゴロに押さえたものの、その次はフォアボールを与えた。
一死一塁。タイタンスが手堅く送りバントを決め、二死二塁となった。
代打が告げられる。勝負強い曲者として名が知れているバッターだ。
ジャガースの内野が一旦マウンドに集まる。まさか敬遠じゃないだろうな、と坂城はいぶかしんだ。ここまで来たら勝負せいや。
選手が各々の位置につきプレイが再開する。ピッチャーがゆっくりと腕を振りかぶり、球を離した。バットとボールの音が鳴った。打球はスタンドへと吸い込まれていく。坂城はホッと息を吐き、沖田は惜しい、と悔しがった。ファールだ。
(タイミングはバッチリだな。次はいける)
(球威には負けとる。このままねじ伏せたれ)
次が勝負であることを感じてか、投手も打者も捕手もできる限り間をとった。お互いに腹の読み合いだ。やがてバッターが構え、バッテリーが寸分も動かず意思疎通を繰り返す。全てを決したように投手と捕手が同じタイミングで頷いた。
ピッチャーが投球モーションに移る。沖田と坂城にはそれがとてもゆっくりに感じられた。これで一年が終わる。投手の指から球が離れていく。
7
あ、と二人は気の抜けた声を上げた。次に 「 沖田さん 」 「 坂城さん 」 ときた。二人の声が重なり合って宙に消えていく。
リーグ優勝決定戦から一夜明けた朝だった。二人とも二日酔いだが、その種類は違った。心地よいものと、そうでないものだ。
「 先にどうぞ 」 と沖田が促す。坂城のほうも 「 いや、どうぞ 」 と言うので結局沖田のほうが口を開いた。
「 先日はおめでとうございます 」
「 あ、それは、ありがとうございます 」 坂城がにこやかに言った。 「 いや、そちらも最後は凄かったですなあ 」
「 でもあの満塁を凌ぎきったのはさらに本当に凄いと思いますよ 」
いやあれは運が良かった、と坂城は言うが、実際そうだな、と思った。フォアボールとバントの後、まさかの連続四球でこれはもう駄目だと思ったのだが、最後の最後でバッターを難なくゴロに打ち取ったのだ。最初からそうやれや、と坂城は万歳しながら毒づいた。
「 沖田さん 」 坂城が毎年お決まりの台詞を言う。 「 今晩ウチで一杯どうですか 」 コップで飲むしぐさをした。
「 じゃあ今年はそちらにお邪魔しようかな 」 沖田がのんびりと言った。
「 奥さんも一緒に 」
「 伝えておきます 」
「 来年もウチがいただきますんで 」 坂城が挑発した。
「 じゃあウチは再来年ってことにしときましょうか 」 沖田がおどけて言った。
清々しい笑みを浮かべ、沖田と坂城は部屋を後にする。
毎年シーズンが終われば、二人の冷戦も一時停戦状態になる。今年はこうだった、次はウチが、と反省会をし、また来年、戦争に突入するのだ。
二人は、近所では犬猿の仲で通っている。その認識はおそらく間違っていない。ただ、犬猿の間にあるものを知る者は少なかった。
8
沖田と坂城が酒を飲みながら談笑しているのを、沖田の妻は面白くない思いで眺めていた。さっきからタイタンスとジャガースの長所、短所を熱心に語り合っている。なにがそんなに面白いのかわからなかった。
どうぞ、と横から坂城の妻が料理の盛った皿を差し出してくる。沖田妻は精一杯愛想笑いを作り、ありがとうございます、と甲高い声で言った。ちっともありがたくなかった。
(なによ、調子に乗っちゃって。今年はムキになってドラフトで選手を目一杯とっちゃってさ。普段ケチってあんまとらないのに。たまたま獲得した選手が優秀だっただけじゃない。総合力で見たらタイタンスのほうが三枚も四枚も上手なんだから! あーもうっ!)
沖田妻はグラスのワインをがぶ飲みした。
(今日もなんであそこまで行ってもう一押しできないのよ! 流れは完全にこっちだったのに! あのピッチャーも涼しい顔して最後のアウトを取りやがって。なんだか馬鹿にされてるみたいじゃない!)
二人の男が笑いあっているのを尻目に、沖田妻の意識はアルコールの中に沈んでいく。タイタンスファンとしての一年が終わった。
キッチンで料理を盛っていた坂城の妻は、内心ほくそえんでいた。
(ふふ、痛快、痛快。あの女も悔しいだろうなあ。最後はもう少しで同点だったのに。一緒に試合見れば良かったなあ。そうすればあの女の悶絶する姿を見れたかも。ま、いいか。ジャガースが本気出せば一捻りは当たり前。持ってるウデが違うのよ。それにタイタンスは過保護体質だから、いざという時に力を発揮できないんだわ)
坂城妻は一人のジャガースファンとして優越感に浸っていた。来年もこんな風になればなあ、と心から願った。いや。来年だけじゃなくて、再来年もその次も、そのその次も。坂城妻の欲は深まるばかりだった。
沖田と坂城は双方の球団グッズを話題に盛り上がっている。もう一つのいざこざがずっと続いていることに、二人はまだ気づいていない。
関西弁へのツッコミなどもあればお願いします。自分、東北人なので……