臨時パイロット指令
あの瞬間のことを、私は今も脳裏から切り離せずにいる。
誰より冷静でなければならない立場だったはずなのに――私のほうが、きっと一番動揺していた。
技術士官として、幾度となく戦場データを見てきた。
だが、この日。ブリーフィングが終わり、メインハンガーの重力制御が切り替わった瞬間から、すべてが違っていた。
床下を走る振動。格納ラックの開放。
鈍い金属音を軸に、空気が「何か」を拒むように揺らいだ。
格納ブロックから姿を現したのは――
あの新型機動装甲〈ヴァリアント・シュレーディンガー〉。
白銀の装甲には、淡く発光する光量子の模様。
ただそこに“いる”だけで、周囲の空間が変質していくような感覚。
それは兵器というより、“装置”だった。
未来を編み直すために作られた、異常なまでに静謐な祈りの器。
けれど、肝心の適合者はまだいない。
いや、“いないはず”だった――その時までは
艦外からの悲鳴が、通信を通じてハンガーに流れ込んでくる。
『応答しろ、誰か!こっちの部隊が──視認不能の敵に──っぐあああああっ!』
『ファントムの……いや、もう識別もできな……ッ』
音声が潰れるたび、空気が冷たくなった。
存在確率を歪める狙撃兵装【ヴァニッシュ・ライフル】。
一発で“認識不能”となった味方が、味方に撃たれ、孤立し、声もなく消えていく。
パニックは伝染する。訓練兵たちが耳を塞ぎ、祈るように蹲り、恐怖に名前をつけようとする。
“次は自分かもしれない”――その怯えが、空気に充満していた。
そんな中、彼が現れた。
アレス・カイン。
最初は誰とも変わらない、ただの訓練兵だと思っていた。
だが彼の歩みは、あまりに静かで、正確だった。
重力調整下にあるハンガーを、まるで地図でも持っているかのように進んでくる。
その顔に、怯えはなかった。焦りもなかった。
ただ、彼の目――あの、底の見えない灰色の瞳だけが、
私たちがまだ“迎えていない未来”を、先回りして見ているようだった。
そして、気づいた。
彼の周囲だけ、空間の密度が違う。
音が吸われる。視線が滑る。
彼の「輪郭」が、どこにも結ばれていない。
“虚ろ”――そんな単語が浮かんだ。
だが、それは死や喪失の気配ではなかった。
それはむしろ、“生まれる前の未来の形”に近い。
確定していないからこそ、無限の可能性を孕んだ、圧倒的な虚無。
なのに。私は――心を奪われていた。
技術者としてでも、軍人としてでもなく、一人の人間として。
彼を見てしまった瞬間から。
まるで“ここから世界が変わる”と、本能が理解してしまったように。
〈ヴァリアント・シュレーディンガー〉の装甲が、彼の接近に反応した。
微かな共振。青白い紋が、心臓の鼓動のように脈を打つ。
私は、その適合率を知っていた。
けれど――この一致は、数値では表せない。
それは、兵器が“魂”を受け入れた瞬間だった。
そして私は、言わずにはいられなかった。
震える声で、マイクを握り、言葉を放つ。
「……カイン訓練生。あなたしか、システムと共鳴できる者はいない!」