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特別講義:情報病理学概論

「――では、今日の講義はここからが本題だ」


統合医学大学の第五講義室。

空調の音が止まると、すっと静けさが満ちる。

教壇に立つのは情報医療の第一人者、カーステン教授。鋭い眼差しが学生たちをゆっくりと見回した。


「エントロピー・スモッグによって人体に起こる異常。

それが、“情報病インフォノシス”と呼ばれるものだ」


その言葉に、教室のあちこちでペンが走り出す。


「スモッグの危険性については、君たちも入学時に一通り学んだはずだな。

だが、“視界不良”や“機器異常”といった物理的な影響だけではない。

問題はもっと根深い――“存在”そのものが侵される」


ざわ……と、少し空気が変わる。


「では、代表的な四つの症例について説明しよう。

どれも、現場で出会う可能性がある。心して聞くように」


「まずひとつ目。“存在希薄化症候群(EAS)”だ」


教授は空中にスライドを呼び出す。そこには、人影が少しずつ透けていく映像が映っていた。


「これは簡単に言えば、“自分がこの世界にいる感覚”がだんだん薄れていく病気だ。

最初は、ちょっとした物忘れや、自分が今何をしていたか分からなくなる程度で始まる。

だが進行すると、自分の名前すら思い出せなくなり、最終的には――他人の目にも映らなくなっていく」


「……え、それって……本当に見えなくなるんですか?」


前列の学生が恐る恐る聞いた。


「実際に、半透明になったり、身体に触れられなくなるケースも報告されている。

そして一番の問題は、患者自身が“自分が存在している”という確信を失ってしまうことだ」


静かにざわつく教室。ペンを走らせる手が止まっている。


「治療法は“概念定着療法”。

これは、患者の中にある“自分はここにいる”という意識――“自己概念”を情報次元的に強化していく方法だ」


「……つまり、“自分は自分だ”っていう気持ちをもう一回作るってことですか?」


「その通り。

さらに、他者と一緒に“お互いの存在を確かめ合う”集団療法も有効だとされている。

薬剤は“アンカー・レゾナンス”。服用すると、自分が“ここにいる”という感覚が一時的に強まるが、代わりに他人の存在がぼやける副作用がある」


「……それって、自分だけしか見えなくなるってことですか?」


「極端に言えば、そうだな。だが、命を保つためには必要な場合もある」


「続いて、“概念飽和症(CSD)”。

これは、簡単に言えば“頭の中に情報が入りすぎて、処理しきれなくなる病気”だ」


「情報が……入りすぎる?」


「うむ。スモッグの濃い地域や、情報兵器の影響下にいた者に多い。

脳に無数の“概念”や“可能性”が入り込み、全部同時に感じてしまう。

たとえば、“壁は硬い”と同時に“壁は柔らかい”、“壁はない”という感覚も同時に起きる。

結果、現実との区別がつかなくなる」


「それって……混乱しすぎて、動けなくなりそう……」


「その通り。思考も行動もフリーズする。

だから、“概念選別フィルタリング”という治療法を使う。

これは、余計な情報をフィルタで取り除いて、脳の負荷を減らす方法だ」


「薬もあるんですよね?」


「ある。“クリアサイト・シンセサイザー”という。

飲むと頭が静かになり、落ち着く。ただし、判断力や勘が鈍くなる副作用がある。

現場では一時的な使用が推奨されている」


「三つ目。“因果律錯乱症(CDS)”。

これは、物事の“順番”が頭の中でバラバラになる病気だ」


「順番……?」


「たとえば、ドアを開けた瞬間に、三日前の記憶が急にフラッシュバックする。

あるいは、何もしていないのに“結果”だけが先に起こるように感じる。

過去と未来の境目があいまいになり、“今”が分からなくなるんだ」


「……え、それ、自分が何してるか分からなくなるってことですよね?」


「まさにそうだ。ひどくなると、自分が何をしても“現実に影響がない”と思い込んで、何もできなくなる。

無気力になり、社会生活が難しくなる」


「……こわ……」


「治療は、“タイムライン再同期療法”。

これは、患者の脳に“確かな過去の記憶”や“正確な未来の予定”を与えて、“今”という感覚を取り戻させるものだ。

薬は“クロノ・スタビライザー”。これも、“今”を強く意識させる作用がある」


「最後が“残響幻視症(EVS)”。

これは、もう存在しないはずの人やモノが見えたり聞こえたりする症状だ」


「え、それって……幻覚?」


「幻覚、というより“情報の残りかす”を無意識に拾ってしまう状態だな。

戦場で散った機体の映像、失われた町の音――それが、ふとした瞬間に見えたり、聞こえたりする」


「でも、実際にはもう無いんですよね?」


「ああ、だが“情報”としてはそこに残っているんだ。

情報次元上にね。それを、脳が拾って再構成してしまうんだよ」


「……それ、何か対処法あるんですか?」


「ある。“情報残滓除去療法”という。

幻視の原因となっている“残った情報”を脳から除去する。

薬剤は“ルシッド・ドロップ”。目薬や点鼻薬で、感覚の過敏さを抑えてくれる。

ただ、色や音が少し薄く感じる副作用がある」


教授はスライドを閉じ、静かに言った。


「これらの病は、単に“変な症状”というだけではない。

情報に触れる人類が、どのように“存在”を保つかという――哲学的な問題でもある」


教室の全員が、静かに息を呑んだ。


「情報は目に見えない。けれど、それが崩れると、心も体も壊れる。

君たちが未来、患者を前にしたときに“何が見えていないのか”を想像できるか――それが医者としての器だ」


講義の終わりのチャイムが鳴っても、誰ひとり席を立とうとしなかった。

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