エリスの平凡な一日
「おはよう」
窓をあけ、エリスは庭に向かって挨拶した。それが朝、目覚めてから最初に発した言葉だ。庭にいるのは小鳥などの小動物だけだろうが、気にしない。挨拶は習慣だ。
ゆっくりした動作で室内を歩き、自分一人用に作った朝食に向き合う。
「いただきます」
これが、朝の第2の言葉だ。これも習慣だが、これは「前世の記憶」を取り戻してから始めた。
もくもくと朝食を食べ終わると、「ごちそうさま」と言った後は、ほとんど音も立てずに食器を片づける。
外出の支度を整え、「行ってきます」と外に出ると、緩慢な動作で辺りを歩き始めた。因みにこれは散歩ではなく、一応れっきとした見回りである。
――問題ないわね。
結界は良好。
堅固に2重に張られた結界に綻びもなく、外側の方の結界の、外表面に張り付けた「目くらまし」もうまく作動しているようだ。
家を中心として張った結界のため、ちょっと歩くだけで良い。揺らぎを感知するだけなら家にいても出来るのだが、せめて外の空気は吸わねば、と散歩代わりの「見回り」も習慣に取り入れた。
どれもこれも老体に優しい習慣である。
「今日は、良い天気ね」
独り言も、なるべく言うようにしている。寂しいから、というより発声を忘れないため、ひいては声帯の筋肉を衰えさせないため、である。これも老人の知恵。決してボケ防止のためではない。
家に入ると、書きもの机に座って書物を手にした。
これで昼と夜を食べて寝る準備をすれば一日が終わる。
エリスの毎日は、この代わり映えのない単調な一日を繰り返すだけのものである。
時折、一人でいることに感傷を抱くこともあるが、その波は以前ほど強くもない。少なくともここ30年ほど、そう思うことすらなかったように思う。
「どこまで、読んだかしら……」
空間を歪めたため無尽蔵と言って良い書庫から取り出した一冊は、古い古い他国の言葉で書かれてある。読み解くのに「少し」時間がかかるだろう、と見つけたときは嬉しくなったものだ。老人は暇なのである。
ゆっくりとページをめくるエリスの手は、白くて染みひとつない。
本を眺めている優しい面差しも若々しく、せいぜい18歳にしか見えぬだろう。
ゆるくウェーブを描く明るい栗色の髪と藤色の目は昔からの自慢だった。薄着の下のほっそりした肢体も相まって、とうてい彼女が齢300年近く生きた老婆だなどと思う者はいまい。
だが実際、エリスはもういい歳の――というかいい歳を過ぎて人間離れしたおばあちゃんだった。そうは見えないだけで。
エリスティア・ハーラン。
200年前に名を馳せた大魔法使いだ。
もともとエリスは父親が一代限りと叙爵された男爵家の次女だった。父親が筋の良い魔法使いだったとかで、爵位を貰ったのだ。娘のエリスもそこそこの魔法が使えたので、魔法使いとして魔塔で働くようになった。
可もなく不可もなく、エリスは年を取っていった。
恋愛・結婚という一大イベントには生憎、縁がなかったが、魔法が大好きだったエリスは魔法使いとして中堅どころに成長できた。
すべてが覆ったのは、56歳になったときだ。
老人、とまではいかないが、もう結構な年になって、エリスは「前世」を思い出してしまった。
かつて「日本」で暮らしていた、という前世を。
――あれは、驚いたなあ。
本をめくる手を止めて、エリスはぼんやりと「当時」のことに思いをはせる。
突如として甦った「日本女性として生きた記憶」。
思い出したのが56歳と言う年齢も年齢だったため、その記憶を使って何をしようとも思わなかった。
発達した文明、最新の科学技術。
日本の文化。
そんなものを思い出したって、今生きているエリスは56歳のちょっと魔法が使えるおばさんで、それ以上のものになろうとしたって無理だと思えた。
だが、そう思っていたのは本人だけだったらしい。
知識の蓄積、というのは、ものすごい力があるものだったのだ。
それが、魔法使い、という存在ならば、なおさら。
エリスが得た「前世からの新たな知識」は、当時の魔法常識をつぎつぎ覆していった。
発想が異なる。
描くイメージが無限に広がる。
しかもエリスは誰よりも鮮やかなイメージを描くことができた。
かつて存在しなかった事象についても、エリスはすぐに思い浮かべれたのだ。
火も土も水も風も。
光に闇すら自在に使えるエリス。
「前世」の記憶のお陰かどうかわからないが、魔力も倍以上に増えたため、エリスはあっという間に「大魔法使い」へと祭り上げられた。
それが60歳の時だ。
でも大いなる力、というものは幸福をもたらすもの、とは限らない。
自分の持つ力を取り合って争いが起き、裏切られ、戦争に利用されそうになって、エリスはほとほと嫌気がさして魔塔から、世間から遠ざかることにした。
以来、二百数十年。
最初の数十年こそ、エリスに接触を試みようと外野がうるさかったが、それも徐々に落ち着いていった。
魔塔を離れたエリスが最初にしたのは、「時のぼりの魔法」。
人間60年も生きれば、そこそこ寿命も見えてくる。
しかし前世の記憶を思い出して間もなかったエリスは、まだまだ生きたいと思ってしまった。色々な魔法が自在に使えるようになって、魔法大好き人間としては面白くなっていたときでもある。
死にたくない。
そう、痛烈に願ったのだ。
「時のぼりの魔法」で外見を18まで若返らせた。
折角若返ったのだからと、それを「時とめの魔法」で止めた。
そこまでは、魔法使いならだれでも――と言うには少々語弊があるが、まあ、二つ名をもらうような魔法使いにであれば、使える。大魔法使いの称号を得たエリスにとって、時のぼりも時とめも、大して苦労せず行えた。
だが中身の老化は、如何ともしがたかった。
たいていの魔法使いも、ここで躓く。
いくら外見が若くても、中身まで若々しくはいられない。だから、多くの魔法使いは生きてせいぜい150歳なのだ。
病気も怪我も極力しないようにして、健康を心がけて、それでも150歳を超えることはない。
しかしエリスは違った。
さすが「前世」の記憶持ち、とでも言おうか。
――止まらないなら、速度を落とせばいいじゃない!
どうせ、流れ落ちる物なら、落ちるところを小さくしてしまえばいい。
閉まり切らない水道の蛇口、穴の開いたバケツ。
そんなものを思い浮かべながらかけた魔法が「ゆっくりの魔法」――この魔法は存在しなかったため、エリスが名付けた――だった。
それからエリスの肉体は非常にゆっくり生命活動を行うようになった。
外見は変わらないままで、肉体は二十年で一つ歳を取る。
60歳の時、魔法をかけたエリスは、だから、今、中身が72歳ほどか。
見かけは18歳のままであるが。
「無理は、効かないんだよね」
ふふ、と笑ってエリスはまた書物に目を落とした。
無理をする必要もなければ、無理を強いる者もいない。
エリスが今の地に腰を落ち着けてからは100年以上が経つが、もう今やだれもエリスに関心を持つ者はいないようだった。
あのとき、死をあれほど恐れたと言うのに、今はさほどでもない。
まだ死なない、と分かっているからかもしれないが、「老いること」を考えても昔ほど切実に何とかしよう、とは思わなくなった。
この平穏すぎる毎日の中で、好きな魔法に向き合い、書物を読みふけるのは、悪くない。
この日もゆらがない日常の中で、エリスは平穏に一日を終える筈だった。
――助けてくれ!!
突然、結界に揺らぎを感じるまでは。