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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

惚れ惚れ薬

作者: heh_e

「こんちわ」 


 『化学部!』と、勢いよく書かれた貼り紙があるドアを開ける。ガラガラと無骨な音が鳴った。


 ……ああ、今日も来たか。来てしまったのか。この魔王の住む場所に。


 ドアを開き中に入ろうとした瞬間、俺の頭に何かが飛んできた。

 突然の事だが、ある意味予想可能だった。こんなこと、魔王の住まうこの化学室では日常茶飯事なのである。


「ごっふ……」


 まぁ、だからと言って回避出来るとは言っていない。



 我々生徒にとっての授業から開放されたこの放課後という時間。夏の暑さも夕暮れになると鳴りを潜めるようで、冷たい風が制服の間を縫って気持ちがいい。


 俺は志木城 拓。成績が中の上下で揺れ動く存在。


 俺以外の生徒諸君は、部活に励み仲間との絆を紡いだり、帰宅し気ままに過ごすなりと有意義な時間を過ごしているのだろう。俺以外は。

 ()()()()


 俺にとって放課後というのは、授業の延長線上にすぎない。それは『時間』のことではなく、『憂鬱さ』のことである。


 話は変わるが、この学校には『魔王』と呼ばれる存在がいる。それが知識に富んだことを『魔王』と表現しているならば、どれ程よかっただろう。

 だが、生憎その意味は『暴虐』という意味である。いや、才知にあふれていることも一ミクロンほど含まれているかもしれない。


 ただ問題は、この高校生活において魔王と呼ばれる人間がいることだ。

 中二病だって、そろそろ包帯を外す頃だというのに。


 その魔王は化学部に所属しており、化学室を主な拠点として……


「ほら、馬鹿拓。さっさと起きる」


「ごぉっふぅ!」


 突然、腹にとてつもない衝撃。気遣いとか、なんか人情が何一つ感じられない起こし方である。


「なにしやがんだ!」


「いや……それ投げたくらいで気絶する方が悪いでしょ」


 『それ』を指さしている、俺を踏んで起こした先輩。魔王と呼ばれるその女子生徒は、夕日をバックに立っていて、皮肉にも美しく輝いていた。


 長い黒髪に眼鏡を掛けた、バイオリンのような曲線美を持つ存在。端正な顔立ちをした見た目だけ美人は、橙色に染まっていて儚げである。

 制服の上から白衣を着ていることから分かる通り、この化学部所属である。


 如月 零。この高校でも美人さにおいて、一二を争う存在だ。


 いや、これは極めてタチの悪い詐欺表現だ。一つ思い出してほしいのは、可愛い可愛い後輩を踏んで起こした、高校生の癖に魔王と呼ばれている張本人である。


 恨むぞ、夕日め。またこの女の暴虐さを知っておきながら、見とれかけたじゃないか。


 ありえない。俺がこの女に惚れる事なんで、天地がひっくり返っても万に一つありえない。だってこんな暴力女、美人補正が入ったところで、だろう。


 これは確定事項であり、あくまでさっき見とれたのはそこを『絵』として見たとき美しかったからだ。


 閑話休題。俺は体を起こした時に頭からずり落ちたそれを拾う。


「零先輩、なんてもの健全な男子に投げつけているんですか? この場でアレやコレが起こっても知りませんよ?というか、またこれやってるんですか……」


 零先輩はプイと視線を逸らした。


「仕方ないでしょ?作りたくなったから、作る。その為には、なにがきっかけになるかわからない」


「だからって男子高校生よろしくエロ本を持ち込まないでくださいよ……」


 そんなご立派な事をこれで(エロ本)頬を一つ染めずに言うのだ。

 どうせなら、もう少しだけでも健全なものにその言葉は使ってほしかった。


 ……というか俺、これ投げられて気絶したの?弱くね?


 い、いや、誰だって不意をつかれたらこうなるだろう。

 つまり、石を投げられ物理的に気絶するように、エロ本を投げられて精神的に気絶したということだ。


 あまりに弱い自分を嘆きながら、エロ本をペラペラとめくる。求められるエロ本の需要どうりの内容。三大欲求の一つである性欲を満たすための、男女のくんずほぐれつが描かれている。

 ただ、それは共通して『惚れ薬』がナニカをすることの起点として使われていた。


 そう、この人はこれ(エロ本)を参考に惚れ薬を作ろうとしているのだ。


 そんな化学部部長の如月 零。化学分野において数多の賞を受賞し、高校生ながら某製薬会社の内定を貰っている存在である。

 ……が、いかんせん常識の抜け落ちた人間でもある。


「うるさいな。いいから馬鹿拓、とりあえずこれ飲んで」

 

「ええ……嫌ですよ。そんな『危ない薬品』の代名詞みたいなの」


 常識のない先輩は、いたいけな後輩を謎の薬品の実験台にする。それは先ほどのパワハラと同じで、毎日のように起きている事案。


 この人の作る薬品はなまじ零先輩が天才なため、失敗作でも極めて特異な事が起きる。味がどうのこうので済んだ試しはない。


例えば__


『先輩!なんか血管が青く発光して、アニメ覚醒シーンみたいになってます!』


『かっこいいね。夜に交通事故に遭う可能性が下がるからそのままでいたら?』


『その前に警察のお世話になることになるんだが?』


『そしたら交通事故に遭わない……結果オーライじゃん』


『どこにオーライ要素があったんだよ。さっさと戻してくれ!』



 先週なんか__


『先輩!』


 その時俺は確か、先輩の肩を掴んだんだ。


『……ッ!な、なに?』


『先輩めっちゃ綺麗……』


『そ、そう。……コホン、そしたら私に何か無性に伝えたいことある?』


『いや俺の視界フィルターで先輩がこんなに美しく映るなんてこれは幻覚だな……さっさと治してください』


『……死ね!』


 そうそう、ここで意識が暗転したんだった。先輩は薬品の影響だって言ってたけど、本当だろうか?

 帰ったら腹に見覚えのない痣が出来てたんだけど。


 まぁ、そんなこんなで俺を……いや、所属部員を実験台に使うのだこの人は。


 元々所属していた化学部部員も、このやべぇ人間のせいでどんどんと消えていった。俺だってそのまま流れにのっておさらばしたかった。

 だが顧問に青い顔をされながら『抜けたらてめぇの点数を消し飛ばす』と言われたのだ。職権乱用もいいとこだ。


「ほらほら、早く口開けて。なんなら私が飲ませてあげようか?」


 先輩は手慣れた感じで薬品を揺らしながら言った。ビーカーの縁ギリギリを攻めている。以前それで零して大惨事になったのを覚えていないのだろうか。


「え、口移しですか?」


「はぁ?いやこう……ガッ、と」


「やめてください。自分で飲みます」


 そんな無理くり押し込むようなジェスチャーされたら、顎が外れそうで不安でしかない。


「じゃあほら」


 零先輩からその薬品を手渡しされる。なんかよく見るとコポコポしてる……


 ええい、ままよ!


「うぉぉぉぉ!」


 勇気の一気飲み!

 何か、もにょもにょとしていながらも、シュワシュワとした液体が喉を通り過ぎる。


 気色悪い……


「どんな感じ?」


 零先輩は何か薬品を飲むといつもこうやって覗き込んでくる。勘違いかもしれないが、どこか心配そうに。それなら飲ませなきゃいいのに。


「いや、特に何も」


 自分の体を確認してみるが、血管が青く発光することも、先輩が美しく見えることも無い。なにもなさすぎて逆に怖くなってくる。


「そう?失敗したかな」


 首を傾げながらそう言い残して零先輩は薬品棚の方に向かっていく。

 こんなことは初めてだけど、まぁ何もないに越したことは無い。少し拍子抜けしたが。


 ……と、そんな悠長なことを考えながら錆びたパイプ椅子に腰を落ち着かせる。


「ふう……ん?」


 仮眠でもしようかと机に突っ伏していると、窓から差し込む夕日に体を焼かれているように突然体がどんどんと熱くなっていく。

 気温は変わらない。見える世界も、聞こえる音も何一つ。ただ俺という存在は熱を帯びて変わっていく。


 そして数秒も経たないうちに、脳みそに段々と霧がかかっていくような感覚に陥った。思考がままならなくなり、自分を見失っていく。


 ふと零先輩の方を見ると、その後ろ姿が異様に。異常にエロく見えて、ぐちゃぐちゃにしたい?歪めたい?

 ああもう訳がわからない。何を俺は考えているんだ。あの人に興奮するわけが……


 机を力の限り押して反作用で立ち上ろうとするが、ふらふらとしてうまく立ち上がることが出来ない。

 そして静寂な橙色の化学室に、無遠慮なパイプ椅子の倒れる音が鳴り響いた。


 その音によって、迷惑そうに零先輩が俺の方を見た。

 彼女の髪の一本が長いまつ毛にしなだりかかる。夕日によってそのたった一本がほのかに輝き、彼女の存在を妖艶にしていた。


 いや、エロいエロいエロい。もうマジでこの人生きてるだけで世界中の男誑し込めるんじゃないか?


「あ、あんた……なに入れたんだ!?」


 湧き上がる、全ての欲望をぐちゃぐちゃに混ぜあわせたようなもの。それを、無茶苦茶に頭を掻いて、歯ぎしりをして、貧乏ゆすりをして、およそ人間が突発的なストレスを感じたときにとる行動をすべてとり押さえつける。


「な、なにって……ちょっと強めな媚薬だけど」


 そんなもの入れておいて、なんだその何が起こっているかわからないという顔は。まさか天才なあんたが、それの意味を知らないとも言うまいて。


「馬鹿じゃねぇのマジで!?」

 

「ちょ、ちょっとだけだったから……大丈夫かなって」


 ああ、そうだ。この人は常識が無いんだった。


「もう、いいです。だから、どこか他の所に行ってください……」


「ま、待って。とりあえず……これ」


 零先輩は焦った様子で、またなにかを手にもって近づいてくる。この人は危機感も無いのだろう。今必死にこの欲望を押さえつけているのに。

 出ていけと言っているのに、聞く耳を持たず、それがどういうことになるのかわからないのだろうか。


 こういう時に、変な優しさを見せないで欲しい。いつものように暴力的にあしらえばいいのものを……


「お、落ち着いて、はい飲んで?」


 ふわっと彼女の香りが鼻孔ををくすぐる。いつもよりも解像度が上がったような感覚。まるで人間の一億倍な嗅覚の犬の鼻に変わったようだ。

 すると、彼女の匂いの中に僅かに香る柑橘系の匂いがあることに気付いた。これは……これは俺の大好きな匂いだ。おそらく香水をつけてきたんだろう。

 気づかなかった。遠慮せずこの代り映えのしない化学室に、もっとその爽やかな匂いを充満させてくれていいのに。


 ああでも……香水つけてみたいけど、気付かれるのは嫌だから少しだけにしようという心情が読み取れるな。

 この人らしく、とても可愛い一面だ。


「……大丈夫?」


 なにも言わない俺を不審がってか、俺の顔をのぞき込んできた。綺麗な瞳孔が、虹彩が俺をじっと見つめている。


 ああ、もう、ダメだ。美しすぎる。今すぐにこの人をぐちゃぐちゃにして、愛したい。


「先……輩」


「な、なに?」


 俺の様子が更におかしくなったのを見てか、先輩は少し後ずさった。


「先輩っ!!」


「きゃっ!」


 俺は欲望のままに先輩に飛び掛かり、押し倒した。夕日によって橙色に染まった白いタイルに、先輩の長い黒髪が大きく広がる。それは光を与えられた清流のように輝いていた。


「痛ったた……」


 先輩は痛みを受け流すように頭をさすっている。

 申し訳ない。これはこれは大変申し訳ありませんだが、そんな事気になんてするわけがないだろう。


 渦巻く欲望が血をめぐらすように、血管をつたって先輩を抑えている手にまで流れ込んでくる。

 その瞬間、俺の手は先輩の制服に手を掛けていた。


「たっ、拓!?」


「先輩……すみません……」


 先輩の制服のボタンを外しながら、俺は制服に顔を近づけて彼女の匂いを嗅ぐ。さっきの柑橘系の匂いと共に、今度は僅かに汗の香りがした。

 それが彼女を同じ人間だと証明しているようで、またそれが異性ということも相まって俺の興奮ボルテージは、天元突破のさらに先を行った。


「ひゃっ!た、拓……やめて!」


 先輩は俺の頭を抑えようとする。だが先輩は聡明ではあるが、運動神経に関しては苦手ではないが得意でもないらしい。

 なので運動はそこそこ自信のある俺にとって、それほど妨害にはなりえない。


「……」


 返答をするという理性も無く、ただ俺はゆっくりと先輩の制服のボタンを外していく。一つ、一つと外していくにつれ、普段見えない喉元が見え、雪のような白さの鎖骨が見えていく。

 そしてまた一つボタンを外すと、閉じ込められていた物があふれ出すように豊満な胸が襟の間から覗かせた。

 

「ッ……」


 それが見えてからはゆっくりとする必要もない。ただただ理性のない獣のように先輩を剝いでいく。


 そして胸を覆う紫色のなにかが見えたところで、

「拓……」

と声がした。


 するとガンという鈍い音とともに、俺の頭に強い衝撃が走る。俺の視界は暗転していく。


 俺はそれでも先輩の胸に手を掛けようとしていた。

 もう少し、もう少しで……という強い後悔の感情に気付き、心底気色悪いと思ったのは視界がもう真っ暗になった時だった。



 ……段々と意識が覚醒していく。黒一色の中に白が一滴落とされて、そのまま白世界に変わっていくような感覚。脳はまだ回転していない。


 そして重い瞳を何とか開くと、

「……起きた?」

と声がかかる。


 体を倒したまま眼球を動かすと、体育座りをした先輩が目に入った。白衣を胸元で手繰り寄せ、膝に顔を埋めて、少しだけ見える瞳は虚空を見つめているようだった。

 そして俺は先輩の近くに落ちていた白いボタンで、何をしたのか思い出した。


 閉じられていた本が開かれたように流れてくる記憶の羅列は、俺に見せつけるように鮮明にその罪を思い出させた。


「先輩……その、大丈夫ですか?」


 なんと声を掛ければいいのだろうか。『未遂』という言葉に甘えたところで、俺が先輩を強姦しようとした事実は変わらない。

 ここでの先輩との関係性は先輩後輩ではなく、加害者と被害者である。


「……大丈夫。あと今回の事は完全に私のミスだから気にしないで。……それじゃ」


 先輩は覇気のない声でそう言うと、フラフラと立ち上がり化学室から出ようとする。ただ先輩の服ははだけていて、呆けている俺の頭でも少なくともここから出たらヤバいと察知できる。

 

 さすがに俺の上着は嫌だろうから、

「待って下さい、俺が羽織るもの借りてきますから……先輩はここにいてください」

そう言ってから、未だにぼーっとする頭を地面に打ち付け強制的に覚醒させる。立ち上がろうとして足がもつれるが、なんとか根性で立ち上がった。


 さすがに。さすがにここで立ち上がれないと、本当に男が廃る。嫌だ、大切な先輩を傷つけておいて甘えれるものか。


「ちょ、ちょっと!頭から血が……」


 先輩は焦った様子で俺に近づいて来て、そしてハンカチを取り出し血が流れているところを抑えてくれた。なんて優しい先輩なんだろうか。

 でも、今はその優しさを享受する覚悟も時間もない。


「このぐらい大丈夫です。保健室でジャージを借りるついでに治療してもらってきますから」


 先輩をやんわりと退かし、そのまま化学室を出ようとドアに手を掛ける。

 ……ああ、ただその前に一つ伝えておかないと。


「……先輩。もう化学部を廃部にしませんか?」


「……」


 先輩は答えない。ただそう言われるのが薄々分かっていたのか驚いた様子もない。先輩は俺の後ろにいるから表情はわからない。ただ、白衣を羽織りなおす音が聞こえた。それは否定を示しめしているかのように思えた。


 ドア付近に置いてある時計の秒針の音がうるさく聞こえてくる。


「俺、このままこの部活を続けて、また今回みたいな事を先輩にしてしまいそうで怖いです」


「……私は気にしないから」


 まるで子供が最後の悪あがきをするように、先輩はボソッと言った。

 この人は本当に常識を知らない。 


 そんなことを言われた所で、俺の罪悪感は全く拭えないのに。なんならそれを先輩に言わせてしまった事が、俺の罪悪感を倍増させた。


「俺が!気にするんです!なんで先輩は俺に襲われていて、そんな『気にしない』なんて言えるんですか!」


 後ろを振り向いて、先輩を見る。先輩は叱られた子供のように俯いていて、表情はわからなかった。

 

「……だって」


 嗄れた声で小さく聞こえてくる先輩の声。ゆっくりと顔を上げた。垂れた髪の隙間から、潤んだ瞳が俺をじっと見つめていた。

 綺麗だった。


「だってこうでもしないと、拓は……」


「……俺が?なんですか?」


 俺がそう言うと、先輩は瞼を閉じた。それと同時に、あふれ出た涙が頬を伝う。夕日で眩しく輝きながら、涙は地に零れ落ちた。


 そして零先輩は、空気を崩さないように大きく息を吸った。


「拓はきっと、私のこと好きになってくれないから……」


 瞼を開けながら、吸った息をゆっくりと川に流すように。

 そう、言った。


 充血して赤くなった瞳が僅かに見えた。寂しそうな、悲しそうな表情が見えた。

 それは先輩らしくない、もう諦めたような表情だった。


 好きになる?俺が先輩の事を?ないない。


「いや……好きですけど」


 その思想と相反する言葉はあまりに自然に口から滑り出た。


 それからコンマ数秒くらいだろうか。いや、あくまで体感だから分からないが、そのくらい短くも感じられたし、数時間にも感じられた。

 ……俺は何を言っているんだ?という疑問が、脳内を埋め尽くす。うるさくなっている秒針が、ほんの数秒分左回りしてくれればいいのだけれど、生憎右回りで今も時は進んでいる。

 

 先輩が好きとか、考えたことも無かった。まるで俺ではない別人に言わされたようだった。


「……え?」


 俯かせていた顔を上げ、先輩はこれまで一度も見せたことのない『理解不能』という感じの素っ頓狂な顔をした。

 張本人な癖して、なんでこうなったのか分からないから、きっと俺も先輩と同じような顔をしているだろう。

 先輩からしたら、それこそ理解不能だろうけれど。


「ねぇ……どういうこと?ほ、本当に私の事好き……なの?」


 しばらくの静寂を破ったのは、先輩からだった。なにか懇願するように大きく見開いた瞳は、俺の事を見つめている。


 そんな目で見られても……。貴方は俺に何を望むのだ?


「いや、さっきのはその……言葉の綾、と言うか……」


 ああ、先輩と顔を合わせて会話するのはこれで最後になるだろう。俺は僅か一時間程度で、どれだけ最低なことをこの人にやっているのだろうか。学校中に言いふらされても仕方ないし、なんなら訴えられても仕方ないだろう。


「嘘……言ったの?」


 先輩の声が尻すぼみになっていく。それに比例して先輩は段々と俯いていき、また表情は隠れた。そしていくつもの雫が、白いタイルで弾け飛ぶ。


 女の涙なんて、小学生の頃以来でどうすればいいか分からない。それに、その時は周りに人がいたから何とかなったけれど、完全な対面だから尚更。

 だから俺は無神経に先輩に近づこうとした。


「その、先輩……」


 俺は一歩進んでからまた後悔した。また俺は先輩を傷つけようとしている。


「こっちこないで!」


 涙をボロボロと零しながら、先輩は俺を睨んでいる。長い髪が、先輩の頬に引っ付いていく。


「もう……ほっといてよ」


 ……俺はなにをしているんだろうか。

 もうとっとと保健室に行こう。これ以上ここにいても先輩を傷つけるだけだ。

 

 そう思ったのに。


 突然意識が薄くなった。視界が白くなった。


 そして意識が戻ると、覚えのある匂いが香る。


 先輩を後ろから抱きしめていた。


「なっ、なにしてるの……」


 先輩が瞠目している。そう言われても俺も何しているのか分からない。ただ、そんな姿も愛おしい。

 しばらく訳も分からないまま抱きしめていると、我に返ったのか先輩が俺を振り払う。


「私のこと好きでもないくせに、勘違いさせるようなことしないでよ!」


「いや、その……」


 誰かに自分の体を時折乗っ取られている……って言っても、どうしようもないクズの言い訳と思われるだろう。

 だから言葉が続かない。喉に詰まったような感覚。


「死ね!」


 先輩から睥睨される。ゾクゾクした。


 するとまた意識が薄くなった。


 たかが一瞬。されど一瞬。


 俺は……


「フムゥ!?」


 先輩にキスしていた。


「んっ……ちゅぱ……はぁ……」


 舌をねじ込み、先輩の口内を蹂躙する。キスの仕方なんて知らないから、美しさなんてない、ただ暴れるだけ。口の端からどちらの物か分からない涎が垂れてくる。生ぬるかった。

 ファーストキスにしては、やたら重く、濃厚なキス。


 ああ、美味しい……。もっと、もっと。


「ぷはぁ……」


 先輩は蕩けた目で俺を見上げている。

 唇を離しても、銀色の糸がまだ先輩を繋ぎとめている。輝くそれが垂れて、プツンと切れた頃。先輩は目をそらし、白衣で口を拭いながら言った。


「責任は取ってもらうから。こんな事しといて嘘とか言ったら本当に殺してやる」


 ギラギラとした目で睨まれる。


「は、はい……」


 あまりにも頼りなく、ぽそっと俺は返事をした。


 ああ、愛しているよ先輩。大好きだ先輩。貴方という人は、何と罪深いのだろう。ただの一介の男子高校生ごときが、貴方のその秘めたる色香に、惑わされずに立っていろというのはとても無理だ。

 

 愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ愛してる好きだ


 いまだ呆けた頭には、ただ先輩に対する惚れ惚れする思いが支配する。どこまでも浸食していくその感情は、俺の体を支配していく。


 愛してる?好きだ?冷静になれ。俺はこの暴力女に惚れる事なんてないって、そう考えてたじゃないか!

 なにが起きてる?なにが起きてる?


「ッ……あぁぁぁぁぁぁ!」


 脳の隅から隅まで入り込んでくるピンク色の霞。それを振り払うために何度も頭を地面に打ち付ける。      

 なんだこの異物は?


「なっ……」


 気色悪い気色悪い気色悪い!

 頭からさらに血が流れてきた。それでもかまわない。いっそ頭皮を割いて、頭蓋骨を割って、この異物を、この霞を取り出してくれ!


「おえぇぇぇ……」


 あまりの気持ち悪さに嘔吐する。脳髄に生ぬるい息を吹きかけられているようだ。


「ね、ねぇ……」


 先輩が怯えた声を出している。


「ぜん……ぱい……。せんぱぁぁぁぁい!!」


 俺は先輩を抱きしめる。 


 先輩の髪の匂いを嗅ぐ。


「せんぱい……愛してるよぉ……大好きだよぉ……」


 俺じゃない。こんなこと言わない。いつのまにか俺は傍観者。自分の痴態を見ているしかない。


「せんぱい……せんぱぁい」


 子供が甘えるような声を出している。やめろと願っても。やめてくださいと懇願しても。

 俺は映画を見るように客席に座ったままでしかいられない。


 あぁ、霞がここまで来た。エロティックな霞は俺を取り囲む。

 そして俺という自我を浸食し始めた。


 もがく。僅かに波が荒立つだけ。もがく。たった数瞬隙間ができるだけ。


 周りは見えない。下は見えない。上も見えない。


 鼻から、耳から、口から、目から。霞がどんどんと入り込んでくる。どんどんと脳は腐食する。どんどんと俺は霞に消えていく。

 もう何もない。もう何も見えない。もう何も聞こえない。


 助けて、助けて、助けて、助けろ!!


「……助けて、せんぱい」


 久しぶりに口から俺の言葉が出た。俺の、俺の言葉だ!!


 霞が晴れた。


 先輩は俺を見上げた。


「やだ」


 先輩はわらった。


 霞に飲み込まれた。

 俺は消えた。


「……ずっとずっと離しません。零先輩」


「当たり前でしょ?志木城拓?」


 愛してます、先輩。


 


 あれから拓の様子は変わった。授業以外の時は私に引っ付き、愛の言葉をささやいてくる。彼の同級生に訊いたのだけど、彼は授業中ただボーっとしているようだ。目は開いていているけど、意識は無い。

 ただ授業が終わったときは人が変わったように猛スピードで教室から出るようだ。そして私の所に来ているのだろう。


 教師は迷惑だろうけど、私は全然問題なかった。だって私の事嫌っていた拓が、忠犬のように私に追随してくるのだ。

 私が『足をなめろ』と命令すれば、拓は喜んで隅から隅まで私の足をなめる事だろう。骨までしゃぶりつくすように。


 気持ちが良かった。人間を支配する、この言いようのない背徳感と高揚感。さらにそれが私の好きな人ときた。

 私は何度、彼に愛の言葉を紡がせたことだろう。

 私は何度、彼に自慰行為を手伝わせたことだろう。


 これは総合的に見れば、死の直前に起こる瞬間的な快楽を上回るのではないだろうか。


 ……あぁ、そういえば拓がこうなる直前に『助けて』とか言ってたっけ。もちろん却下したけど。

 驚いたように目を見開いた拓は傑作だった。


 彼は以前、私の事を『常識の抜け落ちた人間』と評価していた。

 そんな人間に助けを請うたところで、手が差し伸べられることなんてないだろうに。


「どうやって作るんだろう……」


 私は現在、拓に飲ませた薬を再現しようとしている。だが全く同じ製法で作り、拓以外に無理やり飲ませても同じような効果は確認されなかった。

 風かなにかで知らない物質が混ざったのだろうか。まぁいい、それを突き止めるのも私の仕事。


 以前は単純な惚れ薬……人格はそのままでいて相手に好意を抱かせる薬を作ろうとしていたが、そんなもので満足できなくなってしまった。


 相手の人格を捻じ曲げ、好意どころか異常な程の愛情を抱かせる薬。


 さながら『惚れ惚れ薬』……と言ったところかな。

 

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