プロローグ
新連載です。
「――ハァ、ハァ、ハァッ!」
男は必死に夜の森を走っていた。
いや、逃げていた、という方が正しい。
「な、何なんだよ、クソッ⁉」
後ろを振り返り、追ってきていないかどうか見る。幸いにもまだソレの姿はない。
迷彩柄の戦闘服とヘルメットを身に纏い、装備はアサルトライフルと拳銃、ナイフにいくつかの弾倉。
まるで何処かの国の軍人に見えるが、男はある犯罪組織――その末端に位置する一人だ。彼を含めた十五人の部隊を引き受ける小隊長だった。
虐殺、強姦、略奪、己の快楽を満たす為に彼らは無辜な人々を手に掛けてきた。
欲望のままに金も女も人の命も平気で奪う。そこに罪悪感などは微塵もない。
全てやりたいようにやる。今までそうして生きてきた。無論犠牲になった仲間もいるが、その者達を弔う気は無い。仮にも末端の存在。ただ命令されるままに動いているだけだった。
そんな彼らが、返り討ちに遭うなど露知らずに。
「あ、あんな化け物がいるだなんて聞いてねぇぞっ! 情報と全然違うじゃねぇかっ!」
その日は自分の部下達を連れて、某所に設営されている難民キャンプを襲撃する予定だった。守りも手薄で簡単に落とせると聞いていた。自分達よりも上にいる者に命令されている。毎度の事なので慣れていた。今回の襲撃で得たもの全ては好きにして良いとお達しが来ていたので、全員俄然やる気が出ていた。
金も酒も女も奪い放題楽しみ放題――そうなる筈だった。
それは突然の事だった。目的の難民キャンプから数百メートル離れた廃墟に彼らは集まり、準備を整えていた。
決行時間の夜。各々の欲望を胸に突撃、という所でそれは起きた。
――最初に部下二人の首が飛んだ。部下だった亡骸はその場で崩れ落ちた。
――全員が振り返った。咄嗟に後退して距離を取る。
――何故気づかなかったのか。
一体いつからいたのか、確かにそこにいた。
ボロボロのコートを身に纏い、顔はフードで隠れていてよく見えないが、背格好からすれば青年だろう。服装を除けば只の一般人にしか見えない。だが青年が持つソレが否定していた。
最初はソレが何なのか分からなかった。だが月明かりが差し、徐々に姿を現した。
温かい血糊が付いた、反りのある漆黒の刃。俗に言う日本刀だった。だが普通の武器ではない。刀身からは黒く禍々しい殺気に似た“何か”が溢れ出ていた。
その後の事を一言で言い表すなら、地獄だった。
青年は刀で次々と部下達を斬殺していった。装備していたアサルトライフルやサブマシンガンで応戦する部下もいたが、青年には一発も銃弾が当たらない。全て避けるか刀で弾かれていた。脅威なる身体能力で何の苦も無く接近した青年は容赦なく部下達を切り捨てる。ナイフを使う部下も、鍔迫り合いでナイフを部下の身体ごと斬ってしまう。
乗ってきた車で逃走しようかと考えたが、乗り込んでいる間に殺られる光景が脳裏に浮かんだ。
男が撤退の指示を出す暇も無く、彼らは蜘蛛の子散らす勢いで逃げ出した。
逃げた後いつ合流するのか、合流後はどうするのかも決められないまま走り続けた。
途中無線で連絡を取ろうとしたが、何度試しても繋がらない。やっと繋がっても「あ、悪魔が、悪魔が……」という怯えた声と直後の断末魔の叫びしか聞こえない。悪魔とは恐らくあの青年の事だろう。まさか自分達を追いかけて殺しているのか。
次は自分じゃないのか、いつ回ってくるのか、男の頭の中は訳分からなくなっていた。
今までに恐怖を感じる事や強敵と相対した事は何度もあった。だが今回はそれとは全く違う。人と相対した時に感じたものなどではない。あれは、化け物と相対した時に感じるものだ。
「ハァ、ハァ、ハァッ……!」
男は息を切らしてその場で立ち止まる。
一体どれくらい走っただろうか。ちゃんと逃げ切れたか。他の連中はどうしただろうか。そこまで考えて首を横に振った。どうせ死んでいる筈だ。
「と、兎に角早くアジトに戻って……」
アジトへの帰路を目指す男の背筋に強烈な悪寒が走った。
後ろを振り返りたかったが、あまりの殺気を感じたせいで身体が震えあがり、動く事が出来ない。
ザッザッと、こちらに向かう足音が男の耳に響く。それはさながら、死神の如く。
足音がだんだん大きくなる。
男は恐怖で動けない身体に鞭打って、振り返ってアサルトライフルを構える。
姿はまだ見えないが、こちらに近づいてきている。見え次第アサルトライフルで応戦。接近してきたらナイフで迎え撃つ。
そう決めて待ち構えていると、男は息を呑んだ。
間違いなくさっきの青年だった。但し着ているコートが血で彼方此方汚れ、手にしている日本刀も血に染まっている。ここに来るまでに何人も殺してきた証拠だった。
言葉すら出てこない男に残された選択肢は二つ。このまま何もせず殺されるか、無駄に足掻いて死ぬか。どうせこの目の前の死神からは逃げられない。黙ってやられるのはプライドが許さない。
「……チ、チクショウがァァァァァァッ!」
男はやけくそになってアサルトライフルを乱射する。
それを見計らったかの様に、青年は突っ込んできた。その動きは目で追いきれない。銃弾をものとせず、当たりそうなものだけ日本刀で次々と弾いている。
青年が男の間合いまで近づき、アサルトライフルの銃身を日本刀で切り裂く。
「くっ……⁉」
男は残骸と化したアサルトライフルを捨て、すぐさまナイフを手に切りかかる。冷静さを欠いていても鋭いそれは紙一重で避けられる。
「チィッ!」
間髪入れずに二撃目の逆袈裟斬りも青年は後方に避ける。
だがナイフは青年が被っているフードを切り裂き、一瞬だけ顔が露になる。
青年はそんな事などお構いなしと言わんばかりに日本刀で袈裟斬りを放つ。対応が間に合わず男は避ける事が出来ない。ナイフを握っていた右腕が切り落とされ、すかさず追撃の一蹴を鳩尾に受ける。
「ぐぁっ⁉」
一蹴は予想よりもとても重く、まるで自動車にぶつかったような衝撃に男は地面をバウンドしながら吹き飛ばされる。
「ガハッ!」
男は途中で木にぶつかって止まるが、意識が飛びそうだった。
「クッソ……!」
それでも朦朧としつつ、残った拳銃で青年を狙う。何発かの銃声が鳴り響くが、銃弾は青年には一発も当たっていない。負傷による命中率の低下なのか、単に青年が避けているのか。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
弾切れになった拳銃を放り捨て、斬られた右腕を押さえる。
もう戦えそうになかった。既に満身創痍となり、ここで死ぬと理解しながら、自分を殺す死神に目をやる。
青年はゆっくりとこちらに近づいている。但し、さっきの様な殺気の籠った足取りとは違う。まるで街中を歩くようなものだった。
切り裂かれたフードの中の顔も少しだけ露になる。
見えたのは以前何処かで見た事のある、黒髪黒目、日本人の顔だった。青年だと思っていたが、随分と若い。まだ十代の少年だろう。尤も、その目には何も宿っていない。眼前に映る敵全てを皆殺しにする、鬼の様に冷たい。
「……最期に、一つだけ聞いて良いか?」
男は力無く笑いながら青年に尋ねた。
どうせ聞いた所で死ぬし、聞く暇も与えられず死ぬだろう、と思っていた。
「……何?」
だが意外にも青年はトドメを刺す前の情けなのか、質問に応じてくれた。日本人だと思っていたが、それにしては流暢に外国語を話す。
「あんたは、一体何者だ? 魔導騎士か? それとも死神か悪魔か?」
「…………」
青年は何も答えず、ゆっくりと、ゆっくりと男に近づく。男はまるで処刑人が来るのをひたすら待たされている罪人の気分だった。
「……別に、僕はそんな大それたものじゃないよ」
男の問いに青年は苦笑し、無慈悲に日本刀を振り上げながら言った。
「……僕は何処にでもいる、只のろくでなしだよ」