1_8 薬も過ぎれば毒となる
「ど、どうしたら良い? どうしたら良いの……!?」
自分の声が震えるのが分かった。
大柄なスキャロップ伯爵夫人は床に倒れ伏したまま、何かうめき声を上げ続けている。
その体を蝕んでいる毒物が、自分の体の中にもあるという事実に震えるしかない。
「ああ、レセディ! そんな……! あぁ……!」
気の弱い母はそばに倒れ込むやいなや、気を失ってしまった。
本当なら介抱しなくてはいけないのだが、恐怖で身がすくんでしまった。母の近くに駆け寄ることも人通りのある場所に出て助けを呼ぶこともできない。
が、意外な声が体のこわばりを打ち砕いた。
<<苦くなかった?>>
「は?」
思わず声に出してつぶやいてしまってから、足元の声の主に気付く。
<<さっきのアーモンドだよ。苦くなかった?>>
「はぁ? 今そんなこと気にしてる場合じゃ……」
大きな声を出してしまってから、まだいくらか残っている周囲の人のいぶかしむような目に気付く。
慌てて声を低く抑えた。
(なに、苦かったわよ! それが何か!?)
<<それで分かった、ビターアーモンドだ>>
皆がパニックだというのに、一人……もとい一頭だけ淡々とした語り口をしているのが腹立たしい。
(何それ?)
<<野生種に近いアーモンド。種子に含まれてるアミグダリンはシアン化合物だからな。それで中毒を起こしたんだ>>
(だから何それ?)
タヌキの口から聞いたこともない化学用語が聞こえてきて、私は苛立った。
<<分かりやすく言うと青酸化合物>>
(青酸って……、毒じゃない!)
<<そうだよ。原産地じゃ自殺にも使われるくらいの毒性があるんだ>>
(嘘ぉ! 私もさっき食べたわよ!!)
大声で叫んでしまいそうなところをぐっとこらえた。
<<一つや二つじゃ中毒にはならないから安心しな>>
(それに私、日本で結構アーモンド食べてたわよ!? 健康に良いからって!)
<<野生種は日本じゃ輸入禁止だよ>>
タヌキは倒れ伏して何事かうめいているスキャロップ伯爵夫人の頭の方へ近づいた。
「ああ……、何? なにかいるわ……追い払ってちょうだい……!」
<<まだ意識はあるな。重篤化する前になんとかしよう>>
(何とかって、どうするの?)
<<とりあえず食品中毒起こした時の基本対処だ。まずは胃洗浄だ>>
そう言ってタヌキは私の方を見上げてくる。
まさかやれというのだろうか?
<<頼める? あいにく今の俺の手は肉球がついてるもんで>>
(そんなことしたことないわよ!)
私を医療関係者か何かだとでも思っているのか?
<<テーブルの上を見て欲しいんだけど>>
(何を?)
<<マスタードある?>>
いったいそれが今の事態とどう関係があるのか分からなかったが、しぶしぶ私は言われるままに従うことにした。
(……あるわよ。粒のとペーストのとどっちがいい?)
<<どっちでも良いよ。ティーカップがあるだろ。お湯に入れて溶かして>>
(どれくらい?)
<<溶かせるだけ>>
ソーセージの付け合わせとして更に盛られていたマスタードを、これでもかとお湯を張ったティーカップの中に注ぎ込む。
「うっぷ。これは見た目も臭いもきついわ……」
黄土色の濁った液体で、鼻を刺す刺激臭のする地獄のスープができあがってしまった。
指先でティーカップをつまみ上げる。
<<この脂肪の塊に飲ませてやれ>>
(分かった。これが薬なのね?)
まだ口元から涎をだらだらと垂らしている伯爵夫人の顔を、ちょっと苦労して片手で床から持ち上げた。
「ほら、伯爵夫人。頑張って飲んでください」
「ああ、何? ひどい臭い……」
「お薬ですから! さぁ!」
いくらか口元からこぼしてしまったが、なんとか注ぎ込んで飲み込ませることに成功する。
(これで良くなるのね?)
<<気をつけた方が良いぞ>>
(えっ)
<<服が汚れるから>>
タヌキの言葉に振り返るのと、伯爵夫人が弓なりにぐぐっと背中を曲げるのとはほぼ同時だった。
「おえぇぇ……!」
「うぉぉ!?」
反射的に飛びのく。
一秒遅れて、私がいた空間に向かって伯爵夫人は噴水のように胃の内容物を噴き出した。
<<お湯に溶かしたマスタードは即席の嘔吐剤になるんだ>>
(先に言ってよ!)
<<薬だとは一言も言ってないぞ>>
しれっとタヌキは言い切る。このやろう。網で捕って煮て焼いて食ってやろうか。
<<様子はどう?>>
タヌキにうながされて、床にばらまかれた吐瀉物にうっかり裾を汚されないよう注意しながら再び近づく。
一体何を食べればこんな臭いのする胃液を吐けるのだろう?
(……まだフラフラしてるみたい)
<<ならヒドロキソコバラミンの投与だ>>
(何よそれ?)
<<ビタミンB12b。鉄イオンをアミグダリンと結合させて無害化して排出させよう>>
今日何度か切れそうになった堪忍袋の尾っぽは、湧き上がる感情に辛うじて耐えた。もう本当にギリギリ何ミリかのところで。
(そんな薬がどこにあるのよ!?)
<<レバーペーストの匂いがする>>
鼻をひくつかせながらタヌキはテーブルのうち一台に近寄った。
立ち上がってその上に乗せられた料理を確認する。
確かにあった。
サンドイッチの隣に、瓶にたっぷりと入っている。
(あるけど、それがナニ?)
<<レバーにはビタミンB12がたっぷり入ってる。それを食わせろ>>
「分かったわ!」
スプーン二つを握りしめて伯爵夫人に駆け寄った。
一本を歯の間に差し入れて口が閉じないようにし、もう一つで褐色のペーストをすくう。
「うぇっ……!」
「ほら、頑張って食べてください! ほら!」
「何も食べたくない……」
「死んじゃっても良いんですか!」
「分からない、分からないの……。ああ、どうしたら良いの……!」
それをきいて、自分のヘソの下に熱が宿るのを感じた。
何か体の中で今まで使ったことのない機能が働いたようで、かあっと血液が猛烈な勢いでかけめぐるのが分かった。
分からないとはどういうことだ。
今かかっているのは自分の生き死にだというのに。
良いだろう。自分で決められないというなら、代わりに私が決断してやる。
自分でも驚くくらいの握力で、むんずと伯爵夫人の丸いアゴをひっつかむ。
「無理矢理にでも食べさせるわ!」
「うぐっ! うげぇ……!」
「ほら、瓶の中身をまるごと飲み込んで!」
「おえぇぇ……!!」
褐色のペーストを無理矢理詰め込んだ。
涙と鼻水とレバーペーストでメイクアップされた伯爵夫人の顔はひどいものになったが、全く笑う気もひるむ気もしない。
ここまでして死なれては目覚めが悪い。
何が何でも助かってもらう。
一本分のレバーペーストを詰め込んで、私はテーブルの上の二本目の瓶に手を伸ばした。
<<おい、そんなにたくさんじゃなくても良いぞ>>
「……」
冷や水をぶっかけるようなタヌキの声に、私は固まった。
<<吸収されるまでは時間があるし、シアン中毒は意識があるならまだ重体じゃないんだ>>
「先に言ってよ!?」
<<手が早いんだよ、アンタは>>
そういえばいつの間にか伯爵夫人の顔色は元に戻りつつあるし、呼吸も落ち着いているようだった。
むちゃくちゃになったテーブルと、口からレバーペーストをだらだら垂らした巨体の伯爵夫人が残されたパーティー会場で、私とタヌキは顔を見合わせた。
「やっちゃったかしら?」
<<さぁね>>
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20分ほど経って、スキャロップ家から迎えの使用人がやって来た。
その頃には伯爵夫人は、自力で椅子に座れる程度にまで回復していた。
「気持ち悪いわ……」
「まだ気分が?」
「いいえ、その、お腹の中が全部レバーになったみたいで」
そう言って伯爵夫人は口を押さえた。ついつい目を逸らしてしまう。
「急に気が遠くなったようで……。パーティーを台無しにしてしまったわ。何が悪かったのかしら……」
「事故ですよ。原因はアーモンドの食べ過ぎです」
「そうだったの? そんなこと誰も教えてくれなかったわ……」
「知られてはいないんですが、その、食べ過ぎると毒になるんです。お気を付けください」
驚き感心するような伯爵夫人の目がちょっと後ろめたい。
私ではなく、すぐ隣にいるタヌキの知識なのだが、それを正直に口にしても誰も信じはしないだろう。
「ありがとう、ありがとう……! あなたが介抱してくれなかったら、私死んでいたわ!」
「大げさですよ。安静にして、気分が悪くなったら医者にかかってください」
<<あとそれから。毎日朝晩は家の周りを最低30分歩くように言って>>
「え? ああ、それから毎日、朝晩は家の周りを散歩してください。最低30分」
タヌキがとっさに口を挟んできたので、ついつい言われたままを繰り返してしまった。
「ええ、必ず守るわ!」
もはや完全に何を言われても信じる目になっている夫人は大きくうなずいた。
使用人二人に左右を支えられるようにして、何度も礼を述べながらスキャロップ伯爵夫人はパーティー会場を後にしていった。
「……」
それを見送ってからタヌキの方へ視線を落とす。
「……最後のも中毒と関係あるのね?」
<<いや、全然関係ないよ?>>
「じゃあ何のために?」
<<少しくらいはダイエットした方が良いと思って>>
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「ねえ、お母様起きて!」
「うーん……」
「伯爵夫人はお帰りになられたわよ? 聞いてる? 毒なんか盛られてなかったの!」
椅子に倒れ込むようにして意識を失ったまま、なかなか目覚めようとしない母にてこずっていると。
「あ、ありがとうございます!」
「え?」
近寄って来た男爵夫人に、猛烈な勢いで手を握られた。
「あ、あの。何を?」
「あなたが介抱して下さったおかげで夫人はご無事だったそうですね? 伯爵夫人に万が一のことがあったら、主人は破滅するところでした!」
「え、えぇ……。どうも」
伯爵夫人が倒れ込んできたときに負った傷だろう。
左頬に大きなアザができていたのが私には気になったが、本人は意に介することもなく涙を浮かべながら礼を述べてくる。
「もう破滅だよ……」
ぽつりとしたつぶやきは、ネクタイを外して行儀悪くテーブルに腰かけた男爵のものだ。
パーティー開場は荒れ放題、来客もほとんど逃げ出してしまった。
ホストとしての面目は丸つぶれだ。
政治家を目指す若き野心家の立志伝の序章としては、不幸な事故とはいえあまりにお粗末な結果である。
「こんな騒ぎが起きたなんて噂が広まれば、誰も僕を支持してくれなくなる。こんなはずじゃなかったのに……!」
「まぁ! あなた! 何を言っているの!」
背中を丸めて意気消沈した夫に向かって、夫人は気丈にも強い調子で声を張り上げた。
「こちらのお嬢さんがいてくれたから、誰も死なせずに済んだのよ! 神様が幸運をもたらしてくれたの! それを何ですか、あなたは!」
「おまえ……」
夫人は男爵の元へ近づくと、両手を夫の頬に当てた。
「私たちは人間として大切なものを失わずに済んだのよ。そのことを喜びましょう。どうやり直すかはその後で考えれば良いわ」
「……」
妻の言葉に全て納得したわけではないだろうが、男爵は反論せずぶるっと背中を大きく震わせた。
うつむいたまま妻の小さな手に、自分の両手を重ねる。
今その手から感じるものを残さずこぼさまい、と愛おしむかのように。
その光景はまるで夫婦の絆を主題とした一枚の絵画のようで、私は思わず開いた唇から……。
「リア充め爆発すればいいのに」
ついつい本音をつぶやいてしまった。
<<そういうことは思ってても口に出さない方が良いぞ>>
どこかで聞いたようなフレーズが足元から返ってきた。
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「もうお母様、起きてってば!」
「うーん……」
結局男爵家のメイドに手伝ってもらって、私は待ちくたびれていた我が家の馬車まで引きずるようにして母を連れていく羽目になった。
パーティーは成果なしだし、もう少しでゲロを被るところだったし、全くろくでもないことばかりだ。
成果と言えば……。
ちらり、と当たり前のような顔をして足元についてくる毛玉の塊に目を落とす。
「おお、奥様。おいたわしい。早くお屋敷に戻りましょう」
「あー、待って」
「は?」
「この子も連れてくわ」
私の言葉を聞いて母に手を貸していた御者は目を丸くしたが、黙って客室に母を運び入れる作業に戻った。
その作業に没頭するのを確認してから、そっと互いにだけ聞こえる音量で声をかけた。
「さっきはありがと。なかなかやるじゃない」
<<別に大したことはしてないさ>>
と言いつつタヌキは、『フン』と鼻の穴を広げて見せた。
予告より遅れて申し訳ありませんでした。
続きは明日朝8時に追加します。