5_13 キナの木
「本当に、何もできることはないの?」
手が震えそうになるのをこらえながら、タヌキに尋ねた。
<<さっきも言ったけど、抗マラリア薬がないとどうにもならない。21世紀の世界だって、毎年60万以上の人間がマラリアに有効な治療を受けられず死んでたんだ>>
「じゃあその薬の代用品になるようなものは、何かないの!?」
じれったくてついつい声を荒げてしまう。
タヌキに責任はないと分かってはいるのだが、声を上げないと良くない思いで頭の中が押しつぶされて変になりそうだった。
「前だってマスタードで毒を吐かせたり、レバーペーストで中毒を治したりしたじゃない!」
<<抗マラリア薬で化学合成が必要ない生薬はキニーネだけだ。キニーネは南米原産のキナの木からしか取れない>>
辛抱強く語っていたタヌキの声にも、徐々に苛立ちが混じって来た。
「じゃあ、そのキナの木ってのを大公夫人に探してもらえば……!」
<<どうやって? この世界じゃマラリアすら知られてないのに、その薬の材料が世に知られてると思うか?」
「……」
大公夫人が呼んできた王都では幅を利かせている医師たちのことを思い出す。
彼らは熱病の対処をするどころか細菌の知識すらなかった。
この世界ではタヌキの知識はあまりにもイレギュラーなのだ。
なおかつその彼ですら、患者の症状が激化するまで判別のつかなかった難病に処する方法が知られているはずもない。
<<それとも今から探検に行くか? そもそも南米に当たる場所があるのか、この世界に?>>
私は答えられなかった。
原作漫画【ダイヤモンド・ホープ】の舞台はあくまでファンタジー。
今私たちがいるのも架空の名前がついた大陸だ。
アメリカ大陸に当たる新世界は原作では登場しないし、作者の構想にあったかも怪しい。
植生なんて分かるはずもなかった。
<<……分かってくれ。俺だって自分が無力だと認めるのは辛いんだ>>
タヌキは苦渋混じりのため息をついた。
<<俺は過去の人の努力の上澄みをすくいとって拝借してるだけで、特別な力があるわけじゃない>>
「……」
<<理論の正解だけが分かってても、現実が相手だとどうにもならないことだってある>>
タヌキの言葉には、体験者だけが語れる重みがあった。
タヌキが21世紀の日本で何をしていたのかは彼は敢えて話そうとしなかったが、ひょっとして医療従事者だったのだろうか。
そして私が考えるよりも、ずっと多くの人の命が消えていくのを目の前で見続けたのかもしれない。
取り乱す私に辛抱強く相手する姿からは、慣れとかすかな倦怠感が見え隠れしていた。
<<医学と薬学は、経験と発見を積み重ねて現象から解決策を見つける学問なんだ。知識だけじゃ患者は直せない>>
「そんなこと、私だって分かってるわよ」
辛うじてそれだけ言い返す。
タヌキは構わずに自論を続けてきた。
<<人間が見つけて集めてきた薬物は、大抵は偶然の産物なんだ。一人の人間の思いつきや後知恵だけでどうこうできるもんじゃない>>
「……」
<<キニーネだってそうさ。伝説じゃ原住民が熱病に冒されて森の中をさまよってたとき、耐えられなくてたまたまキナの木に溜まってた苦い水を飲んだそうだ>>
「え?」
<<するとみるみる熱が下がった。このことがきっかけでキナの木の皮から出る汁を飲むと、解熱に効果があると知られるようになった>>
「……苦い?」
タヌキが何気なく発した一言が、妙に頭の中に強く響いてきた。
何かが引っかかった。
デジャブや既視感に似た印象が意識を捉えて離さない。
絶対にこれを聞き逃してはならない、そう直観がけたたましく警鐘を鳴らしている。
<<キナの木がマラリアの特効薬になると分かったのはそのずっと後。ヨーロッパから来てたまたまマラリアにかかった夫人がキナのエキスを……>>
「ちょ、ちょっと待って!」
<<?>>
「考えさせて!!」
頭の中で、何かが繋がった。
脳神経の中を電気が通って、弾けて、新しい接続がもたらされた感覚。
連想と言うよりも、はっきり言って論理の飛躍に近い。
が、言わずにはいられなかった。
「もう一回お願い。……今あなた、何って言った? 苦い木の皮が特効薬?」
叫び出したくなるのを我慢しつつタヌキに尋ね直す。
鼻の穴が膨らんで、心臓の鼓動が一気に強まるのを感じる。
地獄の底で空中から垂れ下がる細い一本の糸を見つけたような、そんな気さえした。
「……あるかも、薬」
次回は今夜追加します




