5_6 経口補水液
<<ツメを押して>>
タヌキに言われるまま、ベッドの上でぐったりとしているマダマさまの手を取った。
他人のツメを押すのって難しいな、と思いながら少年の親指のツメをぐっと押し込む。
<<手を離して>>
言われた通りにする。タヌキは間近で私たちの手をのぞきこんだ。
「これで何が分かるの?」
<<押したツメがいつまでも白いまま。眼の周囲がくぼんでる。脱水症状だ>>
そういえばさっきも喋りにくそうにしていた。
口の中が乾いて辛いのだろう。
「じゃ、すぐお水を……」
私はあたりを見回して、当然あるべきものがないことに気付いた。
「ちょ、ちょっと。なんで飲み物も水差しも用意してないの?」
ベッドにもサイドテーブルにもポットや水の用意はなかった。
21世紀の日本で私が子供の頃、風邪を引いて発熱したときは必ずスポーツドリンクを親が買って来てくれたものだ。
熱が出たときは水分補給が当たり前だと思いこんでいたので、ないこと自体に驚いてしまう。
「あのー……」
看護の手伝いを買って出たメイドたちの一人が、言いにくそうに答えた。
「お医者様が『あまり水を飲ませるとお腹を下してかえって体に悪いから片付けるように』と……」
「ああ、もう……!」
あのヤブどもめ。余計なことをしてくれる。
熱が出たとき水分補給が大事だなんてこと経験則で分かりそうなものだ。
「とにかく飲み水を持ってきてちょうだい!」
<<水はやめとけ>>
メイドに指示を飛ばそうとしたところで、ベッドの端っこに腰かけたタヌキが口を挟んでくる。
<<嘔吐や発熱があるときに大量に水を飲ませると、特に子供は低カリウム血症になりやすい>>
(何それ?)
メイドたちがいぶかしむのを横目で見ながら、そっと小声で尋ねた。
<<要は塩分不足。筋肉がけいれんしたり最悪心臓が不整脈を起こすぞ>>
思わぬ剣呑な言葉が飛び出してきてぎょっとした。
(じゃあどうするのよ?)
<<経口補水液を飲ませろ>>
(ケーコーホスイエキ?)
<<要はスポーツドリンク>>
そんなこと言われても、この世界には●カリス●ットもア●エリ●スも未発売だ。
<<作ればいいだろ>>
(あれって作れるものなの!?)
<<分量はお湯500mlに対して、砂糖大さじ一杯と塩をひとつまみ。レモン汁を入れてやると飲みやすくなる>>
(こんな時期にレモン? スーパーがあるわけじゃないのよ? ……ママレードで良いか)
言われたとおりのものを用意させる。
材料はどこの台所にもあるものだ。すぐに揃った。
計量してとりあえずティーポットに入れて混ぜ合わせると、確かにそれっぽいものができあがった。
(これってそんなに体に良いの?)
<<普通に水を飲ませるより25倍吸収率が良いとされてる>>
(そんなに)
カップに注いでから、熱いまま飲ませるのは無理だと気付いた。
冷ましながら重要なことに気付く。
(これってどれくらい飲ませれば良いの?)
<<王子様の体重が35kgとして、脱水時は3時間で大体2Lは水分が必要だ>>
(でもたくさん水飲むって結構しんどいわよ?)
<<最初は少しで良い。30分毎に飲む量を増やして与え続けろ>>
とりあえず人肌程度に感じるまで冷ましてから、カップ片手にもう一度マダマさまを抱き起こす。
「ほら、マダマさま。飲んで、楽になるから」
「く、口が痛くて……」
「ゆっくりで良いわ。慌てないで」
カップに唇を寄せるのも辛そうにしていたマダマさまだが、やはり喉が渇いていたのだろう。
ペースをつかむとごくごくと喉を鳴らして飲み込み始めた。
「とにかく水分補給しなきゃダメよ。他にどこか辛いところある?」
「とにかく体中が痛くて……」
「筋肉痛? 熱が高過ぎるんだわ。解熱剤か何か飲んだ方が良いのかも……?」
といってもこの世界にはドラッグストアなぞないし、薬事法なぞないから薬局で買える薬が信頼できるものかも怪しい。
医者なら詳しそうだがさっき返してしまった。
<<動脈を冷やせ>>
(動脈? どうやって?)
<<首の後ろの頸動脈、脇の下の腋窩動脈、股間の鼠径動脈を冷やせ。氷を用意しろ>>
「氷ぃ?」
私以外聞こえないタヌキの指示に対して、思わず声に出してしまった。
気軽に言ってくれるなぁ。
(冷蔵庫の製氷室なんかどこにあるってのよ!)
<<おいおい。パーティーでアイスクリームが出るんだから、氷くらい用意できるだろ>>
「……ああ、そういえばそうだったわ」
言われてみれば冷蔵庫が発明されていない時代なのだ。
氷菓子を作ろうしたら、天然の氷に塩をぶち込んでミルクや生クリームを冷やして作る他方法はない。
だがどうやって手に入れているのだろう?
<<現地人に相談しろよ>>
タヌキの言う通りだ。
「氷を買って来てちょうだい」
「こ、氷?」
私の指示に面喰ったようで、困惑したメイドは慌てて主人である大公夫人のところへ相談しに行った。
そんなに変なことを言っただろうか、と思っていたら大公夫人まで驚いて目を丸くした。
「氷じゃと? 何に使うのじゃ?」
「あてがって体を冷んです。水を通さなくて頑丈なもの……革袋か何かに入れてください」
「そんなもの使って体を冷やしたら、余計熱が高くなるのではないか?」
「逆です。太い血管を冷やして楽にしてあげるんです」
製氷機なんてものもないこの世界の人間にとって氷が貴重なものであることくらい容易に想像がつく。
看護に使うという発想がそもそもないようだった。
大公夫人は少し迷ったようだが、扇子を叩いて周りの使用人に指示を飛ばした。
「良し、分かった。王都中の氷屋に使いを送って在庫を手に入れよ。金は惜しまぬ」
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もう夜ということもあって手に入らないことも覚悟していたが、意外にも1時間ほどで目当ての品は届けられてきた。
既に閉店していた氷屋の主人と従業員の家まで尋ねて、特別料金を握らせて保存庫から商品を出荷させたらしい。
流石は王国最大の貴族。その気になればお金も権力も使い放題である。
「氷が届いたぞ!」
マッチョな氷屋が二人がかりで、木箱に入った大きな氷を病室まで運んできた。
大きさは引っ越し用の段ボールくらい。
フタを開けると、中には乾燥した茶色い繊維質のものが隙間なくびっしりと詰まっていた。
「何が入ってるの、これ?」
<<麦わらと大麦の脱穀したカラだな。なるほど熱伝導率が低いから合理的だ>>
タヌキが納得してうなずいた。
保冷剤としてはなんとなく頼りないものに思えて仕方ないだが、氷屋が取り出した氷の塊はしっかりと四角い形を保っていた。
「もうすぐ夏よ? 意外と溶けないのね、氷って」
<<冷蔵庫がない時代、明治時代の日本では国産の氷が流通する前はアメリカのボストンで採取した氷が海超えて輸入されて販売されてたってよ>>
「へー!」
今まで考えもしなかったが、機械に頼るという概念がない時代の人間の知恵も大したものだ。
「砕いてアイスペールにでも入れておけ。残りは箱ごと覆いをかけてなるべく持たせるのじゃ。足りなくなればすぐ次を届けさせよ」
大公夫人がてきぱきと指示をした。
氷屋がバールのようなもので欠片を砕き、メイドたちがトングで拾ってはカクテルを作るときに使う金属製の容器に入れていった。
使う分だけ革袋の中に入れて、中の氷が溶けた時に漏れないようなるべく固く口元を縛る。
代用の氷枕の出来上がりだ。
「枕元に敷いて首筋を冷やして! そっちは両脇の下! 足の付け根にも挟むわよ! ほら、恥ずかしがらない!」
羞恥心で患者が抵抗を試みたものの、そんなもの意に介している暇などない。
最初は戸惑っていたマダマさまだが、冷たい革袋の感触を心地よく受け止められるようになったのか、静かに目を閉じた。
「少し楽になったようじゃな!」
大公夫人が喜色を浮かべた。
その背後で、ち覆いをかけられた氷の詰まった木箱にちらりと視線をやる。
「……ちなみにこれ、おいくらだったんです?」
「ほんの30万ディナールほどじゃが?」
「ヒエッ!?」
中級官僚の一か月分の給金に匹敵する額だった。
次回は今夜8時ごろ追加します。




