老人とタヌキ(2)
「冷静に考えてください! あのワインがどんなに高級でも、所詮はお金を出せば手に入るものでしょ!」
普段温厚なマダマさまに早口でしかりつけられて、流石に私もうろたえた。
「何百万ディナールという契約を結んだあなたが、そんなものに釣られてどうするんです!」
「言われてみればその通りだわ……」
「それよりも勝手に大主教さまと協力するだなんて約束をしてきたりしたら、後でどうなるかわかりませんよ!」
「え、えーと!? 後でどうなるかっていうのは、私たちが大主教様と近づくとどこかから目をつけられるとかそういう……?」
「叔母上に怒られますよ!?」
真剣そのものの表情で少年は訴えかけてきた。
「……大公夫人に?」
「そうです! おとなしくしていろと命じられていたのを忘れたんですか!」
「これくらいのことでもまずかったりする?」
「まずいに決まってます! ボクたちの立場が非常に微妙かつ重要なものであることは、口うるさく説明されたでしょう!
そういえばそうだった。
とにかく自分たちの節税しか考えていない貴族派。
生活が懸かっている市民派。
両者を取り持つ調整力を発揮できない宰相中心の王宮の政治家たちとで、今は王都の水面下でドロドロの権力闘争が繰り広げられているのだ。
その両者の間でうまいこと泳ぎまわって良い思いをしようとしたうちの因業親父が、もう少しで屋敷を全焼させられそうになっていたではないか。
「でもさー、気にし過ぎじゃない? 私たちはそんな王都の政治情勢に介入できる力も野心もないし。おじいちゃんだってもう窓際族でこんなチャペルの管理くらいしかすることがなくなってるんでしょ?」
「だから逆にまずいんですよ。主流派から外れたもの同士で独自の派閥を作ろうとしているだなんて思われたら、他の全部の集団から目をつけられますよ!」
「ああ、なるほど……」
『おばちゃんに叱られる!(意訳)』なんて言い出された時はずっこけかけたが、流石は王子様。いかにも疑い深い政治家が考えそうな見方をぱっと示してきた。
確かにもしそんなことになったら、彼らが考えることはふたつだ。
取り込もうとするか叩き潰そうとするか、どちらにしても面倒が待っている。
もちろん私の方にもそんな政治の駆け引きをして勢力を広げる意欲もなければ、余裕もありはしない。
「そして『叔母上がボクたちや大主教を通して政治に介入しようとしている』なんて邪推されたら、ますます事態はややこしいことになります!」
「そーね、世間の評判は『隣の属国の王様』だもんね。大公夫人って」
「そのきっかけが『ワインをおごってもらった』ってことがバレたら……」
「まずいわ! 絶対怒られるやつじゃん!」
「だからそう言ってるんです」
ようやく私にも自分の軽率さでやばい事態になりつつあることが理解できてきた。
「ど、どうしましょ……!?」
「とりあえずここは様子見しかないでしょう。うまいことごまかしてください」
マダマ様に背中を押されて、私は再び大主教の方へ向き直った。
「えー、大主教様? ご質問の件に関しては省庁に持ち帰った後、慎重かつ前向きに検討させていただくことにしますわ!」
「省庁って何ですか?」
≪おい、無理に官僚的玉虫色の答弁を真似しようとするな≫
足元でタヌキの肉球がぽんぽんとスネあたりを叩く感触がしたが、今はそんなことを気にしてはおれない。
「考え直したら私のような若くて未熟で世間知らずの金髪縦ロール娘がそんなことを軽々しく決められませんわ! やはりここはお世話になっている大公夫人と相談して熟慮の上……」
「そうそう。アメシスのやつからは他にも手紙が来ておりましてな」
いかにも本当に今思い出した、と言わんばかりに大主教は明後日の方向に目をやった。
「それがどうもあやつめ。そそっかしいところは治っておらんようで、とても信じられんような内容なのです」
「ど、どんな中身です? 夜中に道を歩いていてたら七色に光り輝く救世主が道の向こうから歩いてきたとか?」
あの神父様なら何かの見間違いでそんな手紙を送っても不思議ではないが……今話すようなことだろうか?
「それがあなたが率先して囚人たちを率い、オズエンデンドの教会と聖像を破壊しつくしたというものなのです」
思わず吹き出しそうになった。
「他にも、神聖な空を怪しげな機械で踏みにじっただとか、黒魔術を使って死体を蘇生しただという噂。他にも幻覚作用のある毒キノコを恐れ多くも公爵殿下とスターファの王女の食卓に盛っただとか……」
「えっ、あのっ、それはっ、そのっ」
うわあ。全部本当に私のやったことじゃん。
「地方に派遣された神父は住民の様子をことこまかに報告するのが義務とはいえ、いやはや。厳しい北の果てで精神が安定していないのか、とても信じられない内容ばかりなのです」
そんなチクリみたいな仕事をしてやがったのか、あの神父!
本当のことをちゃんと報告するだなんて、なんてひどいやつだ!
「いやあ、とてもあなたのような美しいご婦人ができることとは。私にはあやつがまともでないとしか思えません」
「お、おほほほほ……。そのご意見に全面的に賛同しますわ!」
「もし本当なら教会法にのっとれば厳罰がくだされる可能性は大いにありますな」
「厳罰!?」
「特に聖像破壊と教会破壊、神父への暴行は重罪です。首謀者はまず間違いなく宗教裁判にかけられるでしょう!?」
「宗教裁判!?」
≪まさかの時の!?≫
ふう、と大主教は大きくため息をついた。
「え、そんな法律があるんですの?」
「世俗の法とは別に教会法というのがありましてな。信徒の行いは、教会にも司法権があるのです。特に教会破壊と聖像への侮辱は大罪とされていますよ」
「あははは! 私がそんなことするわけないじゃないですか!」
がっ、と力任せに大主教の肩を引き寄せた。
「この目を見て! 私は敬虔な聖教信者ですわ! 神に栄光あれ! ジーザスクライストスーパースター! それからそれから……ハレルヤ!!」
「なんですか、その呪文は?」
「とにかくそれは百パーセント誤解というか、現状認識の誤りというか、言いがかりというか、光の加減でそう見えたですわ! 私だって迷惑してるんだから! よく考えて、人間が空を飛んだり死体をよみがえられせたりなんてできると思います?」
口角泡を飛ばす私に、大主教はぽんぽんと優しく、ぶ厚い手のひらを私の手の甲に重ねてきた。
「落ち着いてください。レセディ嬢、あなたがそのような暴挙に出るようなお方でないことは、私には一目でわかりました」
「そ、その通りですわ! 流石! 見る目がある!」
「もし本当に宗教裁判を始めるための調査を行うなどと言い出す者がいたとして、私がちゃあんと裏から手を回して中止させますとも。いくら閑職でもそれくらいのことはできますから。ご安心を」
「…………」
口調は相変わらずの穏やかなものだったが、その中に刃物を含んでいることくらいいくら政治に疎い私にだって分かる。
つまりは『お前の弱みを握っているぞ』とそう遠回しに脅しているわけだ。
流石は形式的だろうと大臣の中でトップの席に座っているだけはある。
その気になればダーティーな手だって平気で使えるらしい。
……こわっ!!
「まあくだらぬ噂の話はもうやめましょう。私としてはたまに、レセディ嬢や公爵閣下と世情のことなのでお話したいだけなのです」
「それはもちろん! 異端審問とか魔女裁判とか以外のお話でよければ喜んでうかがいますわ!」
「ははは、面白いことをおっしゃる」
「あの、否定してくれませんか?」
完全に手玉に取られてしまっているのは自分でも分かっているが、こうなればやむをえない。
何せ自分のしたことなのだから。どうあっても責任は自分で取るしかないではないか。
「あ、大主教様! できたら私たちがお近づきになることは内密にお願いしますね!? 特に大公夫人には絶対に洩れないように!」
「私は口が堅い方ですよ。友人の秘密を漏らしたりはしません」
どこまで信用できるのかはなはだ怪しかったが、これはもうこの老人にゆだねる他ないだろう。
「ちょ、ちょっとレセディ?」
「成り行き上仕方ないでしょう!? 火あぶりはイヤよ!」
「それはまあその通りなんですけれど……」
マダマさまが呆れとも哀れみともつかない表情になったところで。
「レセディ嬢はおられますか! お迎えに上がりました!」
チャペルには似合わない、武骨な良く通る声が聞こえてきた。




