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王宮へようこそ!(6)

 いきなり声をかけられたことにぎょっとして振り向く。

が、すぐに警戒を解いた。


 いつの間に近づいてきたのか、ベンチのそばに立っていたのは血色のいいおじいちゃんの神父様だった。

年のころはもう70を過ぎているだろう。

現代日本ではいざ知らず、この国では結構なご長寿さんである。

人好きのするほほ笑みといい、丸く垂れた目元といい、禿げあがった頭頂部といい。

老齢なのにどことなく赤ちゃんを思わせる風貌をしているのが、なんとも親しみやすい。

それでもかくしゃくたるもので背筋はまっすぐだし、黒い僧衣もピシッと着こなしていた。


「そんなに気に入っていただけましたか」

「ええ、素敵!」


 思わずうなずき返していた。


「こんなにきれいなチャペル、見たのは初めてよ!」

「それはそれは。嬉しいことを言ってくださる」


 上品に微笑まれると、つられてこっちまで嬉しくなってしまった。

 

「失礼ですけれど、ここの管理人か何かをされてる方ですの?」

「ほほほ、まあそんなものです」


言いながらおじいちゃんは、ごくごく自然にベンチの私の隣にひょいと腰を下ろした。

なんというかそういう所作のひとつひとつにも自然な無遠慮さというか、マイナスの印象を与えないというのがこの老人の特技のようだった。

老人が片手に提げていた袋の中身をごそごそとやり始めたので、私の視線もそちらに吸い寄せられた。


「外はお寒かったでしょう。いかがですかな、体を温めるのに一杯?」

「おっ、これはこれは……」


 おじいちゃんがベンチの脇に取り出したのは、特徴的な形のガラス瓶とグラスのセットだった。

日光を通さない濃色の瓶の中身といえば決まっている。

お酒だ。


「私が昔いた教区で取れたブドウから作ったワインでしてな」

「ほうほう」

「そこの修道院秘伝の製法で作った赤ワインです。3年ものの蔵出しですぞ」

「おぉ、それはそれは!」

≪おいおい、良いのかよ酒なんか飲んで≫


 おじいちゃんが堅そうなコルクに手をかけたところで、足元のタヌタヌが口を挟んできた。


≪これから国王に会うんだろ!≫

(だいじょーぶだいじょーぶ。この体、お酒にはめちゃ強いんだから。ワインの一杯や二杯じゃ顔色も変わらないわ)


悪役令嬢の体に転生してから思い通りにならないことばかりの人生だが、この体で良いことが二つだけある。

一つは自分で言うのもなんだがひいき目なしにグンバツの美形であること。

もう一つはよほど肝臓が強いのか、お酒を飲んでも全然悪酔いしないことだ。

上司から無理に飲まされるビールで吐いていた前世のことを思い出すと涙が出るくらいたくましい体である。


≪せっかく化粧したのに酒なんか飲んで良いのか?≫

(口紅くらいちゃんと自分で持ち歩いてるわ。すぐ塗り直せるわよ)


 うるさいことを言ってくるタヌタヌを片足で押しのけて、おじいちゃんが器用に小さなナイフを使ってワインのコルクを抜くのを見守った。

そのままチューリップ型のグラスに静かに注いでくれる。

鮮紅色の液体が並々と注がれるのと同時に、まるで香水を振りかけられたような香りが私の鼻先まで広がってきた。

こりゃあ本当に良いワインだぞ、と舌なめずりする。


「どうぞ」

「どうもありがとう!」

「少し時間を置いてからの方が、味と香りが広がってよろしいですな」


 すぐにかぶりつきそうな勢いでグラスを受け取った私を、おじいちゃんが静かにたしなめてきた。

ちょっとバツの悪い思いをしながら、仕方なく窓からの光に透かして色や泡の形を確かめてみる。

もちろん知識なんか欠片もない私にはソムリエのようにワインのポテンシャルを見抜く眼力があるはずもないが、目の前でおじいちゃんが真剣な目で色や濃さを鑑定しているので、真似をせざるをえなくなったのだ。


「ふむ、良い出来だ。3年前は雨が多くてブドウの質があまり良くないと聞いていたが、うまく作れたようですな」


 おじいちゃんが感心したようにつぶやくが、私には良く分からない。

ただ時間が経つにつれ先刻の華やかな香りに続いて、今度は甘いお菓子のような思わず心が浮き立つような香りが漂ってくるのだけは分かった。


「そろそろよろしいですな」


 長いことお預けを食らったような犬のように、その声が聞こえた瞬間グラスに唇を当てた。


「……!」


 口に含んだだけで両手いっぱいに花束を抱えたような多種多様な香りが、舌の上から鼻の奥へと駆け抜けていった。

まるで香水と花束と果物のかごの中身をまとめて液体にしたような、複雑極まりない味と香りをどう表現したらいいのだろう。

続いてアルコールの苦味とコクがゆっくりと口中を満たし、最後にかすかに生クリームのような甘さがすっきりと喉の奥へと流れ落ちていく。

飲み下してもまだ余韻が口の中で存在感を放ち続けていた。


「……いや、これはめちゃくちゃ美味しいわ! うまく言えないけど、とにかく複雑な味!」


 まるでジュースのような飲み口の優しさに、考えるより先にグラスを突き出してお代わりを要求してしまう。

おじいちゃんは笑いながら瓶を傾けてくれた。


「悪くないですが、まだ少し若いですな。あと5年ほど待ってからがこのワインの真骨頂でしょう。角が取れて深みが出て、さらに美味しく飲めますよ」

「そんなに待ちきれないわよ!」


 素直な感想が口から飛び出してきた。


「熟成とか飲み頃とか難しいことは全然知らないけど、とにかく美味しいわ、これ!」

「それが何よりの褒め言葉ですよ」

「あ、でも良いの? 神父様が昼間から飲んだりして?」


 2杯目は舐めるようにゆっくりちびちび味わって飲もうと心に決めながら、ふと思いついた疑問をぶつけてみる。


「ワインは救世主様の血ですぞ。こうして飲んで神と大地の恵みを称えるのも、信仰のひとつの形というものです」

「なんて立派な神父様なの……!」


 実に素晴らしい教えだ!

かつて私が出会った教会の僧侶で、言葉によってこんなに感銘を与えた人が他にいただろうか? 

いや、いない!(反語表現)


「じゃ、改めてかんぱーい!」

「かんぱーい」


 互いのグラスで軽く音を立てた。


「今更ですがそちらこそよろしいので? 王宮に来られたからには、この後何か人に会う要件でもあるのでは?」

「あー、大丈夫大丈夫。ワインの一杯や二杯、どってことないって」

「どうぞどうぞ。一杯や二杯と言わずに、お好きなだけ」

「こりゃどうも、催促したみたいで。しかし飲みやすいわねぇ、このワイン」

「そりゃそうでしょうとも。教会の秘伝の製法で作ったワインでしてな。なるべくブドウの木を低くしたり、特別な畑で取れたブドウの房だけを選んで仕込んだり、それなりに手間をかけて作っております」

「へえ、そんなことでこんなに美味しいワインになるんだ」

「経験の蓄積というものです。教会の荘園の畑は農業指導や品種研究もしていますから」

 

 神父が畑仕事までしているとは知らなかった。

そういえばオズエンデンドでアメシス神父が囚人たちに食べさせる野菜を作っていたな、と思い出した。


「教会も何かひとつくらいは良いことをするのね!」

「あははは、おっしゃる通り。何でも取り柄のひとつやふたつはあるものです」


 ワインの周りが早いのか、おじいちゃんの笑顔につられたのか、ついつい突っ込んだ感想を漏らしてしまった。


「いやー、こんな素敵なチャペルでこんな美味しいワインまでいただけて。めったにできない経験だわ」

「そこまで褒めて頂けると嬉しいですな。実はこの礼拝堂を作るときに、私の考えも取り入れていただいているのですよ」

「ほうほう」


 このチャペルができる前から王宮にいるということは、相当な古株らしい。

何か面白い話でも聞けるかと、私はついつい前のめりになった。


「それはすごいわね! もしかして本業は設計士か何かとか?」

「いえ、私は図面は引けませんよ。私がしたことといえば、天井画のモチーフを選んだり大理石の意匠を決めさせてもらったりしたことくらいです」

「へ?」


 思ったより大きなことを言ってきたので面食らった私に、おじいちゃんはニコニコあちこちの柱の彫刻を指さしてみせた。


「例えばあの天使たちの彫像。ちゃんと順番と序列があって、全て私が決めさせてもらいました。前国王陛下はそういうことには無頓着なお方でね」

「は、はぁ……」

「そのくせ、『早くやれ。今すぐやれ。どうして時間がかかるんだ』というのが口癖で。いやあ大変でした」

「……」

「あの奥のオルガンが見えるでしょう?」

「え、ええ。とにかくでかいわ」


 一体金管が何本あるのか数えきれないくらいの巨大オルガンが鎮座しているのが見えた。

ミサがあるときなどには何人かがかりで操作して空気を吹き込んで大音量の聖歌を演奏するのであろう楽器を示しながら、老人は自慢げに笑みをこぼした。


「いきなり王国で一番大きなのを用意しろと言われてね。やむなく工房で作れる最大のものを発注したら、入口よりも大きくなってしまったんです」

「へ、へー……」

「分解して運び入れるのに苦労しましたよ。一度組んだ壁を崩さないといけなかったんです! いやあ、あの時は職人たちに悪いことをしました」


 悪びれる様子もなく、老人はおかしそうにぺちぺちと薄毛の頭を叩いてみせた。


 ……ちょっと待て。

ついついまだ口をつけていない二杯目のグラスに目を落としてしまう。

このワイン、本当にアルコールの回りがものすごく早いんじゃないか?

あるいは隠し味に何かやばい成分でも入ってるのか?

管理人のおじいちゃん神父様が、急にでかいホラを吹き始めたぞ?


(アンタはどう思う?)


 アルコールが入っているはずなのに背筋がうすら寒くなって、タヌキに助けを求めた。


≪分からん。俺は精神疾患は専門外だ≫

(やっぱりそう思う!?)

≪認知症なのか誇大妄想なのか虚言癖なのか、今のやり取りだけじゃちょっと……≫


 タヌタヌがヒゲをぴくぴくとさせる。


(気の毒に……。自分が前国王陛下と友達だったと思い込んでいるのね……)

≪まだ体の方は達者そうなのにな≫


 タヌキと一緒に気の毒な視線を投げかけてしまう。


「どうしました?」

「いえ、何でもありません。それよりグラスが空いてますわ。お注ぎします」

「おお、これはどうも。急に親切になられました?」


 素晴らしいチャペルとはいえ王宮の外れで一人勤務するかわいそうな老人だ。妄想で自分をなぐさめたくなるのかもしれない。せめてこの一時くらいは優しくしてやろう。

そう思ってワインの瓶を手に取ったところで。


「どうもお待たせしました、レセディ。次はどこへ……」


 祈りを終えたマダマさまが戻ってきた。


「わっ!」


 慌ててワインの瓶と、ちょっと迷って並々と鮮紅色の液体をたたえるグラスを背後に隠した。


「? 何の匂いです? まさか、お酒……?」

「れ、レセディ嬢! 飲酒なさっているのですか! これから国王陛下に拝謁するのですよ!?」

「ち、違うわ! 一杯だけしか飲んでないし!」


 自分でも言い訳にはなっていないと思いながら、声を張り上げたベリルのとっさに抗弁する。


「ほら、体を温めるだけよ! 顔も赤くなってないし、こうして口紅を直せば分かんな……」


 コンパクトを取り出してさっと唇にルージュを重ねる。

うむ、耳も頬も屋敷を出てきた時のナチュラルメイクの色味を保っている。

これなら飲酒がバレる気遣いは……。


「……ご老人。ご厚意には感謝しますが、明るいうちから婦人にお酒を勧めるのはどうかと思いますよ!」

「殿下のおっしゃる通り! 仮にもここは王室専用の礼拝堂です。不謹慎極まりない!」

「ははは、これは失敬。年を取ると考えが浅くなっていけませんなぁ」

『……』


全然反省する様子のないおじいちゃんの返しに、マダマさまとベリルが突然押し黙った。


「え、二人ともどうしたの? そんなに怒ってるの!?」


二人が目を見開いて固まっているのを見て、急に不安になってくる。


「わ、悪かったわよ。二人がいない間に私だけ良いワインを頂いたりなんかして……。マダマさまも飲みたかったの? でもダメよ、お酒は二十歳になってから!」

「そんなんじゃありませんよ!」


 余裕を失った声でマダマ様は短く叫び、ベリルは直立不動の形に背筋をピンと伸ばした。


「まあそう堅くならずに。お二人もワインをいかがです? グラスをお持ちしますが」


 ニコニコとおじいちゃんがなだめるように取りなしてくれたので、すかさず便乗することにした。


「そうよそうよ。おじいちゃんだってこう言ってくれてるんだし……」

「おじいちゃん!? レセディ、この方がどなたか知らないんですか!?」

「ここの管理してる神父様でしょ?」


 それも誇大妄想の気があるようだ、という一言は付け足さずぐっとこらえた。


「王都大主教猊下ですよ!?」

「なに、偉い人なの? それって?」


 目を見開いたマダマさまは、パクパクと酸欠の金魚のごとく口を開閉させた。

見かねたベリルが、自分の真正面から視線を動かさず実に気まずそうに説明を継ぎ足してくれる。


「……宮中席次序列第一位のお方です」

「は?」

「儀礼の上では宰相閣下よりも上位におられるお方、といえばお分かりですか?」

「…………」


 相変わらずニコニコしたおじいちゃんの禿げ頭と、青白い顔で突っ立っているマダマさまとベリルの二人を見比べてから。

私は決然として言った。


「そんなわけないじゃん」

『は?』

「騙されないから!」


余談ですが私はお酒は一滴も飲めないのでワインの表現は全部想像です

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