血の大晦日(8)
「……」
浅い眠りから覚めた。
大晦日らしい冷たい朝の空気が鼻孔をくすぐってきて、枕に向かって小さくくしゃみをしてしまった。
「……はぁ」
昨晩はいつもより大分早く床に着いたのに、あまり良く眠れなかった。
夜中に何度か目が覚めては、寝返りを打っていた記憶がおぼろげにある。
緊張のせいだろう。
「こんな日にぐっすり眠れるほど、自分が大物じゃないのが恨めしいわ……」
今日は重要な日だ。
いよいよ本格的に社交界に出るためのお披露目の日であり。
そのデビューである王宮の年越しパーティーの日であり。
そして数少ない……もう二度とないかもしれない、周囲に人がいない状態で王様に近づくチャンスの日でもある。
晴れ舞台のお披露目や年越しパーティーが楽しみで眠れない、なんて遠足の前日の子供みたいな理由だったらよかったのだが。
社交界の仲間入りをするプレッシャーに加えて、アンベル王妃とカイヤ王女について国王陛下に決断をうながさなければならない。
これまでこの世界の常識に反して好き放題やってきた私でも、流石に緊張くらいはする。
(でも泣き言は言わないわよ)
口から出かかった弱音はぐっと飲み込んだ。
今のままではいけない。
タヌタヌの見立てでは免疫不全に由来するカイヤ王女の病状は、確実に王女の体力を奪っている。
アンベル王妃はそのメカニズムも知らずに懸命に守ってきたが、それもいつまでも続くまい。
このままでいたらあの親子はくたびれきって擦り切れてしまう。
そうなる前にあのフュルト・シュパート離宮で農村の真似事をする生活から引き離し、しかるべき環境で療養させなくては。
それを看過できないからこそ、衛士隊の不穏な動きを口実に、あの親子を王宮から引き離したのだ。
もうイモを引くことはできない。
そう自分に言い聞かせる。
(……はぁ)
心の中でため息をついた。
きっとこれからの将来、こんな気の重い朝を何度も迎えるのだろう。
今回は王妃と王女様のことで責任を負わなければならないのだが、もうこの国の混乱と動揺からは私は無関係ではいられないのだ。
あの宰相が良い例だ。誰もが好き勝手な思惑を抱いて、否応なく私やマダマさまを巻き込もうとしてくる。
(今思うと、自分のお見合いのことだけ考えていられた時は楽だったなぁ)
偶然にも出自を同じくする変なタヌキを拾って。
ひょんなことから見知らぬ王子様の運命を完全に変えてしまって。
それから何がなんだか分からぬうちに無我夢中でやっていくうち、すっかり所帯が大きくなってしまった。
タヌタヌにマダマさま。クォーツ三姉妹ほかオズエンデンドの人たち。モルガナ他スターファから来た連中。そして他人事は思えずに保護したパイとマーカスの二人。
私が今逃げ出したら、たくさんの人たちの道が閉ざされることになる。
冷たい空気を深く吸い込んで、意を決して体を起こした。
「しっかりしなきゃ………」
≪そうだ、タイトルは『タヌキーの原罪』! こりゃあ流行るぞ……!≫
半ば自分に言い聞かせたつぶやきに、思わぬ返事が返ってきてぎょっとする。
見ると絨毯の上に置いたバスケットの中で汚い毛玉が……。
もとい、タヌタヌが丸くなってもごもごと口元を動かしていた。
「一体どんな夢見てんのよ……」
がっくりと肩から力が抜けるのを感じた。
……案外難しく考えるのはやめて、こいつを見習ってもう一度寝に入るべきだろうか?
暖かい寝床の誘惑に一瞬思考の天秤が傾きそうになったが、ドアの向こうからの声がそれを打ち消した。
「お嬢様。おはようございます」
トパースが私を起こしに来たのだ。
いつの間にか起床時間になっていたらしい。
毎朝変わらない光景のはず……なのだが、今日は忠実なメイドの声の調子が妙だった。
「お、おはよう。トパース。どうしたの、調子悪いの?」
ドアを開けて入ってきたトパースは、まるで雲の上を歩くかのようなふらふらした足取りだった。
顔色も悪いというか土気色じみている。
病気か何かにかかったのかと一瞬慌てるが、濃い色のクマにふちどられた丸い目だけが爛々と生気に満ちて輝いていた。
「いいええ、とんでもないぃ。絶好調ですともぉ…」
普段の控えめな彼女の声が不自然に重厚な響きを伴っている。
平たく言えば、ドスが効いた妙に迫力のある声をしていた。
返事に反して足元をもつれさせたトパースは、タヌタヌが惰眠をむさぼるバスケットを蹴飛ばしてたたらを踏んだ。
≪ぎゃんっ!?≫
「うふふふふ……」
悲鳴を上げて飛び起きるタヌキの様子にも気づかず、トパースはニコニコとほほ笑んでいた。
あ、やばい顔だ。
前世のOL時代、繁忙期のデスマーチを思い出す。
寝不足の人間が脳内麻薬の作用で作り出す、歪んだ笑みだった。
「早速ですが、朝のお仕度が終わりましたらドレスの試着をお願いします」
「ちょっと待ってトパース、あなたもしかして寝てないの?」
今日着ていくためのドレスを仕立て直すのに執心だったのは知っているが、まさかここまで全身全霊を傾けていたのか?
メイドが悲壮感すら漂わせる笑みでさらに顔中を歪ませたのを見て、私は自分の予感が的中したことを悟った。
「寝ておりますよ、三日間で5時間ほど……」
「そういうのを寝てないって言うのよ!」
「大丈夫です。人間は寝なくても死にはしません」
「死ぬわよ!?」
「あはははははは……」
「いや、何その笑い!?」
ダメだこりゃ。
自分が何を言っているかももう理解できていないようだ。
寝不足でハイになった高揚感と、意地と惰性でかろうじて意識をつなぎとめているだけだ。
「ドレスなんか良いからちょっと休みなさいよ!?」
「お嬢様より先に休むわけには参りません」
「いやもう私は寝たから!?」
「そんなに慌てないでくださいまし、お嬢様。横になるのは棺桶の中でいくらでもできます」
「しっかりしてトパース!?」
既に会話している意識自体なくなりかけているようだ。
支離滅裂なことを口走っている。本気で言っているとしたら更に恐ろしい。
「今すぐ寝なさい!」
「お嬢様のドレスの仕上げが終わりましたらいくらでも……」
「分かった、分かったから! すぐ試着するわ、それでいいでしょ!?」
≪何々、何があった!?≫
朝食どころの騒ぎではない。寝ぼけ眼でうろたえるタヌキなんて問題にもならない。
相変わらずふらふらと頭を上下させているトパースは、すでに意志力が肉体の限界を超えている状態だ。
望み通りにして、少しでも早く休ませなければ。
その一心で千鳥足のメイドを支えるようにして、私はドレスルームへ向かった。
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『お待ちしておりました!』
何故かドレスルームでは、大公夫人お付きのメイド隊が勢ぞろいして待ち構えていた。
「……なんか人数増えてない?」
「私ひとりでは追いつきそうになかったので、このお屋敷のメイドの方々にも手伝っていただきました」
「そこまでする必要ある?」
「ありますとも!?」
青息吐息だった腕の中のトパースが、いきなり力感を増して反論してきた。
くわっと目を見開いたその迫力に圧されてしまう。
「そうですわ、トパースさんはメイドの身命をかけてドレスの用意を……」
「レセディ嬢ったらひどーい!」
「幻滅ですわ!」
口々にメイド隊の面々が私を非難し始める。
妙な連帯感まで生まれている上に、どいつもこいつも血走った眼をしていた。
「……まさか全員完徹したの?」
『もちろん、こんな時に寝ていられません!』
「あなたたち生き急ぎ過ぎじゃない?」
大公夫人のお付きの仕事はどうするつもりなのだ、この連中。
「トパースさんの仕事を見ていたら、のんきに惰眠をむさぼってなどいられませんわ!」
「もう三日もほとんど徹夜で、食事もまともに取らずに……」
「なんという忠誠心!」
「彼女こそ、婦人付きメイドの鏡ですわ!!」
「私の知ってるメイドの仕事と違うわ……」
果たしてそんな締め切り前の週刊漫画家みたいな過酷な職種だっただろうか。
「わ、私たちの努力の結晶です。受け取ってください、お嬢様……!」
「なんだかドレスが重く感じるんだけれど……」
渡されたドレスがずしりと感じるのは決して気のせいではないし、余白を探すのが難しいほどしつらえられたコサージュや刺しゅうによる質量だけによるものでもあるまい。
周囲のメイドたちからのプレッシャーにさらされながら着替えるのは決して心地良いものではなかったが、ここで迂闊なことをしようものなら徹夜で興奮しきった彼女たちに何をされるか分からない。
黙ってされるがままにドレスに着替えた。
「おぉ……。ぴったりだわ!」
手に取った時よりも着た時に軽く感じるのは良い仕立ての証拠というが、トパースの手による白いドレスもその例に洩れなかった。
丈も周囲もぴったり。何度も仮縫いと試着に付き合わされた甲斐があるというものだった。
「いや本当にすごいわよこれ、前とは別物じゃない!」
姿見鏡に移るのが、とても数日前と同じドレスと思えなかった。
シルエットは大幅に変わって、前に流行した派手な型から最新のモードにあった優美のラインへと破綻なく改められている。
そんなに手を尽くさなくて良いとは言ったが、こっちの方が私の好みだった。
着心地といい、上品な見た目といい。
とても2年も前にしつらえたドレスを直したものとは思えないくらいだ。
「おぉ、なんて素晴らしい……!」
メイドたちが黄色い声を上げる中、最前列のトパースが感嘆の声を上げていた。
「ありがとうトパース。最初に見た時は、まさかここまで良くなるとは思ってなかったわ!」
「ま、まことに光栄の極み……。身に余るお言葉ですわ、お嬢様!」
目元に涙まで浮かべてそうつぶやいたトパースが、大きくよろめいた。
周囲にいたメイドたちが慌ててその左右から支える。
「ちょ、トパース! 本当に横になった方がいいわよ!」
かろうじてつなぎとめられていた神経の糸が、自分の作品の成果を見届けた達成感と安堵で途切れそうになったに違いない。
周囲のメイド隊も流石に色を失って別室に運ぼうとするが、トパースは最後に残った力で抵抗しようとした。
「待ってください、まだ倒れるわけには参りません!」
「うぉっ!?」
再び血走った眼を見開いて、トパースは真っ向から私の方をにらみつけた。
睡魔と疲労でボロボロになり、もうほとんど意識もないだろうに。超人的な意志力である。
「お嬢様の、お嬢様の晴れ姿をこの目で焼き付けるまでは―――!」
「ひ、ひっ……!?」
その迫力についつい後じさりしてしまった。
私の方が部屋から逃げ出したくなったくらいだが、トパースの力に満ちた充血した目が逃げることを許してくれなかった。
蛇ににらまれたカエルそのものの硬直が何秒続いたことだろうか。
見えない手で心臓をつかまれているようで息もできないでいたところに、トパースの表情がふっと緩んだ。
「綺麗ですわ、お嬢様……!」
それだけつぶやくと、限界を迎えたトパースはくず折れた。
「ちょ、大丈夫!?」
『トパースさん!?』
糸が切れた人形のように力を失ったトパースの両腕をメイドたちがつかみ、かろうじて転倒を免れる。
「お嬢様に栄光あれ―! ……ぐふっ!」
最後に万歳をしながらそう言い残して、トパースは目を閉じた。
……この暑苦しいノリ、どこかで覚えがあるぞ。
そうだ、因業親父が調子に乗った時に実によく似ている。
メイドって主人に似てくるのだろうか?
「お美事、お美事な仕事ぶりですわ!」
「あなたと一緒に働けたことは私たちの誇りです!」
「メイドの魂よ! 宇宙に飛んで永遠によろこびの中に漂いたまえ!」
熱い涙を流しながら、わっと寝息を立てるトパースの周りに集まったメイド隊が好き勝手なことを口走り始める。
まるで戦場で英雄的な行為に散った戦友を称える兵士のようだ。
そのノリについていけずに、そーっと隠れてドレスルームの出入り口の方へ移動する。
「あ、脱ぐのはルチルにでも手伝ってもらうわ! トパースのことよろしくね? ……それじゃ!」
社交パーティーへ行くときって、こんな風に逃げるように出ていくものだったかしら?
首をひねりながら私はそそくさとその場を後にした。
今年は漫画版の開始に単行本の発売と思ってもなかった幸運に恵まれた年になりました。
本当にありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。




