うごめく闇(5)
アルトゥは私の指示通りにした。
つまりは馬の脇腹を蹴って、全速力で道の上を駆けさせた。
「ひぎゃあああ!」
《ふぉぉぉぉ!?》
風がその透明な手で髪の毛をつかみ振り乱していく。
上下動する視界は、2メートルに達する視界の高さもあって本能的な恐怖を揺り動かした。
息が詰まる。頬の肉が後方に引っ張られそうになる。
半泣きになった目をまだ開けている理由は、閉じたらもっと怖そうだという恐怖に耐えられなかっただけのことだ。
「ちゃんと口を閉じていないと舌を噛むぞ」
見事な手綱さばきで二人と一匹の乗った馬を操りながら、アルトゥが静かに忠告してくる。
むち打ちになりそうなほど揺れる馬の上だというのに、憎たらしいほど冷静な口調だった。
返事も返せず、タヌタヌと一緒に鞍にしがみつく他なかった。
「……えっ、あっ、着いたの!?」
急に馬の速度が緩んだのに気付いて、慌てて顔を上げる。
「人だ」
言われて初めて、道の先行きで人がごった返しているのに気付いた。
一瞬暴動に追い付いたのかと思ったが、どうも様子が違う。
ざわめきや困惑の様子から見るに、火災が起きたのを心配して出てきた商業区の住人といったところだろう。
「このままじゃ進めないぞ」
流石のアルトゥもそのくらいの分別はあるらしい。
こんな往来、それも混雑の中を無理矢理馬で通ろうとしたら大騒ぎだ。
「どうする?」
《そりゃ残念だ! 仕方ない、これ以上は諦めてうちにゆっくり歩いて帰ろう!》
「ダメよ! 回り道してでもうちに向かって!」
あの白煙の下では親が死にかけているかもしれないのだ。
どの道この混雑では馬を降りても思うようには進めまい。
ここはアルトゥの馬術に頼るほかはなかった。
「…………」
アルトゥはしばし考え込むように、道に面した住宅街の方を見やった。
このあたりは比較的裕福な商人が多く住む地域で、花咲くこじゃれた庭やバルコニーを持つ邸宅が立ち並んでいる。
防犯のために鉄柵や石壁で囲まれたそれらの庭先を、アルトゥはじっくり見分してから言った。
「どうしたの?」
「あっちを抜けていったら早いな」
「は?」
アルトゥが馬首を巡らした。
その先には道に面した庭に人が入れないよう、頑丈な鉄柵を構えたお宅があった。
「良いな、腰を浮かせて衝撃を吸収しろ」
「は?」
「馬の脇を膝で締め付けるんだ」
「えっ? えっ?」
指示を実践するどころかその意味も分からないままでいる私を無視して、アルトゥは大人の背丈くらいもある鉄柵へと馬を走らせた。
「ちょ、ちょ、ちょっと――――――ッ!!?」
《アラート! 前方に危険物! 前方不注意だってば!!》
目の前に迫る鉄柵に、私とタヌタヌが泡を食った瞬間。
馬の体が一瞬大きく沈み込み、次の瞬間視界が大きく持ち上がった。
いきなり目の前に、冬の王都特有のどんよりと曇った空が広がる。
「――――――ッ」
ああ、馬ってこんなに高く飛べるんだ。
素朴な感想を抱いたと思ったら。
「いだ――――――!?」
着地の衝撃が押し寄せてきた。
アルトゥの指示を実行なんかできるはずもなく、したたかに鞍にお尻を打ち付ける。
2メートル近い高さから尻もちをついたのと同じ衝撃に身を震わせる私を無視して、
「よし、次行くぞ」
馬の脚で庭の芝生を踏みつけながら、アルトゥは隣の邸宅との境界線である生垣へと向かった。
こうやって庭の間を通り抜けて火事の方へと向かうつもりのようだ。
……つまりは邸宅の間を踏み越えるたびに、さっきの大飛越競技並みの大ジャンプをすることになる。
「……ッ」
胸の中に死の予感が沸いた。
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「死ぬ、死ぬ、死んだわ……」
《あ、アンベル王妃に伝えてくれ……! オレは死ぬまで立派なタヌキだったと……!!》
嘔吐せずにいられたのは、単に昼食から時間が経って胃の中がほぼ空っぽだった幸運に恵まれたに過ぎなかった。
タヌタヌと一緒にへろへろになりながら、私たちはなんとか貴族の住宅街までたどり着いた。
「そろそろ見えそうだぞ」
平然とするアルトゥの言葉通り、煙の臭いが鼻を突いてきた。
燃えがらの微粒子が目を刺してきて思わずまぶたを閉じてしまいたくなる。
「おお、ちょうどいいわ!」
ごった返す群衆の向こうに我が家の屋根が見えた。
不法侵入と庭に足跡を刻み付ける損壊行為を繰り返した結果、図らずもショートカットの形になったらしい。
「はい、どいて! ごめんなさいよ! 路上は馬優先よ!!」
適当なことを言いながら、群衆の中を分け入って行く。
いきりたつ人々はみんないきなり現れた馬と、アルトゥの格好に戸惑ったようだが、ついで私を認めて声を上げた。
「レセディ・ラ=ロナだ!」
「オズエンデンドの聖女だ!」
「なんでこんなところに!?」
宰相閣下の情報工作は、私たちが思っていた以上に市井に浸透していたようだ。
驚嘆の声を上げながら、群衆は目を丸くして道を譲ってくれた。
そうでなければこんなに混雑する中を馬に乗ったまま進むことなどできなかっただろう。
(なんだかなぁ……)
面はゆい気持ちになりながら、とにかくこの場は利用するしかないと割り切って格好だけでも平然として見せた。
そうやって私たちは、ついにロナ家の屋敷の前までたどり着いた。
「着いたぞ」
「ありがとう。馬がこんなに怖い乗り物だなんて……!」
《オレ帰りは絶対歩いていく!》
アルトゥに降ろしてもらいながら二人で固く誓い合った。
ロナ家の屋敷は正面の鉄門が開け放たれ、中からはもうもうと煙が立ち込めていた。
門の外からでも髪の先端を焦がしそうな熱気が押し寄せてくる。
火災はかなり燃え広がっているらしい。
その周囲を、声を上げて敷地内に入り込んだ群衆が取り囲んでいた。
「通して! 行かせてちょうだい! ここは私の家よ!」
タヌタヌの上半身を肩に乗せて、なんとか人ごみをかき分けて燃えている建物まで近づいた。
「……ッ!?」
見るも無残な有様だった。
地獄の業火のような火が建物を好き放題になめ、倒れた柱が炭化し斜めに傾いている。
因業親父が金にあかせて改装を繰り返した、華美な建物の姿は見る影もない。
あの中に両親がいるかもしれない。
心は通っていないし、正直うっとうしく思うことの方が多かったが、それでも十数年間育ててくれた恩義は忘れようもない。
「お父様! お母様!」
叫ぶなり駆けだそうとしたところで。
「レセディ嬢!」
覚えのある声が聞こえるのと同時に、ぐいと腕を引かれていた。
何事かと振り返ると、よれよれの古着を着た大男がいつのまにかすぐ背後に回っていた。
「ベニさん!?」
いつまでも返ってこないと思ってたら、こんな暴徒どもに紛れて何をしているのだ?
驚きで一瞬思考が止まりかけたが、思い直して手を振り払った。
「無茶ッスよ!」
「止めないで、両親が中にいるかもしれないの!」
「早まっちゃダメッス!」
「私は行くわ!」
《おい、やべーってば!》
タヌタヌとベニさんに背を向けて、今まさに焼け落ちようとする玄関口へと思い切り駆けた。
「だから大丈夫なんッスよ! 館の住人は、避難してみんな外にいるッス!」
《おい! お前の親父とお袋もちゃんといるぞ!!》
「……うぉぉぉ!?」
思い切り肺の中に煙を吸い込んだのと、ベニさんとタヌタヌの声が聞こえたのは同時だった。
もう少しで前髪に火が付きそうなところで慌てて引き返す。
ゲホゲホとセキ込み、よだれを垂れながしながらじりじりと背中を焼かれる熱気からなんとか距離を取った。
「え、えっ? ……はぁ!?」
「ほら、この通り」
確かに彼の言う通りだった。
さっきは気付かず横を通り過ぎてしまったが、呆然としている父親と気を失って介抱されている母、それから使用人みんなが一団となって小さく固まっていた。
安心したら急に喉がいがらっぽく、目に煙が染みてきた。
「うへっ、ゲホッ! おえぇぇ……!!」
「だ、大丈夫ッスか?」
「……ちょっと! 中に人がいないの知ってたなら、もうちょっと頑張って止めなさいよ!?」
もう少しで勘違いして、親の目の前でダイナミックな焼身自殺をするところだったんだぞ!?
「いちおう止めたッスよ」
「力任せに羽交い絞めにするとかいろいろあるでしょ!?」
「そんなことしたら後が怖いっス……」
「なんですって!?」
反省が見えないのでつい怒りから手が出そうになったが、ベニさんは巨体に似合わぬ身軽さでさっと飛びのいた。
「……しかもよく見たらこれ、燃えてるのは母屋じゃなくて離れじゃないの!」
「そうッスよ。ロナ伯爵たちは、離れに火が付いたのを見て慌てて本館から出てきたッス」
動転していたから気付かず飛び込みそうになったが、『うちの建物ってこんなに門から近かったっけ?』と一瞬脳裏に浮かんだ予感の方が正しかったらしい。
十数年間寝起きした本館は煙の向こう側にいつも通り鎮座していた。
燃えたのは鉄門からほど近いところにある離れの方だ。
「どういうことよ!? 何のために私、痛い思いまでしてここに来たの!?」
「そんなことオレに怒られても……」
誰に向ければ良いのか分からない感情が湧き出してきて、私はむしゃくしゃと髪をかきむしった。
「おい、姉上。やばい雰囲気だぞ」
一人で悶えていると、アルトゥが馬上から冷静な声をかけてきた。
「…………み、みんな! 聞いてくれ、話せばわかる!」
焼死こそ免れたものの、父親は興奮した群衆に囲まれておろおろとうろたえていた。
理由は分からないが、とにかく屋敷内の建物に火をつけられる程度には恨みを買っていたらしい。
そんな男が身一つで暴徒たちの前に飛び出して来たらどうなるか、結果は火を見るよりも明らかだ。
「ちょ、待って……!」
「まずいッスよ!」
《下手なことするとこっちが恨みを買うってば!》
止めに入ったところで、またベニさんとタヌタヌに諌止される。
確かにこの人数が興奮したら巻き込まれて、こっちがどうなるか分からないが、それでも目の前にいるのに見捨てることなんてできるはずもない。
大声を上げてとにかく群衆の注意を引こうと、煙たい空気を吸い込んだ瞬間……。
「おやめなさい」
静かな柔らかい声が耳朶を打った。
まるで糸か何かで操られるかのように、顔がひとりでにそっちを向く。
私だけではない、ベニさんもタヌタヌもアルトゥも、そして目を血走らせていた群衆も同じく振り返った。
「…………」
潮が引くように群衆がさっと道を譲る中を、一人の美女が歩いてきていた。
決して急がず、どちらかといえばゆっくりとした足取りで。
黒い長髪、黒い瞳。服もブーツも黒い。
長いまつげと、おっとりと垂れた両目が妙に印象に残った。
それは奇妙な光景だった。
その場の全てのものが、呼吸を止めて彼女に見入っっていた。
興奮していた暴徒たちも、すくみ上っていた父親も、その姿から目が離せない様子だった。
私の方まで彼女を見ていると、得体のしれないものが心に湧き出してきた。
大公夫人のような威圧しまくるのとは違う。
モルガナのような人気取りでもない。
そこにいるだけで、周囲だけ重力が変わったかのような存在感。
困惑が全身を貫いた。
その感覚は決して不快ではなかった。
むしろ無性に心地よかった。
なぜそう思うのか、自分でもその理由が分からず、私はただ戸惑うことしかできなかった。




