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三等警護官ベリル=スマラクトの憂鬱(3)

 その日の夕方。

くたくたのボロ雑巾のようになってマダマさまは帰ってきた。



「お、おかえりなさい……」

「ただいま……」



 王子様はよろよろとリビングに入ってきたと思えば、千鳥足でようやくソファまでたどり着いた。

そのまま行き倒れのごとく突っ伏して寝込んでしまう。



「だ、大丈夫……!?」



 流石に心配になって駆け寄った。



「今日の分の訓練もまだこなせていません、一休みして食事したら再開です……」

「気合は買うけれど、体の方がついていってないわ!」

「筋肉痛は走れば治るって聞きました……」

「よしなさい、本当に死んじゃうわよ!?」



 どう見てもオーバーワークだった。

なんでそこまでマッチョマンになりたいのか分からないが、彼にはやはりベリルの作った軍隊式訓練メニューは過酷過ぎる。


 

「大丈夫、まだ心は折れていません……」

「そういう問題じゃなくって! やり過ぎは体に毒よ、頑張って20キロも走ったので十分偉いんだから」

「5キロほど走ったところで動けなくなったんで、ベリルに背負われて帰ってきたんです……」

「あ、そうなの」



 突っ伏したままで後頭部しか見えないので分からないが、マダマさまの肩が微かに震えた。



「体いじめるだけがトレーニングじゃないわよ。ちゃんと食事とって、休憩もしなきゃ」

「そういえば、ベリルが特別な食事を用意すると言っていました」

「え? ベリルが?」



 意外だった。

彼女が食事の支度をするところなんか見たことない。

軍隊式の、岩みたいに硬いビスケットだの瓶詰だの干し肉だのレーションだの保存性とカロリー以外何も考えていない食事でもこしらえるつもりなのだろうか。

と、失礼な発想をしてしまったところで。



「お待たせしました」



 台所の方から、ベリルが食事のトレーを持ってリビングに入ってきた。



「鍛錬中の殿下には特別な栄養食を用意しました」

「それはどうも」



 ちょっと苦労しながら起き上がったマダマさまの前で、ベリルはトレーの丸蓋を持ち上げてみせる。



「メニューは?」

「山盛りの生野菜に鳥の胸肉、それからタマゴの白身のみです」

「うへぇ」



 確かに低カロリーで高タンパクなアスリート向けの食事かもしれないが、夕食としてはあまりにも味気ない。



「えーと……。これだけですか?」



【食べ物に贅沢を言ってはいけない】と上流階級の礼儀正しさを叩き込まれているマダマさまでさえ鼻白んだほどだった。



「ご安心ください。一度にトレーに乗らなかっただけです。これを三度召し上がっていただきます」

「いえ量の問題ではなく」



 主従がかみ合わない問答をしているところで、また台所の方から人が入ってきた。



「お夕食ですの!」



 今度はルチルだった。

ベリルと同じくトレーに食べ物を乗せて、弾む足取りでマダマさまのところへ向かってくる。


 

「珍しく新鮮なお魚や貝が手に入りましたので、お疲れのご主人様のためにルチルが特製のスタミナ食を作りましたの!」

「へえ、気が利くじゃない」



 無味乾燥としたベリルが用意したものと比べて、こちらはボリュームのある豪勢な見た目だし食欲をかきたてる良い匂いが鼻をくすぐってくる。



「特製のウナギのフライの赤ワイン煮込みに、生ガキの5種類薬味添え、それからエスカルゴの香草オーブン焼きですの!」

「……美味しそうだけれど、なんかメニューが偏ってない?」



 確かに栄養はありそうだが、疲労回復というより別の意味でのスタミナ食のようだ。



「男の方は疲れると性欲が増すって聞きましたの! ルチル特製のびやく……もとい、愛情もたっぷり入ってて滋養強壮精力増強子孫繁栄に最高ですの」

「アンタを一瞬でも信じた私が馬鹿だったわ」



 こんな不埒な目的で作られた手料理初めて見た。



「ご主人様、これを食べて元気を取り戻して欲しいですの! 特に体の一部分に!!」

「そんな食事は殿下には不要です!」



 いそいそと用意を始めたルチルに、ベリルが厳しい目を向けた。



「脂が多過ぎて贅沢な食事は、兵を育てるのに無益どころか有害です! 粗食と自己節制こそが強い肉体と精神を育てるのです」

「そんなワンちゃんのエサみたいな食事こそご主人様にはふさわしくありませんの!」



 妙なところで争いが始まってしまった。

警護官とメイドは互いに互いを押しのけて、自分の用意した方の夕食をマダマさまに食べさせようともみ合いしだした。


 

「やめなさい二人とも! 危ないわよ!」

「わっ、わっ!!」



 双方とも両手がふさがっている上に体格がまるで違う。

それだけにあっという間に不安定な姿勢になって、目の前のマダマ様が目を白黒させ始めた。



「あ!」

「むっ!?」

「ですの!?」

「ほら、言わんこっちゃない!」



 かろうじて拮抗していた状態は瞬時に崩壊した。

身長も体重もはるかに上回るベリルが押しつぶす形になって、ルチルの手から離れたトレイが宙に舞った。



「危ない!」

「きゃあ!?」



 マダマさまの顔に湯気を立てる料理が直撃するかと思われた、その刹那。

ぱっと少年がかざした手が、ルチルのスタミナ食の乗ったトレーをを空中で受け止めていた。



「おぉ、ナイスキャッチ!」

「自分でも不思議なほどです……!」



 熱い料理やカキの殻が顔に当たらなくて良かった。

マダマ様が青ざめた顔で、指先で支えていたトレーをおそるおそる膝の上に下ろす。



「ご、ご無事ですか殿下!」



 自分の作った夕食のトレーだけはしっかりと保持しながら、もつれあって床に倒れ込んだベリルが顔を青ざめさせた。



「何やってんの、あなたらしくもない」

「は、早くどいて欲しいですの!」

「こ、これは失敬……!」



 慌ててルチルの上からベリルは体をずらした。

余りにらしくない姿に『はあ』とため息が洩れてしまう。

トレーニングコーチとしてやる気が戻ったのはいいものの、どうやらまだ空回りは続いているようだ。



「……ルチル?」

「い、痛ぁ……!」



 ベリルがどいた後も、ルチルは立ち上がれなかった。

床にうずくまったままの姿勢で、メイドは深刻なうめき声を上げて右手を抑えていた。



_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/



 すぐにルチルは使用人部屋の自分のベッドに運び込まれた。

人をやって新しくできた診療所から人を呼ばせた。

スターファからやってきた、この村でおそらくは初めての医者だ。

もともと採掘作業員たちを中心に診てきた人だから、外傷の治療には慣れているはずである。



「大したことはありませんね。念のため4,5日は安静にしておいてください」

「どうもご苦労様」



 所見によると骨にも筋にも異常はなく、ただのネンザとのことだった。

ベリルともみ合って床に倒れた時に痛めた右手に包帯を巻いただけで治療もおしまい。

タヌタヌを呼んで診せるまでもないようで一安心……。

のはずだったのだが。

 


「ケホッケホッ! うぅ……ご主人様。ルチルはきっともう助かりませんの!」

「どうして右の手首をネンザしただけで咳き込むんですか……?」



 ベッドの上のメイドは何故か憔悴しきった姿で、わざとらしく咳き込んでいた。

弱々しい仕草で、ベッドサイドで呆れた様子のマダマさまの手を握ろうとする。



「ルチルのことをかわいそうな女の子だと思わないで欲しいですの。ルチルはご主人様にお仕えできて、悔いのない一生でしたの……!」

「何の雰囲気を出そうとしているんですか」

「せめて、せめて今生の思い出に、今夜は同じベッドでくんずほぐれず一晩愛し合って欲しいですの……!」

「ついさっき『4、5日安静にしてれば直る』ってお医者さんも言ってたでしょう」



 マダマさまはつれない態度で、しつこくすがりつこうとするルチルの左腕を振り払った。



「しかし困ったわね……。これじゃ紳士付きの仕事ができる子がいないわ」



 思わぬところで人手不足という我が領主館の問題が改めて浮き彫りになってしまった。

性根や人間性といった点では赤点も良いところのルチルなのだが、仕事ぶりに限っては評価せざるをえないという事情があるのだ。



「マダマさま付きの仕事ができるのはルチルだけなのに」



 セクハラ常習犯のルチルを追い出すわけにはいかない理由として、その特殊技能がある。

主人の身の回りで近似する使用人には結構高い地位を与えられるのが常だが、主人付きの仕事はなかでもかなりの要職である。

衣服や日用品を扱う丁寧な仕事はもちろん、大事なのは服飾を任せられるかどうかだ。



「いちいち細かいのよね、この国の衣装の決まりって」



 クローゼットを管理するのは主人付きの使用人の重要な役目である。

来客時にも主人に恥をかかせないよう、儀礼やTPOに合わせた服飾の決まりやドレスコードをちゃんと理解していなければ務まらない。

見栄と対面と権威だけで生きているようなファセット王国の貴族たちにとって、アウトマナーは死活問題につながりかねないのだ。



「急な来客があったときどうしようかしら」

「今までずっとルチルに任せきりでしたからね……」



 シャクに触る話だが、勤務態度とは裏腹にその点ルチルの仕事ぶりだけは完璧だった。

相手の身分や立場、重要度や公私のけじめに応じてばっちりとメンテナンスした紳士服を用意してくれていた。

その辺の上流階級の機微というものを理解しているのは他には私の侍女をしてくれるトパースくらいだが、本来婦人付きだから分野が違って完全な代行は難しいだろう。



「仕方ないわ。しばらくふもとの村からお手伝いさんを呼びましょう。その間は来客もなるべく断ることにして」

「そんな! お仕事はルチルの生きがいですの!」



 息も絶え絶えだったはずのメイドは、ばっとベッドの上に置きあがった。



「アンタは負傷者よ。寝てろとは言わないけれどお休みあげるから、大人しくしてなさい」

「冗談じゃありませんの、ルチルは右腕が使えなかろうと完全にお勤めを果たせますの!」

「ついさっき『もう助からない』とか言ってた割には元気じゃないの……」



 逆に感心してしまうくらいの豹変ぶりだが、ケガ人が相手では暴力に訴えて黙らせるわけにもいかなかった。 



「ネンザって無理したら癖になるらしいし、仕事が偏ったら左の方だって痛めちゃうわよ」

「まだ左腕が残っていますの! 左腕が潰れたら脚で、脚も動かなくなれば今度は口を使って、お裁縫やお洗濯をするだけですの!」

「何その無駄な根性……」

「そんな世話をされる方の身にもなってください」



 マダマさまと一緒になだめすかしてどうにか納得させる。

こういう時無理して復帰が長引けば余計困ったことになるのだが、当事者はなかなか感情的に理解できないものらしい。



「やーでーすーのー! キィィィ!!」

「いい加減にしなさい、子供じゃあるまいし!」



 とうとう枕をくわえてむずがりだしたメイドを叱りつけるのに気を取られて。


 

「…………」



 部屋のドアの向こうから神妙な顔で様子をうかがうベリルの存在に、その時は私もマダマさまも気づかなかった。

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