三等警護官ベリル=スマラクトの憂鬱(1)
「エレミア、出てらっしゃい」
領主館の庭先で、マダマは厩舎に向かって呼びかけた。
すぐに中から、金属がこすれる時の音に似た動物の鳴き声が返ってくる。
間を置かずにロバのエレミアが、長い耳をピンと立てて厩舎の中から飛び出してきた。
「ね、かわいいでしょう?」
「とっても良く慣れてますね!」
動物の扱いになれている遊牧民族出身のハシ少年も認めるほど、エレミアはすっかりマダマに懐いていた。
甘噛みしてくるロバの口元をあやしながら、マダマはハシに鞍を乗せるよう手振りで示した。
「では行きましょうか。ハシも自分の馬に……」
「殿下。お出かけですか」
マダマがロバの鞍にまたがろうとしたその時。
屋敷の方から、かっちりとした軍服姿の女が小走りでやってきた。
ベリル=スマラクト三等警護官だ。
「私もお供致します」
「別にベリルがついてくるほどのことはありませんよ」
ぴしっと背筋を伸ばして随行を申し出た警護官に、マダマは渋い顔をした。
「どちらへお出かけですか?」
「ハシと一緒に、ツァガン族のテントへ行くだけです。今年生まれた子犬を見せてもらうんです」
「しかし何があるか分かりません。万一のことを考えて……」
進言している途中で、ベリルはマダマが手綱を握るロバに気付いた。
かっと目を見開いて声が咎めるような響きを帯びる。
「殿下、またそのロバに乗って外出されるおつもりですか!」
「『ロバ』だなんて呼ばないであげてください。この子にはエレミアという立派な名前がついています」
可愛がっているエレミアを悪しざまに言われて、マダマはますます不満そうな顔になった。
「何がいけないんですか。エレミアは下手な馬よりずっと賢いし、何よりボクに懐いているんですよ」
「しかしロバはロバです。殿下には、グロシュラリアという素晴らしい愛馬がいるではありませんか!」
女警護官が厩舎の方を指さす。
木製の頑丈な壁に儲けられた窓から、いつの間にかひょっこりと馬が首を伸ばして会話の様子をうかがっていた。
ベリルの言葉通り、立派な馬格の黒馬である。
「グロシュラリアはベリルがいつも乗ってるじゃないですか」
「私は調教のついでにお借りしているだけです! グロシュラリアこそは、大公夫人が殿下のために選りすぐって購入された乗馬ですよ」
抗弁しながら警護官は足早に厩舎の中に入っていった。
そしてすぐに、意気揚揚とした足取りの黒馬の口を引いて出てくる。
「ご覧ください、立派でしょう。殿下のお出かけにはやはり馬に乗られるべきです!」
目を輝かせながら、女警護官は熱弁を始めた。
「この風格! 顔立ち! 肉の付き方、脚の長さに毛並みの美しさ。そして言うまでもなく抜群の体力と咄嗟の脚の切れ味! どこを取っても非の打ち所がない名馬です」
「ベリルは馬の話になると良く喋りますね」
黒馬を推す女警護官の売り文句は、王子の心には響かなかったようだ。
ぎゅうっとまだ幼いロバの首筋を抱きしめて、マダマははっきりと言った。
「グロシュラリアは大き過ぎて、近所に乗っていくには不便です。やっぱりエレミアに乗っていきます」
「えぇっ!?」
ショックを受ける警護官の横で、『ヒヒン!?』と黒馬の方も同じく顔を歪めた。
「だってボクが乗り降りするのに、いちいち踏み台を使わなくてはいけないじゃないですか」
「で、では私が踏み台を持ってお供しましょう」
「いちいちそんなことする必要はありません」
「それでは、いっそ私が踏み台に!!」
「……何を訳の分からないことを言ってるんですか、あなたは」
必死になるあまり、とうとう地面に膝をつけて四つん這いになった警護官を見て。
ついにマダマは呆れ顔になった。
「やです。かっこわるいし、警護官とは言え女性を踏みつけにするなんて紳士のすることではありません」
「い、良い考えがあります。私が抱っこして殿下を鞍に乗せて差し上げましょう!」
「…………本気で言ってるんですか?」
憮然とした主人の表情を見て、警護官は自分の失敗を悟った。
「……結構。ボクはエレミアに乗って出かけます。これ以上の進言は無用です」
「行けません殿下! 王子がロバに乗って出かけるなど、領民に侮られます!」
「その心配は杞憂だと思いますが……」
「そんなことはありません! 王族は何より威厳と格式を大切になさるべきです」
言い争う主従をよそに、落ち着きなくその場で脚を踏み鳴らす黒馬をじっと見ている者がいた。
蚊帳の外に置かれてしまった、マダマのお供のハシ少年だった。
静かに沈黙を保っていたが、唐突にマダマに尋ねる。
「殿下。この馬、ハシが乗ってみても良いですか?」
「えっ?」
いきなり素朴なお願いをされて、マダマとベリルは毒気を抜かれたようにぽかんとした。
「あ、ああ。別に構いませんよ。ベリル、厩舎から踏み台を持ってきてあげなさい」
「いりません」
言うが早いか、ハシはグロシュラリアのタテガミを引っ掴むや、自分の全身のバネを使って両脚を振り上げるようにして爪先を馬の背に引っかけた。
そのまま手足の動きを連動させて、背中のまで自分の体を引き上げる。
まるで重力を無視したかのような俊敏さにマダマたちが呆気に取られる間に、頭よりもずっと高いところにあったはずの馬の背に楽々とまたがってしまった。
「す、すごい……!」
「き、騎馬民族恐るべし……!」
「はっ」
驚く主従に対して、別段誇るでもなくハシは馬に軽く合図を送った。
グロシュラリアは巨躯を軽々とひるがえして、庭先を軽く一周してみせた。
「……素晴らしい馬ですね、殿下!」
ハシ少年が顔をほころばせる。
年端もいかない男の子の騎乗ぶりは、マダマもベリルも声を失うほどの見事さだった。
「すごい力だし、反応も速いです!」
「……そ、そうでしょう。グロシュラリアはまさに王侯が乗るための馬ですからね」
誤魔化し笑いを浮かべながら、マダマはうんうんとうなずいた。
「じゃあ、グロシュラリアはハシが乗っていきなさい」
「良いんですか? ありがとうざいます、殿下」
「ボクはエレミアに乗っていきますから。行きましょう」
「はい、殿下」
警護官が驚いているスキに、マダマは通常通りの乗り方でロバのエレミアの上にまたがっていた。
「で、殿下! 私もお供を……」
「いりません。ベリルは留守番していなさい」
「そんな……!」
警護官は手を伸ばしてすがろうとするが、マダマがさっさとロバを歩かせ始めたせいで空気を掴むばかりだった。
ハシ少年を乗せたグロシュラリアが軽い足取りでその後を追った。
久しぶりに主人と出かけられて嬉しい様子だ。
「ちょっ! グロシュラリア、おまえっ……!」
ベリルは眉を逆さにしたが、主人から言いつけられた以上無理についていくこともできない。
ただ黙って見送るしかなかった。
「……裏切り者」
恨み言をつぶやいてみても後の祭りである。
領主館の丘を、先にロバのエレミアに乗ったマダマが、後から巨大な黒馬に乗ったハシ少年が着いていく姿が見えた。
傍から見るとどっちが主でどっちが従だか分からない光景である。
「殿下……」
玄関先には、ぽつねんと警護官ひとりが残された。




