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マダマ、怒りのオズエンデンド(2)

「なんだあれは……」



 恒久的な建築物を造る習慣のない遊牧民のツァガン族にとって、それはとても奇妙なものに見えた。

タテに長い直方体の箱型の建物だった。

正面側には蝶番とドアがついていることから、人が出入りする用途なのは見て取れた。

頑丈な木製で高さは2メートルを超える程度。



「……小屋にしては狭いな?」



 ツァガン族が首をひねったのは、その狭さゆえだ。

床面積は狭く、2メートル四方もない。モノを収容したり人が寝起きするのにはあまりに狭すぎる。

しかも床下の部分に何か空間があるのか短い階段まで設けられているものの、基礎打ちはされていない。移動を前提としているらしかった。



 一体何のために造られたものなのか。ツァガン族はにわかに騒ぎ始めた。



「農耕民が建てる小屋のようだが……」

「それにしては狭いし、何も入ってないぞ」

「まさか拷問道具とか……。あの中に閉じ込められたら辛そうだ」

「でなければ処刑台!? 血が飛び散らないように囲っているのじゃないか!?」



 恐ろしい想像が脳裏をかすめ、2万人の群衆が騒然とし始めたころ。



「公爵閣下だ!」

「神様もおられるぞ!」



 一か所から沸き起こった声に、ツァガン族一同ははっと慌てて地に膝をついた。



「おはようございます。……そういちいち、ひれ伏さないでも良いですよ」

≪下にー、下にー!!≫



 偉そうにふんぞり返るタヌキに先導されるようにして、領主館の女たちを引き連れたマダマが到着したのだ。



「良く集まってくれました、ツァガン族の皆さん」



 群衆を抜けて奇妙な建物の前にまでたどりついたマダマは、ツァガン族に向けて対峙した。

いつぞやレセディが作ったフェルト製のメガホンを両手に抱えて声を張り上げる。



「これは布告です。良く聞こえなかった人や聞き返したい人は、前列近くにいる人たちに教えてもらうようにしてください」



 文字というものを持たないツァガン族は神妙な顔で何度もうなずいた。



「今日から皆さんにあるあるルールを守ってもらいます!」

『……ルール?」

「掟のことです! 単純で、とても分かりやすく、すぐに実行できるものです! ファセット王国では子供だってみんな守っています!」



 マダマは一層声を張り上げながら、建物の短い階段を登った。

木製のドアを開いて群衆に中の様子を見せる。

室内には何もなく……。ただ陶製の椅子がぽつんと一つ置かれていた。

座板には丸い大きな穴が開いていて、どうやらそこから床下の空間につながっているらしい。



『何なんだ、あれは……?』



 見たことのない設備にツァガン族は表情を険しくした。

公爵は一体自分たちに何を要求しようというのだろう。



「ボクが命令するのは、たった一つの単純なことです!」



 冬の朝の空気の中、公爵は額に汗をにじませながら叫んだ。



「お通じが来た時は、この中で用を足すこと!!」

『……』


 ツァガン族2万人が静まり返った。

質量を持っているかのような、重苦しい沈黙が荒野に満ちる。

やがて群衆から驚きが通り過ぎ、ぽつぽつと身近なものと相談し合う声がざわめき始めた。



「……どういうことだ?」

「決まった場所で用を足せって言ってるぞ」

「何を言ってるんだ一体?」

「用を足すって……つまり小さいのを出したりとか大きいのを出したりとかそういうことだよな? オレの標準語間違ってる?」

「はい、静かに!」



 頃合いを待ってマダマが再度呼びかける。

ツァガン族は一気に静まり返り、背筋を伸ばして続く言葉を待った。



「これは皆さんが今日から死ぬまで使う設備です! 名前をトイレと言います!」



 建物を示しながら懸命に訴えるマダマに対して、ツァガン族の群衆は一様に困惑混じりの表情でつぶやいた。



『……トイレって何?』



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 演説するマダマさまの近くで領主館の面々と並んで立ちながら、私は溜息をついてしまった。



「なんてこと……文化が違うわ!」



 うすうす分かってはいたことだが、ツァガン族の反応を見て確信に変わってしまった。

トイレを設置するのは人類普遍の文化だと思っていた認識が甘かった。



「ねえレセディ、今の本当!?」



 隣のモルガナまで目を丸くしている。



「本当にトイレを知らなかったの、あいつら! やっぱり蛮族ね!」



 草原を一年中移動して暮らす彼らには、恒久的な建物を造る考え自体がない。

それはトイレや便所や厠という、定住民には当たり前過ぎて意識しない設備も例外ではなかったのだ。



「私も知らなかったわ……。連中は一か所に長くとどまらないから、その辺の草原にしちゃってもすぐ引っ越して困らないんだろうけど」

≪あと乾燥した草原だからな。あっというまに乾いて疫病の原因にもならねーんだ≫



 憮然とした顔のタヌタヌが足元から見上げて捕捉してきた。



(じゃあ出たものはずっとそのまま?)

≪土に返るか、何かの生き物が食べてすぐ綺麗になるんじゃねーの?≫

(他の生き物って? 犬とかカラスとかタヌキとか?)

≪草原にタヌキはいねーよ≫



 などとひそひそ話をしている間に、マダマさまは両手を振り上げてツァガン族を説得している。



「何もないだだっ広い草原で生きてきたあなたたちに、そういう習慣がないのは理解しています。でもこれは必要なことなんです!」

『どういうこと?』

「まず衛生的ではありません! それにオズエンデンドでは人の土地で用を足すのはとても失礼なことなのです!」



 喋っていて興奮してきたのか、マダマさまの口調はどんどん速くなっていった。



「特に! これはとても重要なことですが! ボクの家である領主館の庭で用を足していくのは、金輪際やめなさい!!」



 そうなのだ。

マダマ様を激怒させた最大の要因がこれである。



「確かに『陳情や要望があったら領主館を気軽に尋ねて良い』と言ったのはボクですよ! でも待ち時間や一仕事終わった後に、庭や玄関先で済ませていくのは二度としてはいけません! 次に見つけたら厳罰に処します!」



 住民が増えたら当然トラブルやもめごとだって増える。

ツァガン族の連中も井戸が足りないだの隣の部族と境界線で揉めただの、種々様々な用で領主間の窓口をひっきりなしで訪れるようになっていた。

当然利用者が増えたら出るものも出るわけで……。

しかも彼らは領主館のトイレを利用しようとはしなかったのだ。



「ボクが自分の庭でウン○をして良い許可を出したのは、このタヌタヌだけです!」



 興奮冷めやらぬ様子でマダマさまは野外トイレの階段を降りると、さっとタヌタヌを抱き上げた。



≪そうだそうだ!≫



 普段は抱っこが嫌いなタヌタヌもこの時ばかりは同調してみせる。



「知らない人間にためフンをされたタヌタヌの身になってみなさい!」

≪誰だ! オレのウ○コの上から自分の○ンコを重ねがけしやがったやつは! 手を上げて正直に出てこい! ……ぶっ殺してやる!!≫



 腕に抱かれたタヌタヌまでキバを剥き出しにして怒っていた。

私としてはタヌタヌにも庭先で済ませるのはやめてもらいたいところなのだが。



『知らなかった、そんなの』



 曇天の空のように、ツァガン族たちは動揺しどよめいた。



「ファセット王国じゃ風を感じながら用を足す習慣はないのか?」

「定住民は決まった場所でするのか、毎日!?」

「あんな狭いところでするのは鬱になりそうだ」

「それより臭いがこもりそう」

「黙りなさい、文句は許しません!」



 一喝したマダマさまは、タヌタヌを連れて再び階段を登った。



「良いですか! まずもよおしたら、漏らす前にトイレの中へ入ります!」



 公爵によるトイレの使い方の説明が始まってしまった。



「ズボンを下ろして。そしてこのように、陶製の椅子に座ります」



 マダマ様はタヌタヌを陶製の椅子の上に座らせた。

異郷の邪神像の神棚のような妙な光景である。



「汚さないように用を済ませます。出したものは下の槽に溜まるので、一定期間で汲み取って処分します」



 村の大工さんたちに造らせた野外用の仮設トイレの仕組みだ。

単純だがそれだけにすぐに数を増やせるし安価である。

汲み取りで仕事も造れるし、何より衛生問題的に絶対に必要だったのだ。

2万人の人間が野外で出す下のもので疫病が流行した、なんて笑い話にもならない。



「そして備え付けの古紙を使って、ちゃんと綺麗に拭いてから外に出る。これはオズエンデンド住民が守らなければならないルールです!」



 神妙な顔で、2万人のツァガン族は食い入るように新しい生活方式の説明を受けていた。

こんなたくさんの人間が真剣にトイレの使い方を説明される様子を見るのは、多分私が何度生まれ変わってもお目にはかかれないだろうなと思った。



「分かりましたね、今日から守るように! この野外トイレはまだ10ほどしか造れていませんが、これから領内にどんどん数を増やしていきます!」



 締めくくったマダマさまに対して、2万人分の拍手が沸いた。

領主の布告はこうして平和に終わった。



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「いやー、良かった良かった」



 領主館に戻った私は大きく息をついた。

またぞや何か問題が起きるかと思ったが、ツァガン族の連中が思ったよりも素直に聞いてくれたので一安心だ。



「これで何とか問題は解決ね」

「そうね、まだまだトイレの数は少ないからすぐには無理だろうけれど……一回慣れたら平気でしょ」



 マダマさまほど激しい怒りは持ちはしなかったが、私たちにだって外で垂れ流されるのはゴメンだ。

衛生的にも美観的にも万々歳である。



「………あら殿下。帰ったばかりなのに、もう出かけるの?」

「タヌタヌの散歩がてら、ちょっと出かけてきます」



 外套を着直しながら、マダマさまは真面目な顔で言い切った。


「どこへ?」

「領主自らの巡回です。ツァガン族がちゃんとトイレを使っているか見回ってきます」

「……ある意味平和な領地ねぇ」



 つぶやきながら少年を送り出した。

こんな理由で領主が領民を見て回る領地はファセット王国広しといえどここしかあるまい。



 ……とにもかくにもこれで問題はひとつ解決だ。

部族同士の居留地の範囲のもめごととか、水源の確保とか。そうした問題に専念できる。

私は肩を回しながら、たまった書類を片付けるべく執務室代わりのリビングに向かった。



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 ……が、甘かった。



「明日の朝、もう一度ツァガン族を集めてください!」



 領主館へ帰ってくるなり、頬を紅潮させたマダマさまは涙目で訴えてきた。



「ええっ、また?」

「良いから早く! もう、あの連中ときたら!」



 珍しく地団駄を踏みながら、マダマさまは天を仰いで嘆いた。




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『今度は何だ!?』



 また翌朝同じ場所に集合させられたツァガン族は、今度はピリピリとした空気で不満を隠そうともしなかった。

昨日とは打って変わってどこかうんざりした顔で領主を注視している。



「言う通りちゃんとトイレを使ってるぞ!」

「何がいけないんですか!?」

「私たちをいじめないで!」

「いじめてなんかいません!」



 メガホンを手にマダマさまも叫び返す。



「違う文化と共存するのはとても難しいことだと分かりました! でもボクは諦めません、粘り強く説明します」



 一拍置いて、マダマさまは後悔したように唇を引き結んだ。



「……今思えばボクの説明の仕方も悪かったからです!」



 そう言って、タヌタヌを連れて再び野外トイレへと向かった。

昨日した説明を繰り返すようにトイレの中へ入る。



「良いですかみなさん! 入ったトイレでは……」



 タヌタヌを便座に座らせると、マダマさまは表側に出てドアを閉めた。



「使用中はこのようにドアを閉めなさい! 必ず、絶対にです! 開け放して使ってはいけません!」

『…………』



 ツァガン族はぽかんとした。

 


『……なんで?』

「理由を説明する必要はありません!」

『雨や雪が降ってなくても?』

「あらゆる天候下で、です!」

『どうしても?』

「どおおおぉぉぉしてもです!!」



 こうしてオズエンデンドのトイレマナーは、領主の独裁によって住民たちに強制されることになった。

我ながらひどい話だと書いてて思いました。


感想ありがとうございます!

返事はできていませんがとても励みになっています!

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― 新着の感想 ―
[良い点] うんこ話すきですねー笑 私も好きですが
[良い点] 非常に面白い!!私はいつもこの小説の新しい章を楽しみにしています。応援します! ❤️❤️
[良い点] こういう「汚い話」はレセディのお家芸だと思ってたのについにマダマ様まで…w
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