オズエンデンド領主誘拐事件(7)
「わっ、わっ! わっ!?」
《ひぃぃぃぃぃぃ!!》
短く聞こえてくるのが自分の悲鳴なのか、頭の上のマダマの悲鳴なのかももうはっきりしない。
乗せられている馬のタテガミの向こうに見える景色が、目まぐるしく上下する。
疾走する馬は山を越え、傾斜を駆け降り、沢を飛び越え、木々の間をすいすいと縫っていく。
《怖ぇぇぇ!!》
馬に乗るのがこんなに怖いことだとは思わなかった。
これが牧場の中だとか平地ならともかく。
とても道とは言えないような不整地のど真ん中を、平気な顔をしてツァガン族のグループは疾駆していく。
《下ろして――――――ッ!》
もちろん拉致されたオレとマダマの意思は無視して、である。
ガクガクと三半規管を揺らされ続ける中、俺は必死に鞍の上にツメを立てていた。
上からマダマが覆いかぶさるようにして鞍にしがみついていくれてなければ、とうに振り落とされていても全くおかしくないところだ。
「危ないぞ、その姿勢は」
すぐ背後から冷静な声がした。
ジェットコースター並みの危険な馬の操り方をしているというのに、乗り手のアルトゥの声には全く緊張も不安も混じってはいない。
「背筋を伸ばせ。ずっとそうしてると反動を吸収できずに、頭を殴られてるのと同じになるぞ」
「そ、そんなこと言われたって!」
「口を閉じてないと舌を噛むぞ」
「えぇ! どうすれば良いんですか!?」
《怖い怖い怖い!》
時速数十キロで馬を走らせている時にする会話の内容ではないと思う。
彼ら騎馬民族にとっては、この強行軍もおしゃべり混じりの早朝ランニング程度の感覚らしい。
《神様―――! ……って、おっ?》
一体どの程度の距離を、どれくらいの時間、どっちに向かって走ったのかも分からなくなったころ。
急に視界が開けて、空を飛んでいるかのように上下動を繰り返していた視界も落ち着いてきた。
馬がスピードを緩めたのだ。
「着いたぞ」
「ここは……?」
マダマと一緒におそるおそる顔を上げて、辺りの様子をうかがう。
いつの間にか山を越えていた。
川沿いに広がる開けた河原に出たようだ。
「すごい……。テントがこんなにたくさん」
《ちょっとしたもんだな、こりゃ》
河原一杯に大小いくつもの移動式住居……ユルトが立ち並んでいる。
これが彼らツァガン族とやらの本隊らしい。多分100近い数のテントが張られている光景はちょっとした奇観だった。
感嘆の溜息をもらしたマダマが、きょろきょろと周囲の地形を見渡し始める。
「山を越えてきたっていうことは……ここはもうオズエンデンドを過ぎて、他の領邦ですね」
《ってことは結構な距離進んできたのか》
「どこの貴族の領地かまでは分かりませんけれど」
川や山の自然地形が行政区分の境界線なのはファセット王国でも変わりないらしい。
道なき道を突き進んでこられて、オレもマダマもぐったりと背中を丸めた。
「何もこんな速度で来なくても……」
「これでも緩めたんだぞ」
「えっ」
「これ以上早くするとお前のロバがついてこられないからな」
「えぇっ?」
《……何それ怖い》
振り返ると、手綱で曳かれているロバのエレミアも最後尾になんとかついてきていた。
相乗りさせられた俺たちと同じように無理矢理連れてこられたのだ。
こんなペースで山や谷を走らされたのは生まれて初めてだろう。
流石に足取りが重い。
「みんな、戻ったぞ! 食べ物も少しだが手に入った!」
アルトゥが声をかけると、辺りのテントからわっと人が飛び出してきた。
口々に何かを叫びながらこっちに向かって手を伸ばしてくる。
「わっ、わっわっ!」
《な、なんだなんだ! 寄るな、シッシッ!》
男も女も混じっていて、みんながアルトゥと同じような格好をしていた。
切実な表情で何事かを訴えてるようだ。
「今はダメだ、分配は長老たちがする! 老人や病人がいるところから優先だ。順番に配るから規律正しく待つんだ!」
アルトゥが一喝すると、ぴたりと彼らは喚くのをやめた。
物欲しげに見上げてはくるものの、不平を漏らすやつはおらずみんな静かにしている。
オレはてっきり彼女はこの偵察隊のリーダーなのだと思っていたが、どうやらこの部族の中でもかなり信頼を置かれている存在らしい。
「みんな必死ですね……」
《まだ抑えが効くだけマシかもな。本当に飢餓状態だったらこんなもんじゃすまねーぞ》
マダマがぶつぶつ独り言を喋るのにいちいち勝手に答える。
もちろんマダマは俺が喋れることを知らないし、返事も聞こえていないから会話になっていないが。
オレだって正直何か言っていないと不安なんだ。
「本当に食べるものにも困ってたんだ……」
《しかし、500人からの人間がいるんじゃ、あの食い物だけじゃとても足りないだろう》
小麦粉やら保存食やらせいぜい50キロ程度の食糧が、この人数に行き渡るはずもない。
領主館がすぐに用意できてなおかつこの偵察隊がすぐに運べる量となるとこの程度が限界だったが、焼け石に水といったところだ。
速やかに他の供給先を見つけなければこの集団で規律を維持するのも難しくなる。
「なんとかしてあげたいですね……」
《というかなんとかしないと、こいつらが本気になったらオズエンデンドなんかあっという間に全滅だぞ》
当たり前のようにそれぞれのテントの外で複数頭が放し飼いになっている馬たちを見て、思わずヒゲをぴくぴくとさせていた。
さっきも思い知らされたが、この連中は馬の鍛え方も操り方も農耕民族のそれとは次元が違う。
武器を持たせて馬に乗せれば、それだけで精鋭騎兵隊の出来上がりだ。
軍隊どころか、ろくな治安組織すらないオズエンデンド公爵領にその侵攻と略奪を防ぐ方策などあるはずもない。
「みんなよけてくれ! 長老のテントに戦利品を届ける!」
アルトゥが良く通る声で指示すると、群衆は二つに分かれて道を開けた。
その間を偵察隊の馬が歩いていく。
彼女が言う戦利品の中にはマダマとオレも含まれているに違いない。
「……ハシ!」
短くアルトゥが叫んだ。
何かと思って顔を上げると、名前を呼んだらしい。
群衆の端っこに紛れてこっちを見上げていた男の子がぱっと近づいてくる。
「おかえり、アルトゥ! その子は誰?」
丸顔の男の子は、オレにも分かる言葉で尋ねてきた。
歩く馬に並んだ男の子に向かって、アルトゥはそっと腰をかがめて耳打ちした。
「お客さんだ。それよりお土産があるぞ」
「本当!?」
「後でみんなを連れて、私のテントへおいで」
「分かった!」
パッと頬をほころばせて、男の子が走り出していった。
仲間を呼びに行ったのだろう。
「……あの子は、大陸標準語が喋れるんですか?」
「あの子は喋る方も得意だ。聞き取るだけならここにいる大体の人間ができるぞ」
そういえばさっきからオレたちにも分かるような言葉で喋っているし、周りの人間も理解して従っていた。
「私たちは国境とか良く分からないし、常に色々な相手と交易するからな。言葉も自然と複数使えるようになるんだ」
「でもこの一緒に来た人たちは、昨日から標準語を喋ろうとしませんでしたよ!」
《そうだそうだ。何言ってるか全然分からなかったぞ》
マダマの指摘に、アルトゥは興味無さそうに返した。
「大人の男は、標準語を自分からはあまり喋りたがらない」
「どうしてです?」
「こだわりらしい」
「こ、こだわり……?」
《あー。何か分かるわ、オレ。おっさんほどどうでも良いことに意固地になるやつ》
現代日本でも散々見てきた習性だが、まさかこんなファンタジーな世界の中でもそっくりそのままだとは。
《…………ん?》
居並ぶ群衆が、どういう訳だかみんなこっちに視線を送ってきている。
最初はアルトゥに連行されるマダマが珍しいのかと思ったが、それにしては視線が低い。
《なんだよこいつら。ジロジロ見てきやがって。タヌキが珍しいのか?》
どうもオレに向かって熱っぽい目を向けているらしかった。
妙にみんなキラキラと瞳を輝かせて、中には手を合わせだしたやつまでいる。
「みんなタヌタヌのことを見てますよ?」
《……ふーむ。どうやらオレの美しさに見とれてるようだな!》
やっぱり分かる奴には分かるのだ。
レセディのやつがあんまりにもひどく言うのでこっちの自己評価にも影響されてきてしまっていたが、単に見る目がなかっただけじゃないか。
《ちょっとサービスしてやるか》
すっくと体を起こすと、一番イケメンに見える角度でアゴを伸ばしてみせた。
こうしてやると自慢の首輪も良く見えてさらに威厳が増すのだ。
おおっ、と群衆から歓声が沸く。
《……こいつは気分が良いな!》
大衆に向かって愛想を振りまいてやっていると。
アルトゥは群衆を突っ切って、集落の中央にあるテントの前で馬を止めた。
居並ぶ部族のテントの中で、そのひとつが一際大きい。
昨日荒れ地で泊まったような簡易なものとは違って、柱も横木も本格的な工具を使って組み合わせるのであろう大型の移動式住居だった。
「降りろ。長老のテントだ」




