軍靴の響き(5)
《おいおい、大丈夫かよ。こんなところまで来て》
小悪魔の三姉妹から逃げるようにして、海岸から離れること小一時間。
ロバに乗ったまま集落とはずっと逆方向に進み続けて、いつの間にかオレたちは山の中に分け入っていた。
人の気配はしないし、道だって草を踏み固めたようなほとんど獣道に近いようなところだ。
流石にこっちも不安になってきた。
「この辺りは街道も通ってないですし、人もほとんど通らないようなところです」
《あぶねーじゃん》
「こういう場所を詳しく調べるのが、ボクたち探検隊の使命ですよ」
俺の気も知らないで、王子様はまだまだやる気満々のようだ。
うんざりするほどのバイタリティである。
《猛獣に襲われたりしないだろうな……?》
そういや前に海岸で、モリオンがクマのフンを見つけたとか言っていた。
まさかどこからその辺の枯れかけた茂みの中からこっちを狙っていやしないだろうな。
クマから見ればロバと子供とタヌキの一行なんてオヤツ感覚のちょろい獲物だろう。
ついつい何度も振り返って警戒してしまった。
《……?》
自分でもうまく説明できないが、なんだか背中側に軽い違和感を感じた。
意思とは関係なしに尻尾の付け根あたりの毛が逆立ってしまう。
《なんだかおケツのあたりがムズムズするぞ》
まさかヤブの中からダニかなんかが飛んできてくっ付いたんじゃなかろうな?
冬だし大丈夫だとは思うけれど。
一応帰ったらレセディに調べさせようっと。
「ここもボクの領地の中、いわば自分の庭のようなものです。ちゃんと把握しておくのも領主の務めですよね」
《それは良いけど海から離れてどうするんだ。標高を測るんじゃなかったのかよ》
「あの山がこのあたりで一番高い山みたいですよ、タヌタヌ」
マダマは切り立った山が続く連峰の中でひときわ目立った一角を指さした。
《まさか登頂するって言い出すんじゃないだろうな……?》
ざっくりと巨人が粗削りに切り出したような尾根を曇り空を背景にして見せつけている山々は、どれもかなりの急峻で威厳すら感じられた。
とても気軽に登れるような山ではない。
こんなロバ一匹と子供一人で挑戦するようなレベルではないのは明白だった。
「標高はまた今度ちゃんと調べるとして、どこにどんな山があるのかを大まかに書き出していきましょう」
《ああ、そうしろそうしろ。それなら安全で良いや》
流石に杞憂だったらしく、マダマはリュックから鉛筆とノートを取り出すと、山頂や谷の形をぐにゃぐにゃした線で書き出し始めた。
これならピクニックでお絵描きするのと大して変わりはない。
好きにさせておいても問題ないだろう。
「うーん……」
熱心に山の形を書きこんでいたマダマだが、途中で首を捻りだした。
《なんだ、どうした》
「山の名前が分かりませんね……。そもそも名前がついてるんでしょうか?」
眉をひそめたマダマは、やおらぱあっと目を輝かせ始めた。
「もしまだ名前がついていないんだとしたら、ボクが名前を付けてもいいはずですよね!」
《バカな遊びはやめろ!》
いきなり危険なことを始めだしやがった。
歯を剥いて制止する俺に構わず、マダマは嬉しそうに恐ろしい呪いの言葉を吐き出し始める。
「なんて名前を付けましょうか。マダマ山……エレミア山……タヌタヌ山……」
《お願いだからオレだけは巻き込むな!》
「タヌタヌも自分の名前が付いて嬉しいんですね!」
《やーめーてー!!》
じたじたと前足を動かして懇願したが、違う意味に捉えられてしまったようだ。
マダマは愉快そうに体を揺らした。
「あっ」
その拍子に。
リュックのベルトに引っかけていた測量棒の腕木が、斜面から張り出した木の枝に引っかかってしまった。
長い耳を揺らしているロバが背後で起きたことなど気にせず歩き続け、測量棒はぐらりと揺れて地面へと落ちてしまう。
「あっ、グローマがっ!」
《わっ、バカ!》
『――――――ッ!』
いきなり背中で主人が振り返って手を伸ばしたせいで、まだ体のできあがっていない若いロバはどんな指示なのか判断できずに慌ててしまったようだ。
急に足をバタバタと踏みかえて、その瞬間にバランスを崩してしまった。
ただでさえ残った雪と小石で路面の悪い斜面の道だ。
ヒヅメが滑って、ロバの足がもつれてよろめいてしまう。
「きゃあ!」
《わっわっ!》
山道でたたらを踏まれて、俺は慌てて鞍にしがみついた。
本当だったら手綱を操って制御しなければいけないマダマまで小さく悲鳴を挙げて固まってしまったせいで、ますますロバは混乱した。
ぐらぐらと視界が揺れた。
山道の下に続く急斜面が、重力を無視してぐぅっとせりあがってくるような気分にさえ襲われる。
――――――落ちたら死ぬ。
そう意識した瞬間、タヌキの本能か四肢はコチコチに固まってしまった。
気絶しなかったのが自分でも不思議なくらいだった。
《――――――あっ?》
真っ白になった頭で、辛うじて視界の片隅に「何か」が動くのが見える。
正確に言えば「その何か」がものすごい速さで動いた後だ。
その「動作そのもの」ではなく、「動作の結果で」斜面の雪が水滴のように跳ね散るのが、コマ送りのように鮮明に見て取れた。
一拍遅れて、揺らいだ空気がオレの耳元の白い毛を揺らしてくるのが感じられた。
近くで何かが動いて、それが起こしたそよ風が毛先を撫でたのだ。
次いで視界がいきなり安定する。
「……えっ」
《ん? ん? 何だ、何が起きた?》
突然ロバが体を揺らすのを止めた。
唐突過ぎて安心するよりも先に戸惑ってしまう。
まさか自分たちは即死して、あの世にいきなり送り込まれたのではなかろうか?
不吉な予感を確かめるべく、おそるおそる顔を上げた。
《……えっ?》
知らない腕が伸びてきていた。
鞍の上ですくみ上っている少年のものとは別の、長袖の毛皮に覆われた腕が空中から生えている。
その腕がしっかりとロバの口を通したハミを掴み、引っ張って落ち着かせるとともに力を添えて瞬時に姿勢を安定させていた。
一瞬で信じられない芸当だった。名人芸と言って良い。
「……ハッ!?」
《……だ、誰?》
もちろん何もないところに腕が生えるわけがない。
空中から伸びてきた腕の先には丸い肩があり、その先に小柄な体格の持ち主が冷ややかな視線で俺たちを見下ろしている。
ロバの上のマダマよりもなお上からの目線なのは視線の主が巨人なのではなく、ロバよりも遥かに背の高い馬の上に堂々と腰を下ろしているためだ。
「ど、どうもありが……」
「馬から落ちて死ぬ奴だっているぞ」
いったいどこから現れたのだろうか。
ついさっきまで人影一つなかった山道の中にいきなり現れた馬の主は、訳も分からず礼を言おうとする少年の口上をさえぎった。
「おまえ。自分の命よりも、あの木の棒の方が大事なのか?」
「……」
静かだが厳しく正しい言葉だった。
思わず委縮したマダマが息を飲むのが分かる。
一瞬オレも一緒になって叱られた気さえした。それくらい命令することに慣れている口調だった。
《……女?》
涼やかな声は男のものではなかった。
改めてよく見るとロバを瞬時に制した腕は細いし、体つきも細く華奢だ。
年のころで言えばレセディと同じか、やや若いくらいかもしれない。
しかし外見はまるで違った。
俺はタヌキになってこの国に入ってから、軍人でもないのにズボンをはいた女というものを初めて見た。
頭には飾り紐のついた丸い帽子。
襟の高い上着は綿の入って分厚い頑丈そうな代物で、更に子羊の毛皮らしい裏地まで縫い付けていた。
その上、膝まであるブーツでがっしりと足元を固めている。
靴の爪先がそりあがっているのは、保温のために断熱材を入れているからだろう。
明らかにこの国の人間の格好ではない。
どころか恐らくは、平地に住む人間の装束ですらなかった。
高原地方の厳しい天候に対応した服だ。
「あ、あなたは……?」
「…………」
おそるおそるといったマダマの質問に、女は答えず冷ややかな目で観察を続けていた。
その色素の薄い瞳は、人種的にも遠く離れた地の出身であることを物語っている。
おそらくはこちらからは見えない山の斜面の上方にいながら、雪で滑りやすい斜面をあっという間に馬で駆け下り、少年の窮地を救った技量。
羊と獣の毛皮で固めた防寒具。
乗り手の足を乗せる馬具のアブミが鞍の真ん中に位置しているのは、走りながら立ち上がる時に姿勢を安定させるためだ。
そんな工夫をする必要があるのは、馬上から弓を射かけるため以外に考えられない。
全てが一つの可能性を示唆していた。
《――――――騎馬民族だ》
女の代わりに、俺がぽつりとその素性を口にしていた。




